誰がために火は灯る

第215話 告白

 ずいぶん長いこと、奇妙なほど安心して眠ってしまっていた気がする。

 しかし実際には数十分程度しか経過していないことを、夜がさほど深まっていないことにより、ソネシエは敏感に察知した。


 薄闇の中で瞬きした彼女は、視界に斜め下からの角度で、デュロンの顔が映っているのを認識する。

 さすがの彼も心労が祟ったのか、仮眠を取っているようで、眼を閉じている。


 二人して寝こけていたことに危惧を感じ、ソネシエは慌ててソファから上体を起こした。

 幸いなにも異変は起きておらず、インディペ・ケヘトディは食卓に料理を並べているところだった。


 正直なところ、ソネシエは「家」という空間自体にトラウマがあるのだが(なので寮という猥雑な住空間には感謝している)、今はなにかを強要し、拘束するような存在はいないことを自分に言い聞かせ、平静を保った。

 贅沢を言うなら、ここにイリャヒがいてほしいものだけれど。


 さぞかし心配してくれているだろうと、今さらながら想いを馳せるソネシエ。

 今外がどうなっているかわからないが、たとえ世界のすべてが敵に回ったとしても、彼が絶対に積極的な味方として行動してくれるということだけは、まったく疑っていない。


 そしてすぐそばにもう一人、明確な味方が、どっかりと鎮座していることも忘れてはならない。

 静かに息を立てるデュロンの鼻先をなんとなく眺め、食卓に眼を戻すと、ケヘトディがこちらを振り向いて微笑んでいた。


「おや、起きたね? 食欲はあるかい、お嬢さん?」

「ある。ありがとう、ムッシュー・ケヘトディ。……しかしわたしは、ここまで良くしてもらう理由がないはず」

「いいや、あるとも。君の後ろに戸棚があるだろう? ちょっと見てくれないか?」


 言われて、デュロンを起こさないように静かに体を捻ると、すぐに眼を引く物体があった。


「赤い靴。とても小さい。おそらく幼女のものと思われる」

「その通り。不気味に思わないでくれよ、私は未婚で子供もいないのは事実だけれど。

 ただ、仕方ないんだ。もっと他にもあるんだろうが、あいにくの遺品は、私の手元にはそれ一つきりでね。

 そして私には、今さら漁りに行く権利などない」


 自分の頭のどこかで理解が噛み合ったのを感じ、ソネシエの背筋がスッと冷える。

 とっさに身構えるが、その様子を見て、ケヘトディが慌てて両手を振った。


「ああ、待った待った! やれやれ、賢すぎるのも考えものだな…。


 まず最初に、私の立場をはっきりさせておくよ。私はリャルリャドネ家で起きた顛末を、おおむね聞き及んでいる。

 しかし間違っても君やイリャヒを恨んでいるとか憎んでいるとか、報復感情を抱いているとか、そういうことは一切ない。


 聞き及んでいるというのは、他ならぬ教会経由でね。つまりお前たちが両親から受けた仕打ちに関しても、お前たちの供述が正直なものであるなら、おおむね正確に認識しているということさ。


 同情する……というのは言葉が悪いな。他所の家のこととして放置していた私にも、責任の一端がある。

 なにせある時期から、お前たちの両親……私の妹とその旦那から、ずいぶん煙たがられるようになってしまってね。

 しかし結果論だが、あの程度で尻込みすべきではなかったな。


 いずれにせよ、お前たちの両親は……私がこう言っていいならだが……甚だ愚かだった。

 いくら自分たちの子供たちだからといって、他者ひとに悪意を向けておいて、しっぺ返しが来ないと考える方がおかしいのだから」


「……つまり、あなたは……」


「もう一度同じことを、少し表現を変えて言ってみるね。

 ながら、賢すぎるのも考えものだな……と、まあ、そういうことだ」


 そういえばいつだったか兄が、我々には母方の伯父もいる、と言っていた記憶がある。

 まさかミレイン市内に住んでおり、しかもこうして最悪の危機から救ってくれるとは、思ってもみなかった。

 シャルドネ叔母様の例もあることだし、この人は信用していいかもしれない。


 ケヘトディに視線で促されたソネシエは、戸棚の上に置いてある赤い靴を手に取り、近づいてきた彼に渡す。

 両の掌で丁寧に掬うような形で受け取った紳士は、感慨深げにそれを眺め、穏やかに述懐する。


「しかしねえ、それはそれとして……君らはまだ若いから実感がないかもしれないが、小さい頃の兄弟姉妹との良い思い出というのは、やはり格別のものとして心に残るものなんだ」


「……ごめんなさい」


「いやいや、そういうことじゃなくてね。なんというか、ありきたりな表現になってしまうんだが……なにがあってもあの頃のリゼリエは、私の中で生きているってことだよ。


 だから私は、悲しくなんてないのさ。それにこうして今、なんの縁あってか、かわいい姪っ子が友達と一緒に訪ねてきてくれていることだからね。


 いやしかし、さっき久方ぶりに君を間近で見て、本当に驚いたよ。

 あの頃の妹にそっくりだ。もっとも当時の彼女には悪いが、ソネシエ、君の方が、こう……品があるというべきか……」


「…………」


「あっ、そうだ……君にとっては、あれは良くない母親なんだったね……すまない。ああ、なんだか、これではまるで私がお前を、ネチネチいびっているような形に……」


「ち、ちがう……わるいのは、わたし……」


 ソネシエの反応を見てケヘトディはますます慌て、忙しない動きで否定してくれる。


「いや、いや、違う違う! そうじゃない。これも明確にしておくべきだな。


 確かに幼い頃のリゼリエは、私にとっては世界一かわいい妹で、かけがえのない存在だったさ。

 おそらくは今、イリャヒが君に抱いている感情と同じだろうね。


 だがこうして見るからに純粋なまま育ってくれている君と違い、君の母親は……忌憚のない言い方をすると、いつからか邪悪な女に成長してしまった。


 権威や外面、名誉や格式といった、どうでもいいものにばかり固執し……それとどちらが先なのかはわからないが……いいかい、私が否定するのはお前たちの血であって、お前たち自身じゃない。それを踏まえて聞いてくれよ。


 リゼリエは……間違った相手と一緒になった。クイードはリャルリャドネという家名を鼻にかけたプライドの塊のような男で、相応の優秀さこそ垣間見られたものの、私としては鼻持ちならないクソ野郎という認識しかなかった。

 当時の私は、妹自身が選んだ相手だからと、無理矢理自分を納得させたが……今にして思えば、あの直観は間違いではなかったんだな」


 真剣な口調で言い募っていたケヘトディは、ふと表情を緩め、意識して明るい方へ話題を変えようとするのがわかる。

 彼はソネシエをリゼリエとそっくりだと言ったが……彼のその様子はイリャヒに驚くほどそっくりで、ソネシエは久しぶりに、内心通りに微笑むことのできない、自らの頬をもどかしく思うのだった。

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