第228話 だから奇跡は起こらない

 1526年(32年前)、リャルリャドネ家の末娘として生まれたシャルドネは、幼い頃から引っ込み思案で、なにをするにも要領が悪く、10歳年上の兄クイードからは、グズ、ノロマ、マヌケと散々な罵倒を受けたことを、今でも恨めしく思っている。


 しかしそれらは事実ではあると自認はしている。固有魔術の獲得すらもとびきり遅く、裏を返せば熟慮の結果ではあったのだが……この話はいいだろう。どうせ直接攻撃力は弱毒程度でしかなく、現に背広の男たちにまったく通用していないのだから。


 とはいえ、器量と気立てだけは良しとされた彼女は、当時から蔓延はびこっていた家格どうこうの気運に乗せられ、ふるい吸血鬼同士の繋がりを深めるためというただその一点のために、愛してもいない男に嫁がされた。

 だが、そこまではいい。ついぞ好きにはなれなかったが、何不自由ない生活をさせてくれた夫には感謝しているし、逆恨みなど抱くはずもない。


 だから、リャルリャドネではなくなってしまったのは、政略結婚へ安易に首肯した、彼女自身の責任なのだ。


 苗字など、帰属などどうでもいいと思っていた。しかし、夫の姓であるホーディングを名乗り始めたことで、唯一にして最大の弊害が生じた。

 12、3年前頃に乱心し、実子たちへ明らかな虐待を与えた始めた兄夫婦の、もはや彼らの城と化した実家に、二度と許可なく入れなくなってしまったことだ。


 旧い吸血鬼の習性を利用した、屋敷全体を覆うその結界は極めて堅固な論理強度を誇り、シャルドネの貧弱な魔術や知識では、突破の端緒も掴めなかった。


 それでもなんとか助けたいと、我ながらバカの一つ覚えで、何度も何度も性懲りもなく勝算もなく、ひたすら訪ねては扉を叩き、聞こえもしないのに窓越しに訴えた。


 自分でもわけがわからないくらいに涙が溢れたのを覚えているし、今でもたまに夢の中で同じことを繰り返す。

 バカバカしい限りだ。本当に辛いのは、イリャヒとソネシエ本人たちなのに。


「いい加減にしなさいよ、兄さん、義姉さん! あなたたちの子供だからって、なんでもしていいわけじゃないのよ!?

 その子たちの意見を、一度でも聞いたことがあるの!? 嫌だ、しんどい、楽に生きたい、愛……して、って! その子たちに言わせることすら、あなたたちにはできないくせに!

 私だって、なにもしてあげられないけど……少なくとも、その子たちを愛することはできるっ!

 もうあなたたちと話し合いが成り立つなんて夢は見ちゃいないわ、ただここを開けなさい!!」


 その頃には兄夫妻は家に勤める召使たちすら信用できなくなっていたようで、全員解雇し、警備には使い魔を充てていたようだ。

 彼らと同じ由緒正しき名家出身の成体吸血鬼であるにもかかわらず、シャルドネは彼らが放つ蝙蝠たちにすら魔術戦で敗北を喫し、泣く泣く逃げ帰ることを繰り返していた。


 再生限界に陥ることも少なくなかったが、この身など大した問題ではなかった。

 窓の外から見えるソネシエの表情が、どんどん人形のように死んでいっている。

 そしてイリャヒに至っては姿すら見えなくなっており、生死の確認すらままならない。


 仮に救出が可能とすればの話だが、いよいよその期限が迫っていることを、さすがの鈍臭いシャルドネも理解せざるを得なかった。

 もはや無策の突撃を繰り返すという暇なことをやっている場合ではない。

 採れる手段は一つしかないことに、ようやく彼女は思い至っていた。


 すなわち、あれだけ内心疎んじていたリャルリャドネ姓を取り戻すこと。端的に言うと離婚である。

 しかし……人間時代から良くも悪くも多くの制度や慣習を引き継いでしまっている魔族社会において、それは依然容易なことではなかった。


 恐ろしく難儀はしたが、夫や親族を根気よく説得し、なんとか彼らの了承を取り付けることはできた。

 しかし彼らが認めても、教会が認めない。

 いくら絶縁し別居状態になろうとも、契りを結んだ手は神が握っているのだ。


 そこで、多額の寄進という裏技が出てくる。比較的穏健だという当時のミレイン司教に、リャルリャドネとホーディングという二つの名を使って請願し、ようやく金の話にまで漕ぎつけた。

