第185話 だからどうか、その眼鏡だけは

 たとえば暗殺者の一族に生まれた子供が毒への耐性を得るために、毎日少しずつ口にし、やがてはまるで効かない鉄壁の肉体を手に入れる……といったような話を、デュロンも耳にしたことがある。

 しかし姉によると、あれはちょっと微妙らしい。獲得できるのは個々の毒物への耐性であり、種類が変わればどうにもならないからだ。


 なので、ブレントが肺や試験管の中で独自に調合した劇毒を、デュロンの肉体はなすすべなく受容するしかなかった。


 最初に……おそらく一度に数種類の異物を取り込んでしまったせいだろう、温感を失い、悪心と眩暈に苛まれる。

 それらが少し遠ざかったかと思うと、五つの猛威が徐々に真価を発揮していく。


 デュロンはまず強烈な熱に見舞われた。まるで皮膚の内側に炎が生じ、それが全身を容赦なく炙り尽くしていくように感じる。もはや汗は一滴も出ず、焦げ付くような激痛に苛まれる。


 既視感を覚えたが案の定、次は寒さに震えることとなった。なんの外部刺激もないにもかかわらず、体が自ずと芯から冷えていき、歯の根が合わなくなる。全身に針で刺すような痛みが生じ、手足の先が一時完全に動かなくなる。


 自分の体が今どうなっているのか、デュロンはあまりの恐ろしさで見下ろすことができなかった。

 ブレントはこの隙を突いて攻撃してくるわけでもなく、棒立ちで観察しながら所見を呟いてくる。


「なるほど……すべてバージョン3を打ち込みましたが、過去に行った一般的な臨床試験よりも、一つ深度の低い症状が出ているね。君の体は、僕の毒を一定程度までに抑え込む能力を持っているらしい。ああ、こっちのことだから、気にしないで」


 言われなくともデュロンの意思にかかわらず、三番目の毒が効果を現す。


 突如激しい痙攣が始まった。火傷も凍傷もなんとか治まったはずだが、壊死による機能停止とは別種の麻痺が生じ、体の自由が利かなくなる。

 それどころか心臓が鷲掴みにされたように圧迫され、急速に意識が遠ざかる。

 しかし倒れそうになる体を、デュロンはなんとか踏み留めた。


「これも耐えるか……しかし次はどうかな? 一説には焼死と並んで、もっとも苦しいとされる死に方なんですが……」


 ブレントの声に恐怖を煽られるが、なかなか異変がやって来ない。

 むしろさっきまでカラカラに渇き切っていた口内が、やけに潤い……いや、なにかおかしい。唾液の分泌が止まらない!


 あれだけ発汗したのに、どこに残っていたのかという量の水分が口腔内に生じ、鼻腔にまで溢れてくる。

 デュロンは自らの体液で溺れた。垂れ流しに吐き出してもなお生じ、耳から頭蓋までを無音の残響がつんざく。


 デュロンの足元に水溜まりを残して、生き地獄はようやく終わった……ように思えた。

 どうやら五つ目は不発らしい。気力を振り絞り、一歩踏み出したところで……は起こった。


「まだですよ」


 ブレントの言う通りだった。まったくなにもないところで、デュロンは前触れもなく鋭い痛みを覚える。

 全身の関節という関節がいきなり悲鳴を上げ始め、呼吸を妨げるほどに呻吟する。

 まるで吹く風の一筋ごとに、肉の一筋を刻まれているようだ。


 通常時ならなんとか耐えられたかもしれないが、すでに四つの死苦をやり過ごした状態で、それまでの我慢を嘲笑うかのように足を掬われては、さすがに膝をつくしかない。

 文字通りブレントの猛毒に屈する形で、デュロンは動くことをやめていた。


「……よく、命を留めましたね。驚嘆に値します。どれも必殺の効果を誇ったはずが、一度として君を死なせることはできなかった。

 僕が言うのも僭越ですが……誇っていいですよ。君はもはや生命力だけなら、ベルエフさんや、亡くなった父君……人狼の、つまり巨人を除いた通常魔族における、最高峰に到達している」


