第227話 今夜の月は綺麗でしょうけど、その時君はそこにいません
寮に帰ったイリャヒとソネシエから説明を受けて、ヒメキアはやる気満々の様子を見せる。はりきりひよこ再び現る、であった。
「そっか……。あたし、がんばるよ! ソネシエちゃんとイリャヒさんが一緒なら、安心だからね!」
「急な話でごめんなさい。夜には向こうに着き、首尾よく運べば、翌朝には帰って来られる予定」
「と、いうわけなので、申し訳ないのですが、ヒメキアを一晩借りますね、ネモネモ」
厨房で働く
「仕方ないの、貸してあげるの! ヒメキア、帰ってきたら疲れているだろうし、お昼寝もしていいの! おやつもあげるの!」
「ほんとですかネモネモちゃん!? あたし三食お昼寝おやつつきですか!?」
「三食お昼寝おやつつきなの! ただし、延期になったソネシエのお帰りなさい会を明日の晩ごはんでやるので、そのときいーっぱい料理を作るの!」
「了解しましたネモネモちゃん! あたしそのために、明日帰ってきたら全力でお昼寝するよ!」
「おっけーなの! 健闘を祈るの! ではではあたしは失礼するのー!」
今夜の仕込みが残っているらしく、厨房へ引っ込んでいくネモネモを見送ったイリャヒは、ぽんと手を打つ。
「あ、そうでした。ラグラウルの子たちにも、延期の連絡を入れなくては」
『その必要はないよ』
どこからともなく聞こえた声に対し、視覚ではなく魔力感知に頼ると、イリャヒは藍色の
その色合いと禍々しい気配には覚えがあり、果たしてずいぶん苦み走った語調が飛んでくる。
『しばらくぶりだね、イリャヒくん。元気そうでなによりだ。記念に一回殺していい?』
「おや、さすがはブレント氏。もう新たな使い魔の運用を修得されたのですね」
投げかけられた悪意を無視してやると、肩透かしを食らった毒竜人は、家守の口に舌打ちをさせる。
環境が変わったことで心境の変化があった……というより、これが彼の素の物腰なのだろう。
仮面を外すのは健全で結構だと、イリャヒは自分を棚に上げて評価しておく。
『……まあね。しかしその最初の伝達事項が、これとは……。
いや、違うな。ソネシエくんが無事だったのは、めでたいことだ。素直に祝福しよう。
ただしイリャヒくん、敵にしろ味方にしろ、君がやたらと厄介な相手ばかり引き寄せるのは、君と君の固有魔術が背負う宿業ゆえだと理解するといい』
イリャヒは自分の指が無意識に、内ポケットに仕舞いっ放しの懐中時計に触れていることに気づいた。
ギデオンもそうだが、止まっていた時間を持つ者は、
「ご忠告痛み入ります。ご連絡もお願いしますね。よろしければあなたもご出席いただけませんか?」
『そうするのも悪くはないが、あいにく僕は忙しい。君ともう一人の誰かさんのせいでね。次に君たちと会うときは、君たちすら殺せる毒を携えているかもしれない。僕に関しては、そう認識することをお勧めするよ』
そのまま使い魔とのリンクを切ろうとしたようだが、思い直したのか、最後に一つだけ問いかけてくるブレント。
『……そうだ、イリャヒくん。僕の眼鏡はどうした?』
「もちろん責任を持って処分させていただきましたよ」
『だろうな……いや、いいんだ。もう未練があるわけじゃない。どこで、どんなふうに? それだけ聞かせてほしい』
イリャヒは真摯に答えようとした結果、なぜかとても抽象的な表現を出力した。
「有意義な場面で、無意義に破棄しました」
そこでようやく、ブレントが笑う気配を感じたイリャヒは、どこか安心を覚える自分に驚きを覚える。
魂の伴侶というのもやはり、単なる修辞表現に留まらないらしい。
『なんだい、それ? まあいいや。会の件、伝えておくよ。そして君を殺す』
「文脈繋がってます? いずれにせよ、ありがとうございます。ご機嫌よう」
家守が去ったところで、避けているわけでもないのだろうが、入れ違いに青い有翼の蛇が現れた。
アクエリカに言及しなかったということは、ブレントは彼女をまったく恨んでいないか、名前も口にしたくないくらい憎悪しているかのどちらかなのだろうが、前者だと思っておきたい。