 だが、シャルドネの私財ではまったく足りない。これから別れようという夫と、肩代わりしてもらえるような絆など築いてはいない。

 彼女は非常に切羽詰まっていたため、借り入れという選択肢に飛びつかざるを得なかった。


 いや、正直に告白すると、当時の彼女は、金で済むなら安いものだとすら思っていた。

 かわいい甥と姪の命には代えられない……その判断に後悔はないし、それ自体は間違っていなかったと、今でも確信している。

 ただ、またしても彼女は少しだけ遅かったという、それだけの話なのだ。


「……え、嘘……?」


 晴れて離婚が成立したその日、元夫がシャルドネに唯一手渡したのは、彼が愛用する一丁だという、10年前当時ようやくちらほら出回るようになっていた、銀の弾丸が込められた拳銃であった。

 護身というのは違うかもしれない。汚名を着るなら哀れ、もろともに露と消えよという、遠回しな自殺幇助に過ぎなかったのかもしれない。


 しかしいずれにせよ、必殺の武器は火を吹く機会を与えられなかった。

 結界の通過を試みたシャルドネは、それがすでに解除されていることを理解し……慌てて屋敷内に駆け込めば、すでにもぬけの殻だったからだ。

 家財のいくつかがなくなっているが、物盗りの犯行という印象ではなく、消耗品のいくつかが取っ払われているという、奇妙に中途半端な状態を見て、当時は困惑極まったものだ。


「嘘、どこ……? イリャヒ、ソネシエ……?」


 結論から述べると不幸中の幸いにも、たまたま外を通りかかった付近住民に話を聞くことで、教会の手が入り、二人が保護されてことを知った。ようやくシャルドネは脱力し、その場に崩れ落ちることができる。


 その後の調べで、二人が支え合い、自力救済に至ったこともわかった。もちろんその具体的な手段も。

 あってはならないことだと、シャルドネは内心で断罪した……本当は私が割って入ってやるべきことだったのだと、彼女自身を。

 シャルドネは自分が負うべき罪を肩代わりさせ、彼ら自身に手を汚させてしまったというこの顛末を深く慚愧し、後悔した。


 しかし、そんな感慨に浸ることすらも呑気だと言わざるを得なかった。

 彼女が縋った高利貸しは、完済に10年という期限を設けた。

 もちろん温情で長く待ってくれたわけではない。が、一方で仮に良心的な利率だったとしても、シャルドネに完済が可能だったかはわからない。


 とにかくいつの間にか雪だるま式に膨れ上がっていた借金は、もはや彼女の手に負える範囲を遥かに超えていた。

 とはいえ彼女とてこの10年、なにもずっと寝ていたわけでもない。

 地の利ならぬ血の利は失ったが、必死で金策に走り、生活を切り詰めてきた。


 それでも返せる目処が立たないことに違いはなかった。

 もはや感覚が麻痺していたのだろう。そしてつまるところ、回らなくなった首に差し迫る鎌の存在を、現実として認識できていなかった。

 彼女もまたどこまで行っても、良家出身のお嬢様に過ぎなかったのだ。


 これも言うまでもないことだが、イリャヒとソネシエに相談するなどという選択肢は、彼女の中から最初に締め出されている。

 私はあなたたちを救おうとしたけど、間に合わなかった。そのせいで膨大な借金を背負ってしまったのでどうにかしてほしい。

 ……こんなこと、口が裂けて顔を一周しても言えるわけがない。恥知らずにもさすがに限度というものがある。


 そんなことを言われて、彼らがどういう気持ちになるのか……考えるだに悍ましい。

 だから、いいのだ。今、こうして荒野の真ん中で這いつくばり、誰にも知られず、借金のカタに身柄を攫われるという、惨めな結末を辿るのも、愚かなシャルドネに相応しい、用意された結末で……。


