第217話 独白

〈三番街の悪霊〉ことインディペ・ケヘトディが用いる音の魔術には、三つ……いや、おそらくは四つの技があると、奴に対峙するデュロンは考えていた。


 一つ目と二つ目は、奴と出会った街頭で披露され、今デュロンに対して行使されたものだ。一つは相手の平衡感覚を狂わせて自ら転ばせ、一つは音を衝撃波に変換し直接相手を吹っ飛ばすということで間違いないだろう。


 そして三つ目が現在進行形でデュロンに対し行使されているため、彼は攻撃に移ることができなかった。


「……!!」


 ケヘトディがまったく口を動かしていないにもかかわらず、頭の中に奴の声が直接響いてくる。

 それは凄まじい頭痛・悪心・眩暈で行動の自由を奪いつつ、甘く囁くのだ。


『三回回ってワンと鳴け。そうすればこの苦痛から解放してやる。安いものだろう? なんにも難しいことを要求しちゃいない。それとも三番街の連中のようになりたいか? 三回回ってワンと鳴け、それだけでお前は平穏を取り戻す』


 確かに簡単だ。別になにかがどうなるわけでもない。デュロンはしばらく耐えていたが、やがてほとんど衝動的にその場で、狂った三半規管に鞭打ってフラフラと三回回り、せめてもの抵抗として精巧な犬の鳴き真似をしてみせた。


「う……ワン! ワン!!」

「あはは、これは傑作だ。なかなかよく耐えるものだが、結局は歴戦の祓魔官エクソシストであっても、外傷や内臓の損傷はまだしも、脳を直接揺さぶられることへの耐性は、それほど高くはないらしい」


 ケヘトディは実験に満足したという感じで、陽気に破顔しながら、デュロンの腹を蹴りつけてくる。

 普段なら屁の突っ張りにもならない威力のそれで、しかしデュロンは容易にもんどり打って倒れ込んでしまい、自分で自分の体が信じられない心地がした。


 今さらながらデュロンは全身に脂汗が浮かぶのを感じる。

 今回はチンケな芸を仕込まれただけで済んだが、これがエスカレートすると、どんな命令でも従っておかしくないことに気づいたのだ。


 普段から〈悪霊〉が奏でる怪音を聞かされていた三番街の住民たちは、一日一回これと同質の苦痛を与えられ、非常にうんざりし、これから逃れる方法があるなら、ほぼ無条件でそれに飛びつくくらいの素地ができていた。

 あとはその刷り込みをなぞって「ソネシエ・リャルリャドネを殺せ」と吹き込めば、神託を聞く操り人形が完成する。


 洗脳や催眠で意識を乗っ取るまでせずとも、他者ひとの心を操ることは可能なのだ。

 真に逼迫すれば、生存や安寧を求める先天的本能が、倫理や道義といった後天的理性に負けることはない。


 デュロンを一発で屈服させた確信を得たようで、ケヘトディは耳障りにケタケタ笑いながら、自分のこめかみに指先を当てる。


「面白いだろう? そして活かす機会は与えないが、後学のために教えておこう。

 こういう対象の内側に直接照準するタイプの魔術は、発動と同時に射出が完了しているため、魔力感知によって術者を捕捉することが難しいんだ。

 あのとき私は外にいたが、私が彼らを操っていることはわからなかっただろう、ソネシエ」


 喋りつつ、瞳孔が散大した異様な表情となり、そのまま不気味に笑うケヘトディ。

 なんということはない。あのときこの男は術者の偽装のため、自分で自分の脳味噌に神託を聞かせていたのだ。


「……どう、して……」


 伯父が演じていた自作自演の一人芝居を見破れなかった姪っ子が、か細い声で尋ねた。

 ケヘトディはその意味を正確に汲み取れなかったようで、首を傾げた後、一人合点でポンと手を打つ。


「ああ、どうしてこんな回りくどい真似をしたのかって? そりゃ、普通に近づいたらイリャヒに退けられてしまうからだよ。あいつはどうも私の本質に勘付いていた様子だからね、邪魔をされてはたまらない。


