第221話 蒼炎葬送

 最後の数段を踏み外して落下したイリャヒの体は、もはや物言わず、破裂した頭蓋から脳漿を撒き散らす。

 少し遅れて舞い降りた帽子が、無となった彼の頭部を虚しく覆った。


「う、そ……」


 力なくぺたんと座り込んだソネシエは、自分の発したその声さえ他者事ひとごとのように感じられ、眼前の光景が現実だとは、到底信じることができなかった。


 混乱した頭で、それでもなにか反証を得ようと、ぼんやりケヘトディの方を見た彼女は……奴が勝ち誇るどころか、警戒露わに歯噛みしている事実に、一筋の希望を見出した。

 どうやらそれは気のせいではなかったようで、奴は髪を掻き毟って悔恨する。


「しまった……! なにを私は、人間でも相手にしているような、生温い攻撃手段を採っていたんだ……!?」


 だが奴にとってはもう遅く、ソネシエにとっては再び救いの時間が訪れたことを意味していた。


 頭部を失ったイリャヒの全身が、なお〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉によって包まれる。

 これは彼が死んでいないというだけでなく、彼という吸血鬼の確殺条件の少なくとも片方であると判明した心臓を、以前ギデオン相手にやったと話していた、血管を魔術で満たす手法で守っているのだとわかる。


 やがて魔力による再生能力が稼働し始め、破損された塑像のような粗い断面を見せていた頸椎が盛り上がり、豊かな血肉が満ち、脊髄や神経が繋がり、肌や髪までが原状回復していく。


「ああ忌わしい、呪わしい……という怨嗟も、今だけは慎みましょう」


 弾け飛んだ眼帯を拾う手間は惜しみ、空っぽの右眼をウィンクするように閉じてみせたイリャヒは、それでもお洒落は忘れたくないようで、内側が脳漿でベットリな帽子を、構わずネチョリと被り、涼しい顔で微笑んだ。


「なぜだか少し、晴れやかな気分でさえあります……今、ハッキリしました。我々は己の血脈から逃れることなどできないのだと」

「リャル、リャド、ネェェェエエエエッ……!」


 血涙を流さんばかりに怒り狂い、歯軋りするのは、今度はケヘトディの番だった。

 互いに憎んだその高貴な血がイリャヒを死なせなかったことは、イリャヒにとっては僥倖でも、ケヘトディにとっては絶望でしかない。


 それでも即座に応戦体勢を整えたことは、荒事など門外漢の音楽家であるにもかかわらず、驚嘆に値する判断速度だった。

 対するイリャヒはもはや無言で、奴との距離を詰めていく。


 ソネシエは理解していた。結局ケヘトディは音の魔術による、五つの技を有していた。だがそれらは一度に一つしか使えず、同時に併用はできないのだ。

 以下、順不同。


 ①ケヘトディはイリャヒの平衡感覚を狂わせる。だが元から自分の貧弱な肉体を信用していない兄は、転びそうになった途端に魔力構築物である黒い皮膜の翼を展開し、目視と魔力感知を頼りに、低空飛行でまっしぐらに迫る。


 ②ケヘトディはイリャヒに衝撃波を浴びせる。だがこれは普通に射出するタイプの攻撃魔術であるため、軌道を〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉で防がれ相殺されてしまう。


 ③ケヘトディはイリャヒに強迫観念を押しつけようと試みる。だが苦痛から逃れるためには神託に従うより確実で手っ取り早い、「もはや術者だと判明しているケヘトディをブチ殺す」という方法がすぐそこに転がっているのだ。そちらに手を伸ばすに決まっている。

 ついでに言うと、もし欲をかいて一挙両得を狙い「ソネシエを殴れ」「デュロンを殺せ」などという命令を吹いているのだとすれば、治まりかけたイリャヒの怒りの火に油を注ぐ愚行以外のなにものでもない。


「ま、待て、イリャヒ、やめろ……!」


 鼓膜を破られたままでもあるまいに、兄はまったく聞く耳持たない。

 ソネシエも考察を続行する。


 ④ケヘトディは再びイリャヒの脳を音圧で握り潰そうと試行しているはずだ。

 イリャヒは今攻撃に意識を割いているはずだし、それも不可能ではないはず。


 ただし、相手の魔術抵抗力(これは魔力の量に比例するので、吸血鬼はすこぶる高い。ヒメキアは例外)を無視して体内へ直接致命傷を与えるという、この破格の攻撃には発動条件があると、ソネシエは、そしてイリャヒもすでに推察しているだろう。