『旧交を温めたところで、行きましょうか。あ、もちろん
今後はヒメキア派遣任務の際、そういう体制で臨むらしい。ひよこに異論はなさそうだ。
「は、はい! わかりました! みんなーっ!あっつまれーっ!!」
ヒメキアがわーわー言っていると自然に関心を惹くようで、彼女の猫たちが若干当惑気味にだが寄ってくる。
「あたしとお出かけしたい子、だーれだっ?」
わー! とヒメキアが迎え入れ体勢を取ると、他の11匹がフルシカトする中、クリーム色で顔と耳・手足と尻尾の先が黒い一匹が、真っ先に飛び込んで頬擦りした。ヒメキアは嬉しそうにその子を抱き上げて撫で回す。
「よーし、今回はミミちゃんを連れてくよー! 他の子たちは残念でした! またの機会にご一緒しましょう! するよね? また行こうね?」
他の子たちは別に行きたくなさそうだし、ミミちゃんも状況を理解している様子はないが、今日のヒメキア護衛お当番として拉致された。
ミミちゃんは最初はゴネていたが、移動用馬車の空いた席に彼女用のクッションを置くと、そこにおわしますことを許してくれたようだ。
「では、参りましょう! 出してください!」
イリャヒが御者を促すと、馬車はゆっくりと動き出した。
任地は東の森を抜けた先、誰も知らない小さな村である。
大切な者のいない世界など、残りカスだと以前に言った。
つまり宝が傍らにあるなら、世界一つも集落一つも、両天秤で吊り合うのだ。
仮にイリャヒの知らないところで、取り返しのつかない事態が起きていたら。
そのときはそっと指を組み、その者の無事を祈ることしか、彼にはできない。
イリャヒとソネシエが東へ発った、その日の夜。
ミレイン南部の荒野を、ボロボロの外套を纏った女が、必死で逃げ惑っていた。
「ハァ、ハァ……うあっ!?」
足を掬われ、転んで砂だらけになる彼女を、助け起こす者は誰もいない。
彼女を取り囲むのは、服装を臙脂色の背広で揃えた、明らかに堅気ではない大柄な男たちだ。
彼らの頭目と思しき髭面の一人が、厳つい見た目に似合わない、意外に優しげな声音で諭してくる。
「期限は来た。我らはただ取り立てるのみ。
恨んでくれるなよ? 我らを死神へと変貌させたのは、ひとえに貴様の不徳ゆえだ。
借りた金は返しましょうって、お母ちゃんに習わなかったのかい?
あー、俺らみてえな下賤な貧民と違って、お貴族様のお上品なお家じゃ、そんなこと教えちゃくれねえか!?
こんな状況に陥ること自体が、慮外も慮外! そうだよなあ、世間知らずのお嬢ちゃん!?」
しかし喋っているうちに粗暴な性根が剥き出しになり、手下共々哄笑する。
開けた場所であるにもかかわらず、彼らの声が岩場に反響する心地がして、彼女は眩暈を覚えた。
髭の男は楽しそうに、左手で腹を抱えてうつむき、落ちそうになった帽子を右手で支える。
「おっと、失礼したかな? だが俺にとっちゃ、あんたは十分お嬢ちゃんさ。精神年齢だけの話じゃねえ。その若々しい容貌があるなら、身売りは今からでも間に合うと思うぜ。もっとも、俺みたいな紳士じゃなく、真性の変態に買われちまう可能性は大だけどなあ!?」
恫喝の音圧で発生したかのように、風が彼女のフードを払い、青ざめた素顔が露わになる。
やや波打つ長い黒髪と、闇のように深い黒眼が特徴的な、驚くほど美しい長身の女性。
シャルドネ・リャルリャドネは、もはや絶望で唇を噛むことしかできない。
その様子がますます唆るようで、男は嗜虐で破顔する。
「まさかと思うが、今さら暴利がどうのと申し立ててくれるなよ、お嬢ちゃん。そんなもん、最初からわかってたことだ。そうだろ?」
彼の言う通りだ。こうなることは最初からわかっていた。自分一人で切り抜けることができると、どうして錯覚してしまったのだろう?
彼女の生涯は本来、こんなところで終わりを迎えるはずがなかった。
すべての発端は……やはり、10年前のリャルリャドネ家に遡る……。
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