第218話 蒼白

 コンコン……。


 そのノックの音を最初に聞いた時点では、ケヘトディの心は凪いだままだった。

 仮に誰かがソネシエを探しているとして、そいつが今ドアを叩いているとして、ここへ来たのは虱潰しの手当たり次第が、たまたま功を奏した結果に違いない。

 波風立てる必要はない、普通に居留守でも使えばやり過ごせる。


 最初にソネシエとデュロンに話した通り、この家は優れた防音機能を備えているため、たとえ彼らが泣こうが喚こうが、外には一切聞こえない。

 逆に今、ノックしている者もこちらになにか呼びかけているのかもしれないが、中のケヘトディはどこ吹く風だ。


 加えてこれも彼らに話した通り、この家はあらゆる種族が持つ、一切の感知能力をも遮断する。

 外にいるのがどんな出歯亀だろうと、中の様子は一切わからない設計になっている。

 もちろんこの施工の主な目的は、今まさにこの状況下で、真なるリゼリエであるソネシエを、汚い俗世から完全に隠匿するためだ。


 嗅覚感知を持つデュロンが疑わなかったように、「家を買い取り、程なくして怪音が始まった」というのも嘘ではない。

 当然だ、三番街に照準して音を立て始めたのが、他ならぬケヘトディ自身なのだから。


 嗅覚が記憶喚起なら、聴覚は強迫観念を司る。彼の固有魔術は……少なくとも、脳に直接呼びかける能力に関しては、ミレイン全域……とまではいかずとも、その半分程度の効果範囲・射程距離を誇る。


 コンコン……。


 本物の高位吸血鬼エルダーヴァンパイアには及ばずとも、これはなかなかの権能と自負している。

 もっとも、ただ話しかけるというだけの弱い能力だからこそ、これだけの敷衍が可能なのだが。


 ちなみに細かい個々の照準は、使い魔である蝙蝠たちの眼を借りて付けている。

 猫や蛇どもが厄介だが、彼らの監視網の隙を掻い潜る術も心得ている。


 ……確かに、家の中から音の魔術を飛ばすことはできるからといって、外にいる者に今すぐ帰るよう呼びかけたり、まして攻撃などしてしまっては、「ここに〈三番街の悪霊〉が住んでます!」と言っているに等しいため、さすがに差し控えるべきではある。


 しかし、せめてそれとなく使い魔を動かし、今ドアを叩いている者の姿を確認するくらいはしても良かった。

 それをしなかったのは、ケヘトディの無意識に……。


 コンコン……コンコンコンコン……。


 それはともかく、仮に何者かがなんらかの確信を抱いて、この家に強行突撃しようとしていたとしても、やはり問題はない。

 理由はこの家に、招かれなければ他者ひとの家に入れないという、吸血鬼の古い習性を利用した、高度な結界が張られているからだ。


 ケヘトディが往年のリャルリャドネ家に、ある時期まで足繁く通っていたのは、リゼリエの様子を確かめるためだけではなく、この結界の張り方を学習するためでもあった。

 当時は格別使用目的を決めていたわけではないが、結果的には修得しておいて良かった。


 コン……コン……コンコンコンコン……。


 ちなみにインディペ以外に、ケヘトディ姓を持つ者は、もはやこの世に健在しない。

 つまり彼の許可がなければ、見えない防壁に阻まれ、いかなるものも扉や窓から侵入できない……そういう練度に仕上げてある。


 コンコンコンコンコンコンコンコン。


 磐石の守りとはまさにこのこと。後は懸念があるとすれば、内側だろう。


 ケヘトディが余裕の構えで視線を投げると、ソネシエは怯え切った様子で、ビクリと体を震わせた。

 身内の背徳というトラウマを突き回され、彼女にもはや抵抗する気力はない。

 仮に斬りかかってきたとして、彼女も音より速く動けるわけでなし、押さえ込むことは可能だが、もちろんできればやりたくはない。


 ゴンゴンゴンゴンドンドンドンドン、ドカ!


 そして、音の魔術で脳の動きを確認しているが、床に横たわっているデュロンは、完全に意識を失っている。


 ドゴォン! ドッタンバッタン! ゴン! ガンガンガンガンガンガン!


 ……眠ったまま戦う術などを持っていれば別だが……。


 ガチャガチャガチャ! バガン! ガタガタガタガタ! ドカドカドカドカ!


 いちおうこれも警戒し……。


 ドンドンズズン! ドンドンズズン!


 …………。


 ドンガラガッシャン! ガッツンガラガラ!


「……………」


 青筋を立て、頬をヒクつかせながらもなんとか大人の笑顔で我慢していたケヘトディだったが、ついに堪忍袋の緒が切れ、相手に聞こえないのを承知で、腹の底から息を吸って叫んだ。


「ああああああうるっさい! やかましいぞ不調法者が、いい加減にしろ! なんだその悪霊か借金取りのような挙動は!? 今私は、大切な妹との時間を……」


 おっと、そのソネシエを怒鳴り声で圧してしまっては意味がない。それに、デュロンが眼を覚ましてしまうのも良くない。

 しかし……その訴えが届いたわけでもあるまいに……凄まじい勢いでドアを叩いていた騒音は、ピタリと鳴りを潜めた。


 さすがに諦めて帰ったか? というのも……やはりケヘトディの希望的観測に過ぎなかった。


 なんの前触れもなく、扉の隙間から青い燐光が漏れ始める。

 それはやがて扉全体に侵蝕し、まるで砂糖を舌の上で溶かすように、呆気なく消し崩してしまった。


 現れた相手の姿を見た瞬間、ケヘトディが自分がなぜなんの善後策も講じずに……まるで嵐にでも遭っているかのように、黙ってやり過ごそうと考えたのかを、ようやく自分で理解し、その光に照らされたからというわけでもなく、血の気の引いた自分の顔が青白さを増していることに想像が及んだ。


 なんのことはない、絶対に二度と会いたくないと思っていたからだ。

 嫌い憎んだ妹夫婦の、邪悪な部分だけを抽出したような……彼が疎んじたリャルリャドネの結晶のような存在に、ただただ恐れ慄いていたからだ。


 黒髪黒眼に黒服眼帯、黒い帽子と鼈甲眼鏡、美形に痩躯の優男という、ケヘトディ自身に輪をかけた吸血鬼の典型。


 そいつは満面に貼り付けた道化の笑みと、高々と掲げた靴裏を見せつけ、慇懃な口調とは裏腹に、まるで慎むところのない無礼千万の態度を明示してくる。


「夜分に失礼! ところで結界これ開けてもらうわけにはいきませんかね、親愛なるインディペ伯父様ァ〜?」

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