 それはおそらく事前に、魔術でなく手ずから、ケヘトディ自身が奏でた音楽を、対象に聞かせること。

 共鳴現象に近い原理で破壊するため、相手の脳を震わせる固有の振動周波数を計測する、試し弾きの必要があるのだと思われる。


 この条件をイリャヒも満たされており、それゆえ一度は効いた。

 しかし一度脳が破壊されたことで条件がリセットされてしまった上、楽器類は結界突破時の第一波ですべて焼却されてしまっている。


 そしてもう一つの可能性として……魔族にとって脳は魔力の生産・出力器官だが、脳自体もある程度その影響を受ける。

 イリャヒはあまりの怒りで脳が熱を持ち変質したため、破壊される前後で固有周波数が別物になってしまった……のかもしれない。


 ⑤ケヘトディは音の振動でイリャヒの炎を消そうとする。だが……。


「はぺがぁっ!?」


 ついに至近に迫ったイリャヒは、ケヘトディの細面を鷲掴みにし、まだ残っていた柱に彼の後頭部を叩きつけた。

 開いた真っ暗な右の眼窩が晒され、左眼は紅に変色している。


「……ええ、どうぞお好きなだけ防御してください。ただ空間上に棚引くものならともかく、こうしてゼロ距離で顔面の穴という穴から侵入した炎にはどう対処します?


 私の炎で体内を直火焼きにされるダメージと、それを消すために自分の体内に起こす激甚な振動のダメージ、どちらを受容するかは……私でなくあなたが決めることですね」


 恐怖で眼を見開くケヘトディに、イリャヒは驚くほど優しい声音で囁いている。


「最期になにか言い残すことがあるなら聞きますよ、聞くだけですけど」


「そ、そうか……な、なあ、イリャヒ、頼む、謝るよ、許してくれ。もう二度とお前にもソネシエにも近づかないと誓うよ。

 この街からも出ていくし、監視を付けても……そ、そうだ、私は有用だろう!?〈銀のベナンダンテ〉にして、ゾーラ、いやもっと遠くへ送り飛ばしてくれたら……」


 イリャヒがなんと答えるかソネシエにはなんとなくわかったが、兄はまさしく彼女の予想通りの言葉を吐いた。


「許す……? 残念ですが、私の脳にそんなフェイズは存在しません。一回怒ったら一生怒りっぱなしです。私は炎、〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉そのもの。消えるその日まで燃え盛り続け、燻ることはありません。なのであなたのことも忘れませんよ。もうそれでいいじゃないですか」

「待て、待ってくれ!」

「残念、時間切れです」


 普段なら仰々しい無駄な詠唱をしてみせるところを、兄は無情に無機質に火を放った。

 ケヘトディの眼や鼻や耳や口から、頭部が、そして全身が蒼の炎に包まれる。


 聞くに堪えない断末魔を長々と歌った伯父は、亡者と化す寸前、ソネシエではなくなにもない虚空に向かって、爛れた喉で小さく口ずさんだ。


「……リゼ、リエ……愛、し、て……る……」


 慈悲を与える理由にはならない。しかしイリャヒはその遺言を、無下にする気にはなれなかったようで、寝言に返事をするように、受け取る者のない答えを、少しだけ哀しそうに投げかける。


「ご機嫌よう、インディペ・ケヘトディ。

 それはあの世で、本人に直接言いなさいな」


〈三番街の悪霊〉と謳われた吸血鬼の肉体が燃え尽き、灰と化して静かに散り落ちる。


 抜け殻となった服の中から、古い懐中時計が転がり、イリャヒの靴に当たり止まる。


 それは壊れて動くのをやめており、針はいつまで経っても同じ方向を向いたままだ。


 それが示し続けるのはリゼリエが死んだときなのか、それとも彼女の心が……。


 いや、この話はもうやめにしよう……とソネシエは空虚な思考を振り払った。

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