「あれ? お嬢ちゃん、泣いてるのかい?」


「……う、あ……?」


 男の何気ない指摘一つで、薄皮一枚の下に仕舞い込まれていた恐怖が、堰を切ってシャルドネに襲いかかってくる。


 嫌だ。死にたくない。誰かのものになどなりたくない。尊厳を奪われたくない。誰に買われるの? 私は私の形を保てるの? いったいどれだけ、どんなふうに苦しまなくてはならない? 嫌だ嫌だ嫌だ!! どうしてこうなった!? 親類の幸福を願うのにも資格が要るの!? 普通に生きたい、生きてほしいと思うこと自体が、シャルドネごときには分不相応だった? 寒い、苦しい。どうすれば良かった? どの時点でなにをどうしていれば、今あの子たちと食卓を囲んでいられたのか……そんなに難しい……もう嫌だ逃げたい、なに一つ上手くいかない! あんなに子供が欲しかったのに、私には……私が、悪いの……? 元夫にも詰られた……「たかが他者ひとのガキだろう」って、もしかして意味……!? 私が神に背いたってこと!? それはいつのこと!? 生まれたときからこうなる運命だったってこと!?


 奇跡など起きないことはわかっている。この期に及んであの子たちが勝手に察知し、救いに来てくれるなどと期待するほど、さすがにシャルドネも虫のいい思考回路はしていない。

 だが彼女は祈った。敬虔な信仰心ゆえではない。ただ弱さゆえに縋ったのだと、自分で理解している。


「だ、れか……たす、けて……」


 何不自由なく育ったからか、それとも誰からも顧みられなかったせいか……彼女がその類の台詞を発するのは、奇しくもこのときが生まれて初めてだった。


 そのか細い声を、神は聞いてなどいない。

 聞いたところで、「ふーん(感心)。まあ行けたら行くわ(失笑)」くらいが関の山だろう。


 だから奇跡は起こらない。起こるのは合理に基づく必然だけだ。


「……っ!?」


 初め、彼女は髭面の手下に殴られたのかと思った。しかしその感触は当て身と呼ぶにも優しすぎ、それでいて硬い筋骨を感じる。

 自分が敵意のないものに抱えられた……つまり保護されたことを理解したのは、眼前の光景からの類推でもあった。


「ぶげあっ!?」


 彼女に迫り、魔の手伸ばしていた髭面が、突如として現れ月を背に負い放たれた何者かの跳び蹴りにより、傍目にすら恐怖を覚えるほどの速度で吹き飛ばされたのだ。


 地に降り立ち、逆光から解放されたその影は、くすんだ金髪に灰色の眼をした、魔族社会の基準ではやや小柄な、ちょっと悪相なだけの、どこにでもいるごく普通の少年に見えた。


 だがその姿を見ただけで、背広の男たちの警戒が爆発的に強まり、それどころか怯懦すら混じるのが、感情感知能力などないシャルドネにも、はっきりと把握できた。


「そーいや、ソネシエが言ってたっけ……」


 呟く彼に対し、男の一人がほとんど衝動的に襲いかかった。

 無言無音の不意打ちだが、それでも隙を突けていない。


 少年は重さがないかのように再び宙へ翻り、相手の頭上に着地する。

 彼がようやく質量を思い出したかのように、背広は呆気なく地面に叩き伏せられ、永遠に自力で這い上がれない、巨大な蟻地獄と化した。


「……借金は踏み倒し、借金取りは踏み殺せばいいってよ。だからそうした。

 もう大丈夫だ、シャルドネ叔母様。アンタの身柄は、俺たち教会が預かる。

 三食昼寝とおやつ付きだぜ、平和ボケと激太りだけ覚悟しな!」


 少年が浮かべた凶暴な笑みに、しかしシャルドネは頼もしさしか感じなかった。

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