第190話 その席だけは譲らない

 現実世界へと意識が浮上したリュージュは、対面するデュロンもほぼ同じ過程を経たことを察していた。

 最小限で抑えることはできたものの、二人とも明確に消耗していた。


 二人の荒れた息が整うのを待ってくれるというわけでもないのだろうが、アクエリカが会場へのアナウンスを行なってくれている。

 どこの誰の仕業か知らないが……おそらくは賭けた馬に追い風を吹かせるついで程度で画策したのだろう、悪魔憑きという罪穢れを与えることによって祓魔官エクソシストの、ひいては教会の権威に泥を塗ろうとしたようだ。


 しかしリュージュとデュロンが早々に跳ね除けたことにより、アクエリカは聴衆をなだすかし、場を治めるための材料を得たらしい。

 彼女が普段のゆるゆる〜っとした猫撫で声と、ここ一番で出すやや低音の凛とした口調と、うるさ型に対するほんのちょっぴりの脅し(周囲からは満面の笑みにしか見えないのだが、視線を合わされた当人だけはその眼の冷たさに震え上がるというやつ)を使い分けると、気づけば会場のざわめきは消え、水を打ったように静まり返っていた。


 そう、この戦いはこの場にいる市民たちだけではなく、世界中の有力者や好事家からも観られているのだ。

 ラグロウルだけでなくミレインの誇りも懸かっているという認識が、いまいち足りていなかったかもしれない。


「では、デュロン」


 リュージュは右手を一振りし、一見無造作に、その実計算された動きで、自分の正面数メートルのエリアに、十数個の種子をバラ撒いた。

 それを眼で追いすらせずリュージュから視線を外さないデュロンに、彼女は穏やかに話しかける。


「なにか邪魔が入ったようだが、始めるか」

「そうだな」


 言葉少なに答え、いつもの虚勢の笑みすら浮かべない相手の様子から、彼が相当な集中状態に入りつつあることを、リュージュは理解する。


 彼女にはその理由がわかった。デュロンは普段から基本的に、その顕著な耐久力に任せた戦い方をする傾向がある。

 分厚く硬い頭蓋や肋骨で守られた脳や心臓を破壊されなければ自力で再生できるし、なんだったらヒメキアに治してもらえばいいのだから。

 だが今は一対一と決められ、どんな凡ミスであっても喉のチョーカーに装着した珠を破壊されたら、一発敗退なのだ。


 絶対に一手も失敗できない。しかも相手は戦闘の実力を、おそらく訓練と現場の両方において、もっとも知り尽くしているであろうリュージュである。

 挑発の一つすら無駄だし、そんな余裕もないのかもしれない。

 もし本当にそこまで強敵と認められているなら嬉しいが……だったら彼女としても、なおさらここは勝つしかない。


 鳩の骸を肥やしに植えた、いかなる毒をも養分に変えて食い尽くす黄金色のルピナスは……彼女の考える、他ならぬデュロン・ハザークの象徴だ。

 ここまではある種の悟りじみた諦念を抱えつつもなんとか勝ち抜いてきたが、今の彼女はようやくそれをかなぐり捨てることができる。


 この一日半の間、〈ロウル・ロウン〉における相棒バディ……魂の伴侶として共闘してきて、改めて強く再認識した。

 リュージュはデュロンを弟のように慕っている。恋愛感情とは異なる、彼の成長を一番近くで見守りたいという、ともすれば偏執的な欲求が芽生えて久しい。


 この席ばかりはヒメキアにもソネシエにも、イリャヒにもギデオンにも、アクエリカやメリクリーゼ、ヴェロニカやパルテノイ、ベルエフやオノリーヌにすら譲るつもりはない。

 そのために彼自身を打ち破らなければならないというのは歪んでいるが、わたしらしくていいのではないかと、彼女は微笑みを浮かべた口元を、息吹を繰り出す竜のあぎとに変える。


 まるで黄泉へといざなうごとく、デュロンがリュージュへ至る道筋の上に、不気味なほど色鮮やかな植物たちが咲き乱れた。

 即席ガーデニングは成功だ。もはやはるか昔に思える〈恩赦祭〉一日目の朝を想起して、彼女はおどけて両腕を広げ、迎え入れる準備が整ったことを示した。


「お花を踏むなよ……優しいオオカミくん」


「……リュージュ、俺は」


 対するデュロンは爆発的な闘気を放ちながら完全獣化変貌する。しかしいつも見るのとは様子が違った。


「お前が思ってるほど優しくねーぞ……」


 ガリガリに痩せこけ、開いた口から涎を垂らしている。

 おそらく使っていると消耗するというのが、見た目にそのまま表れているのだろう。

 いや、よく見ると収縮しているのは上半身と膝から下だけで、腰から太腿にかけては、むしろ筋肉でパンパンに膨らんでいる。とにかく足腰を重点強化した形態なのかもしれない。