 順番に話そうか。私がここミレインに移り住んだのが、ごく最近だというのも本当だよ。

 理由はもちろんソネシエ、お前のこの街での活躍を聞き及んだからだ。


 泥棒捕らえて縄を縫うという感じで、姪っ子の生存を知ってから、招くための居を構えるというのも、我ながら間抜けな話だがね。

 とにかく、場所はどこでも良かった。ここを選んだ理由もさっき語った通りで、ただ立地も悪くなかったというのはその通りだけどね。


 四番街の端にあるということで、じゃあ良い塩梅に隣接している、三番街の住民たちの生活を犠牲にしようかなとなった。

 彼らには申し訳ないことをしたが、今後はもう迷惑をかけないわけだから、まあ良い感じに許してほしいところだね。


 そしてね、別に事件化して調査に来させたところを罠にかけるということを想定していたわけじゃなかった。

 ソネシエがイリャヒを伴わず、できるだけ少人数で三番街を通るというのが、私が設定していた必要条件だったんだ。


 何年でも気長に待つつもりだったんだが、意外に早く会えて嬉しかったね。

 やはり私とお前は運命で結ばれているんだ。そうは思わないかい、ソネシエ?」


 気持ち悪い言い草だが、ようやく話が質問内容に戻ってきたことで、デュロンはある種の安堵を覚えた。

 それはソネシエ自身も同じようで、ろくな答えが返ってこないとわかっているのだろう、苦しそうに再度問う。


「そうじゃ、ない……どうして、こんなことをしたの。わたしに、なにをさせたいの」


 舞台俳優のように朗々と語っていたケヘトディは、我に返ったようにピタリと動きを止め、頭を掻いた。


「あ、そうか、それをまだ話していなかったっけ。我ながら抜けているなあ。


 さっきも言った通り、私はお前たちがリゼリエを殺したことを、まったく恨んでいない。クイードに関しても言わずもがなだ。


 いや、違うな。むしろ感謝している。あのつまらない、大安売りの悪女と化したリゼリエを殺してくれて、お前たち自身もそうだろうが、実は私もスッキリしていたのだ」


 ケヘトディは先ほどから片手に持っていた、リゼリエの幼い頃の遺品である小さな赤い靴を、まるで当時の彼女自身であるかのように、優しく眺めながら述懐していく。


「これを履いていた頃のリゼリエは、本当にかわいらしくてね。大きくなったら兄さんと結婚するとか、衒いもなく言ってくれたものだ。


 それがいつの間にか……ああ、言うに耐えない。リャルリャドネ邸を何度か訪ねて確信を深めたが、あんなものはもう、私の知っているリゼリエではなかった。


 お前たちが殺したとき、あれはもはや私の妹などではなかったんだ。だからお前もイリャヒも、まったく気に病む必要はない」


 兄妹の呪縛を解く優しい言葉を口にしているように聞こえるが、その手は靴を両手で掴み、次第に偏執的な動きで撫で回していく。


「ああ、私のかわいいリゼリエ……お前はいったいどこへ行ってしまったのかベロベロベロベロベロ」


 ついに前のめりになってかぶりつき、死んだ女の靴を舐め回し、全霊をもって頬擦りし始めるケヘトディ。

 デュロンの背筋にも凄まじい怖気が走ったが、ソネシエはその比ではなかっただろう。


 なぜならふと動きを止めたケヘトディが、自分の唾液まみれになった顔を上げ、ソネシエを視界に捉えて満面の笑みを浮かべたからだ。


「だからこそこの街で、成長したお前の姿を遠目に見たときは、本当に驚いたよ。


 まるでリゼリエの生き写し……いや、違うな。あいつがまともに育っていたら、こんなふうになっていたのではないかという、いわば正当な成長先とでも呼ぶべきだろうか。


 ……だとしたら、あいつは誰だったんだ?

 というよりも、君はどういう存在なんだ?


 そして私は理解した。ソネシエ、お前こそが本物のリゼリエだったんだね。

 もしかしたら私のために生まれ変わってくれたのかもしれないが、そこはどちらでもいい」


 ケヘトディは翻って食卓に手を突き、勢い余って熱々のスープに手を突っ込んでしまい、「熱っ!?」と叫んでひっくり返したが、あまり気にならなかったらしく、興奮で眼をカッ開いたまま、涎を垂らして言い募る。


「見てくれリゼリエ、私はこの通り、音楽家の端くれとして一角の財を得た。誰にも感知されることのない、秘密基地のような城もね。


 ここから一歩も出なくとも、お前の望むものをなんでも取り寄せられるし、お前の好きな料理を毎日作ってやるとも。


 だから一生、この家で兄さんと暮らそう。

 二人だけの結婚式を挙げるんだ。

 もう誰にも邪魔させることはないよ。

 私たちの血は、私たちだけのものだ。

 あの日の誓いを果たすときが今来たのさ!」


 こいつはもうダメだ。正気がどうとかいうレベルではない。

 しかしいちおう判断力らしきものが残ってはいるようで、打って変わってデュロンに冷たい眼を向け、対応を雑に検討し始める。


「あー、それで、なんだっけか? そこの、君? 君はほら、あれだ、シンプルに邪魔だから、四肢をいで血袋として生かしておく的な? まあ殺してもいいんだけど、それはそれで処理が面倒だから、飼う形になるのかなあ……私、犬とか猫って嫌いなんだけどね」

「そーかよ……そいつは気が……ッ!?」


 またしても魔力で直接脳を揺さぶられるデュロン。今度は意味のある言葉でなく、誰かが耳元でがなり立てているように、ひたすら雑音が頭蓋の内側に反響する。

 肉体や精神の強さなど意味はない。耐えることはできないし、できても次第に意識が遠ざかる。眼・耳・鼻・口が濡れ、自分の顔から血の臭いしかしなくなるが、かなりまずい状態を自覚しつつも、デュロンは砕けるほど奥歯を噛み締め、ただただ無意味に踏ん張った。


 自分に敵意が向いている間は、ソネシエの安全は保たれている。

 そうすれば、きっと……。


 果たして、やがてデュロンは、耐える意味も気力も失い、ギリギリで繋ぎ止めていた意識を呆気なく手放した。


 なぜなら確かに聞いたからだ。

 半地下から階段を登ったところにある、通りに面した玄関扉を、こんなときですら無駄に品良く、控えめにノックする音を。

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