 静まり返った街に響き、静かに近づいてくる賛辞と足音に対し、デュロンは反応しない。

 差し伸べる手がなにを握りしめようとしているかに気づいていても、指先一つ動かすことはない。


「しかし……かわいそうに、再生限界に陥っているようですね」


 竜人の発する憐憫の情が香る。それを嗅いでも、デュロンの心は凪いだままだ。


「お眠りなさい。永遠ではなく、ほんの数時間だけね」


 ブレントの竜化変貌した右手が、自分の喉に迫り来るのを、デュロンは見ていた。


 その段になってようやく、人狼の肉体は強固な反応を出力する。


「!?」


 右腕を掴まれ即座に極められたブレントの、驚愕の表情を正面から正視したデュロンは、純粋な虚勢による笑みを湛え、精一杯の咆哮を発した。


「わりーな。こうもやられちゃ、おちおち寝付けもしねーんだわ!」


〈ロウル・ロウン〉は、はっきり言ってゲームやスポーツの類だ。

 仮にデュロンかリュージュが優勝できなくても、アクエリカなら台頭してくる闇の金持ちどもを、どうにかする善後策の一つや二つ、すでに用意してあるだろう。


 別に死力を尽くすほどのことでもないのかもしれない。

 だが幸か不幸か、体はまだ動く。動いてしまうからには、動かさないわけにもいかない。


 なにより、毒の災禍はもう去った。

 喉元を過ぎれば、熱さはむしろ忘れなくてはならない。

 痛い苦しいと喚こうと構わないが、最後に残るのが近接戦闘の領域なら、デュロンはそこで敗けるわけにはいかないのだ。


「ぐっ!」


 極めた腕を折りつつ捻って、そのまま体ごと投げを打つと、今日初めてブレントの苦鳴を聞くことができた。

 それに飽き足らず、即座に立ち上がって蹴りをくれてやる。

 相手が体勢を立て直す隙を許さず、蹴って蹴って蹴りまくる。


 逆に内部循環を使わせている間は、外部放出を食らわずに済む。

 念のため直接触れずに靴での連打を入れ、反撃の機会も、息吐く暇さえ与えない。


 そして竜人族の魔力は、あくまで有限の域にある。

 すべて削り切る必要はない。デュロンを潰し切る量が残らなければ、耐えて圧殺で終了だ。


「ちょ……ちょっと待ってくれ!」


 そしてそうなる前に、ブレントは両手を挙げた。降参、ということらしい。デュロンは応じて蹴りを止める。


 ブレントが騙し討ちをしようとしているわけではないのは、嘘や悪意の臭いがしないためわかる。

 一方で、この期に及んで彼が発散しているのが、興味と感嘆であることには驚くが。


「そうか……デュロンくん、君はこの短期間で……昨日までの二ヶ月そこそこの間で悪魔の毒を二回、銀を二回食らっている。耐性以前に肉体活性と再生能力自体が、飛躍的に伸びていたんだね……」

「まーな。次は毒の悪魔が来たところで、なんとか撃退できそうだぜ。で、たった今、アンタの毒には全般的に耐性ができちまったみてーだ」

「……成分や効果を変えても、『僕の毒』という括りであることに違いはなく、早くも通用しなくなっているということですか……まったく、比較対象が悪すぎますよ」


 うなだれ、両手を下ろすブレントに、デュロンは一歩距離を詰めた。


「理解したなら、そろそろ引導を渡していいか?」

「その前に、一つだけ聞いてくれるかな?」

「聞くだけならな」


 珠だけ割って終わりにしてくれ……とでも言ってくるのかと思ったら、全然違った。

 ブレントは器用に片手で伊達眼鏡を外し、放ってくる。

 受け取ったデュロンが怪訝な視線を向けると、ブレントは自嘲の笑みを浮かべていた。


「それね……死んだ妻との初めてのデートで、戯れで彼女が買ってくれたものなんだ。

 どうも彼女は少しセンスがズレていたようで……思い返せば彼女以外に、これが似合うと言われたことはなかったっけな」


 今年の〈恩赦祭〉でヒメキアにおねだりされた、猫のぬいぐるみのことを思い出してしまったデュロンは、なにも答えられない。

 その様子をどう受け取ったのか、ブレントの声が少しだけ掠れた。


「わかってるんだ……こういうものを捨てられないから、いつまで経っても未練を引きずり、眼に入るすべてに八つ当たりしてしまうんだと。

 でも、僕はもうどうしようもない。この傷を治す力は、ヒメキアちゃんすら持っていないだろう。

 君なら、わかってくれるんじゃないかと思ったんだ、デュロンくん」

「……ああ」

「だからどうか、その眼鏡だけは壊さないでほしい。それだけさ」


 この期に及んで手心でも乞うなら、容赦なく顔面ごと粉砕していたところだった。


「…………」


 デュロンはブレントよりさらに似合わない自分の顔面を仮の眼鏡置きとし、汲み取れるはずのない共感を幻視した後、行き場のない憂いを含む息を深く吸い込んだ。

 そしてブレントに対する、全開の乱打を無言のままに開始する。


「ッ……!」


 歯を食い縛り声一つ漏らさず受け切るブレントの体で、魔力の欠乏により内部循環が停止する瞬間をデュロンは察した。

 拳の雨がブレントの全身に深く突き刺さり、吹っ飛んで地面を滑る。

 剥離した竜化変貌の鱗に混じって、砕けた藍色の珠が最後の光を散らした。

 眼鏡を外して投げ返し、額の汗を拭いつつ、デュロンは控え目な勝利宣言を口にする。


「ミレインの祓魔官エクソシストとしての……そしてラグロウル族の竜人戦士としてのアンタに、敬意を表するぜ、チャールド・ブレント」


 答えはないが、力を尽くし気を失ったその顔は、どこかすっきりと、晴れやかな笑みを浮かべているようにも見えた。

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