 リュージュやオノリーヌすら知らなかった、おそらくは今の彼に出せる最強の短期決戦形態を、いきなり使ってくれている。

 そして余すことなく、考えの及ぶ限りあらゆる手を。


「いくぜ!」


 デュロンの初動は、足まで痩せてブカブカになった靴を、両方とも脱ぎ飛ばして寄越すというものだった。

 五歳児の喧嘩みたいなやり方だが、デュロンがやるとバカにできる威力や速度ではなく、リュージュは素直に二手消費して対処せざるを得ない。


 裸足になって突進してくるデュロンを、リュージュはすでに播種した植物と、さらに手持ちの追加で迎え撃つ。


 ……昨夜、リュージュが地下訓練場から早々に引き上げ、自室で行なったこの優勝決定戦向けの作戦会議では、オノリーヌとヴェロニカを含む五人ほどから知恵を借りたのだが……デュロンへの対抗策はとにかく手数で畳み掛ける他ないという結論が出ていた。

 大量のリソースで波状攻撃を仕掛け、一手でいいからミスを誘って、その隙を突くのだ。

 体力を削るというのもそれだけならあまり有効ではないが、メインではなくサブの方針として仕掛ける価値はあるというのが、オノリーヌが提案してくれた内容だった。


「んん……それでもちょっと厳しいな……!」


 誤算だったのは、デュロンがこの斬撃・スピード特化という、まさにリュージュのために用意したかのような変貌形態をひた隠しにしていたことだ。

 いや、彼のことだからもしかしたらこれも、昨日から今日の戦闘でたまたま思いついただけのものかもしれないが。


 刺殺・撲殺・圧殺・射殺と、並の魔族なら出会い頭の一発で天に召されかねない猛撃を繰り出す魔性植物たちを、デュロンは異様に長く鋭く伸びた両手両足の鉤爪により、恐ろしい速度で伐採してくる。

 あっという間に距離を詰められ、あわやリュージュ自身の喉が引き裂かれるというところまで来てしまう。


 リュージュとデュロンがほぼ互角というのはリュージュの植物込みの話で、純粋な徒手格闘の実力なら、かなり水を開けられているというのは自覚している。

 なのでリュージュは……こんな卑怯な手を使わなくてはならないことに対し、くぐもった声で謝意を口にする。


「デュロン、すまん……許せ」


「!!?」


 切り裂いた植物から降ってきた大量の水に、デュロンは怯んだ様子だった。

 それが彼の全身に著しい皮膚炎を生じさせたからだ。


「おあああああっ!? なんっ、だ、これ……どうやって……!?」


 昨夕は二人で雨を凌いだクソデカ葉っぱの傘も、今は敵ゆえ差し掛けてやることができず、自分の身だけを守るリュージュは、冷徹に彼の様子を静観する。


 この場では教えてやる義務も余裕もないため黙っているしかないが、切断すると樹液を撒き散らす植物と、樹液に強い毒性を持つ植物を掛け合わせた、死をもたらす林檎の樹である。

 かなりの水を吸い上げないと使えないという難物だったのだが、今はデュロンに憑いていた悪魔が濁流として生成し、周囲に残していた水溜まりを活用することができた。


「ゲホッ、ゴホ……! こ、今度はなんだ……!? ゲホ……気持ちわりー……!」


 リュージュに憑いていた悪魔が放った、まだその辺でくすぶっている炎も同様だ。

 品種改良を重ね、燃やした煙からもはや兵器レベルの毒ガスを発生させられるようになった夾竹桃きょうちくとうの最強種も、今日待ち合わせがあった。

 この毒にだけはリュージュ自身が耐性を獲得しておいたというのも、我ながら運がいい。


 ……いや、たまたまというのはもちろん謙遜だ。雷なら雷で、風なら風で、なにもないならなにもないで、手立ては他にもいくつかあった。

 あらゆる状況を想定して準備を怠らず、その場にあるものを利用して柔軟に対応するという、植物使いの本分を多少は果たせたと自負する。


 とはいえ、結局毒に頼る羽目になった事実には、忸怩たる思いがなくはない。

 しかしこれも良い風に言い換えると……怪物的な吸肥力を持つ黄金色のルピナスすら、生殺与奪を握るのは他ならぬリュージュなのだ。


 近接格闘の間合いまであと数歩のところまで肉薄していたデュロンの動きが急速に鈍り、そればかりか獣化変貌を維持する余力すら失ったようで、元の金髪少年に姿が戻っていく。

 確実に仕留めたいが、この距離で拘束用の植物を使っている暇はない。


 リュージュはあくまで慎重に、ラヴァへの勝機を作ったのと同じ吸血植物を繰り出し、その槍のごとき先端でデュロンの喉に光る、己と同じ紫色の珠に狙いをつけた。

 まったく反応を見せないデュロンの様子に、リュージュは勝利を確信する。

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