第220話 蒼血
この結界にはシャルドネ叔母様も難儀させられ、ついには突破できなかったと聞く……なにもせずただ傍観し、最後は訪ねても来なくなった、どこぞのクソ伯父さんとは大違いだ。
彼女には感謝している。なぜなら彼女の失敗談を元にし、今のイリャヒが最適解を導き出せるからだ。
ざっくり言うと、火力及び攻撃規模の問題ではあった。
結界は家全体を覆っているが、建物自体を守っているわけではない。
だが一方で建物に穴を開けたところで、そこから侵入できるわけではない。
「私がただ漫然と、ここで道化芸をやっているだけだとでも思いましたか?」
なら家という枠組み自体を粉砕してやればいい。
結界で覆われていることで、逆に全形を把握しやすかったのが皮肉だ。
「や、やめろ……!」
ようやく理解したらしいケヘトディが呻くが、当然無視だ。
まずは倒壊事故を防ぐため屋根を消失させる。次いで青い舌が壁という壁を舐め回した。
ケヘトディは気でも狂ったのか、突然壁にかけてあったリュートを手に取ると、笑いながら弾き始めた。
こんなときでも抜群の音色を醸し出すのには感心だが、耳を塞ぐ妹の姿が痛々しい。今すぐやめさせてやる!
家の損傷が何割かに達したとき、ついにそれを守る結界がその定義を失い、自ずから霧散する。
青い炎が怒涛の気勢で全方位から押し寄せ、室内のすべてを包み焼く。
ところでたとえばイリャヒに対し、人質を取ることは意味がない。構わず〈
炎は調度や楽器を容赦なく燃やしていく一方、ソネシエとデュロンは服すら焦がさず、〈三番街の悪霊〉が企む悪足掻きに備えて、ベールのように彼らを守っていく。
「やめろおおおおおお! 私の夢の砦に、なんてことをするんだ!?」
なすすべなく絶叫したケヘトディは、発火したリュートを取り落としたかと思うと、両手で顔を覆い、ついに火災に巻かれて、呻吟するばかりの影と化した。
呆気ない、こんなものか……という判断は、しかしいささか早計と言わざるを得ない。
「……なんてね」
不意に、屋内へ侵入していた炎のすべてが、幻であったかのようにまとめて掻き消えた。
家主や家財を苛んでいたものも、ソネシエとデュロンに加護を与えていたものもすべてだ。
声もなく驚愕するイリャヒを、ケヘトディは顔を覆った指の隙間から覗き、歪んで頬でほくそ笑んでくる。
「勇名が仇となったな、イリャヒ。お前の固有魔術は、もはやミレイン近郊一帯に、その甚大な脅威が轟いている。
しかし私に言わせれば、いかに精強な能力であろうと、炎という現象の範疇を出ないことに違いはない。
自分でもわかっているんだろう? お前の弱点は水……でなく、空気だ。
あまりにありふれている上に範囲が広すぎ、燃焼対象として設定しにくいというだけじゃない。
風嵐系や爆裂系の、収斂させて貫通力に特化したり、逆に発散させ吹き飛ばしてくるような魔術に対しては、ずいぶん辛酸を舐めさせられると考察するが」
まさにその通りで、たとえばウォルコの〈
そしてイリャヒは同時に理解させられる。音とは空気の振動である。一定の波長で共鳴現象を起こすと、炎を激しく揺さぶって流れを乱し、燃焼安定性を失わせることが可能だと聞いたことがある。
耳ではなにも感知できなかったことから、いつの間にか可聴域外の重低音を発していたらしい。
まずい。攻撃を続行できないというだけではない。炎を消されるということは、ソネシエを守るという本分を遂行できないことを意味する。
やはりと言うべきか、ケヘトディはイリャヒを無視して体ごと、奴の執着対象へと向き直った。
気色の悪い舌舐めずりをしながら、悪意の魔手を無造作に伸ばす。
怯えきった妹が眼を見開くのを見て、イリャヒの脳が発火した。
「私の、大切な……」
挑発だというのはわかっている。だがもう感情が止まらない。
彼は半地下へと至る階段を駆け下りながら、炎を纏う右手で伊達眼鏡を外し、握り潰してかなぐり捨てて、力の限り咆哮した。
「私の宝に気安く触れるな、ブチ殺すぞ!!」
憤怒と憎悪で眼が眩み、視野が急速に狭窄する。
遅延された時間感覚の中で、ケヘトディの横顔が獰猛な笑みを浮かべ、その魔手がイリャヒに向けられるのを見た。
雑音が奏でられ、凄まじい頭痛がすると思ったら、これは奴の魔術なのだ。
しまった、おそらく発動条件は……しかし、もはや……。
意識を失う寸前、イリャヒの左眼が捉えたのは、すぐそこにいるはずの妹の姿ではなく、死んだ両親が憎々しげに睨みつけてくるという、最悪の幻視だった。
その意味を……次に起きることを理解したイリャヒは、安堵とともに落胆し、蒼い血をもって生まれたことに、屈辱混じりの感謝を覚える。
次の瞬間、内部から発生した強い衝撃により、イリャヒの頭蓋は爆散した。
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