第232話 平静、沈着、いつもと違う装い
ミレインへと向かう四人掛けの馬車に揺られつつも、シャルドネはいまだに自分が助かったことが信じられずにいた。
ガッチリとガードしてくれる三人の教会エージェントの存在があまりに都合が良すぎ、夢を見ている最中なのではないかとすら思えた。
しかし無事に市内へ到着し、今までは気後れして近づけなかった
夢の中でしか開けたことのなかった扉を、実際に開けることができるとは思わなかった。
リュージュという女の子と、デュロンという男の子のお姉さん、ギデオンくんの彼女さんの三人が、入浴や食事なども付きっきりでお世話してくれ、まるで王族にでもなったかのような心地がした。
明日の朝まで帰ってこないから使うといいと言って導かれ、入った部屋やベッドからは、確かにソネシエの匂いがする。それをたくさん嗅いでも、まだ夢は醒めない。
護衛とケアを兼ねて部屋に入り浸ってくれるというリュージュちゃんとオノリーヌちゃんは、最初から最後まで嫌な顔一つしない。
イリャヒとソネシエがどれだけ彼らに愛されているかが間接的にわかり、シャルドネは彼女たちに心配をかけまいと、枕に涙を擦り付けた。
そしていつの間にか眠ってしまっていたが、吸血鬼としていちおう若干苦手な朝日を浴びてムクリと体を起こし、乱れた髪を直してなお、やはりこちらの方が現実だった。
椅子に腰掛けたまま待機してくれていた二人のうち、起きていたオノリーヌが身じろぎして、疲れた顔に不敵な笑みを浮かべ、寝こけるリュージュの頭を撫でながら言った。
「おはよう、シャルドネ叔母様。わたしたちのことは気にしなくていい、今朝はもう一眠りが許されている。なにせ、ほら……上司が出張であるからして。
あなたの身柄は、もっとも信頼できる者に預けるけれど……ここが正念場だ。くれぐれも詰めを誤らないようにと、若輩ながら注意させてもらうのだよ」
「若輩だなんて……頭や心は、きっとあなたの方が年上よ。本当にありがとうね〜、オノリーヌちゃん。ぐす……わ、私、ほんとにダメかと思って……!」
「ああもう、泣かない泣かない。涙はあと十秒先に取っておきたまえ」
年下の女の子に宥められるのも慣れてしまった。
なのでもはや恥とも思わず、シャルドネは彼女の忠告に従い、形だけでも背筋を伸ばして部屋を出る。
廊下を歩き、ロビーへの階段を降りていく間に、心臓が高鳴りを増すのがわかった。
求めていた姿はまさに今、玄関扉を開けて、差し込む朝の陽光の中、颯爽と現れたところだった。
どんなに眩しくても眼を閉じず、シャルドネはそのままにっこり笑う。
対する二人は、まるきりいつもの態度で……ただし特別な言葉をかけてくれる。
「叔母様、良かった」
「おはようございます、シャルドネ叔母様。ご無事でなによりです。朝食は済まされてませんよね? よろしければご一緒にどうです?」
「う、ううう……二人とも〜、ありがとうね〜!」
残念ながら我慢は二秒しか持たず、たまらなくなったシャルドネは、逆光に向かって駆け出した。
しかし起き抜けで足元が定まらず、思いっきり転んでしまう。
「わっ!?」
我ながら情けなくも、衝撃に備えて眼を閉じるが……床に顔を打ちつける寸前で、小さな両手が支えてくれた。
眼を開ければその主と視線が合い、二人はそのまま自然に抱き合う。
シャルドネにとっては信じられない、奇跡のような場面だった。
腕の中には姪っ子の華奢な体があり、彼女の肩越しに顔を上げ、涙で滲む視界の焦点距離を少し伸ばすと、甥っ子が優しく微笑みかけてくる。
シャルドネは大人がしてはいけないレベルでぐしゃぐしゃの泣き顔になっていることを自覚するが、もうどうにもならなかった。
あのとき……10年前に言えなかったことも、今頃になって転がり出てしまう。
「ゔぇぇえええ〜……ご、ごめんね……助けてあげられなくて……! なのに、どうしてあなたたちは……私なんかの、ために……」
むずかるように体を揺らし、ソネシエがくぐもった声を発する。
「そんなことはない。お礼を言わなければならないのは、こちらの方。あなたがいなければ、わたしと兄さんは、二度と憎しみの中から立ち上がり、外を見ることなど、できなかったかもしれない」
一方イリャヒは帽子の鍔を下げて顔を隠しつつ、戯けた仕草と口調で促してくる。
「まあまあまあまあ。もういいでしょう、この話はここまで! 文字通り色々な意味で貸し借りゼロになったわけですし、今までのような余所余所しい態度は、お互いやめにしましょう。ね、叔母様?」
「じゃ、じゃあ、これからはベタベタに甘やかしていい? イリャヒくんのことはなんて呼べばいいかしら? イーちゃん? イリィ? リャンリャンくん?」
「うわっすごい距離の詰め方……え、えーと、そこは今まで通り普通でお願いします。というか、今までは甘やかしていなかったことになっているのですね……? あと鼻水を拭いてください」
あのイリャヒをちょっと引かせるというのは、我ながらなかなかやるなと思っていると、ハンカチを貸してくれるソネシエが、上目遣いにじっと見つめてくる。
シャルドネは自分がいちおう良家出身の息女的存在であったことを思い出し、顔面の水分量を調整する(婉曲表現)が、またすぐに溢れてくる。
しかし、いつまでも感傷に浸ってはいられないようで……イリャヒの後ろから現れた姿を見て、その柔らかいながら威厳のある声を聞いたシャルドネの背筋は、今度は意識するまでもなく自然に伸びた。
「ごきげんよう」
アクエリカ・グランギニョルは、前日に彼女の執務室で引き合わされたときとは、まったく別人のようなオーラを放っている。
それは単純に視覚にも因っていて、彼女は荘厳な青い法衣ではなく、色合いこそほぼ同じだが、豪奢なドレスを纏っていたのだ。
寮の談話室には不釣り合いな装いで、長い裾をまるで武器のように振りかざし、妖艶に微笑んで二の句を告げるアクエリカ。
「今のイリャヒのお話、一つだけ訂正させてもらうわね。貸し借りゼロというのは、少しだけ語弊がありましてよ。
なぜならこれから完璧にゼロにすべく、わたくしたちは動くのですから。
さあ、これもイリャヒの言った通り、まずは朝食を摂りましょう、シャルドネさん」
「ひゃ、ひゃい……」
実際は相手は年下であるにもかかわらず、シャルドネはまるで年端もいかない小娘が大人のお姉さんに見初められたかのように、縺れた舌で上擦った返事をするしかなかった。
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