第161話 誰でも思いつくけど実行に移すのは難しいタイプの策


「ふん」「ほあああ!」


 自分たちが起こした汚い風の中へ踏み込み、ブレントとユアヒムは正面から殴り合った。

 このクソ野郎の口臭のごときクソ息吹ブレスが至近距離で吐き出され続けるのは不愉快極まりなかったが、呼吸をしないわけにもいかず、ブレントは露骨に顔を歪めつつも、とにかく短期決戦を期して突きを繰り出す。


「ちょおおおヤアアアア」「うるさいな……!」


 ユアヒムは掛け声がうるさい上に動きがめちゃくちゃで気持ち悪いのだが、腹の立つことに近接格闘の実力がブレントとほぼ互角だった。

 神はなぜこのようなダニに無駄な武才をお与えになったのか。それはもはや、ブレントのような者に試練を与えるためと考えるしかない。


 互いに蹴りが届く間合いの外に一旦脱し、体勢を整えたところで、ブレントは口元に湿り気を感じる。

 拭って見ると、それは鼻血だった。ユアヒムの黴菌息吹ファンガスブレスが効果を表し始めたのだ。


 そしてユアヒムの方も鼻血を流しながらも、ニヤついてブレントを見返してくるのが鬱陶しい。

 互いの息吹がもたらす初期症状が丸被りになってしまったのも腹立たしかった。


 せっかく毒使いとして覚醒を遂げ「吐き分け」が可能となっているのだから、別のにしておけば良かったと、ブレントは今さらながら後悔する。

 しかしこの場所を侵犯した相手に対し、使うべき毒はやはりだろうと確信したのだ。


 とはいえ、比較的遅効性のものを選んだのは失敗だったかもしれない。


「ゴホッ……!」


 ブレントが咳き込んだ一瞬の隙を見逃さず、ユアヒムが強力な上段蹴りを繰り出してくる。

 なんとか腕での防御が間に合ったが、咳は止まらないどころか、喀血が滴り始める。


 黴菌息吹の方は、思ったより症状の進行が速い。

 守勢に回らざるを得ず、最小限の力で受け捌くことしかできないブレント。


「どうしたんだ、チャールド!? もしかして体調不良なのか!? 横になったら? 永遠になっ!」


 対してユアヒムは、まだ目立った兆候は鼻血くらいのごく軽症で、元気に殴りかかってくる。

 格闘戦で押され気味なのはまだいいとしても、こいつに口喧嘩で負けるのは我慢ならない。


 なにか言い返そうとして……ブレントは激しく咳き込んだ。

 まずい、気管をやられている。声はいいとして、息吹ブレスの放出起点をやられるのは敗北に直結してしまう。


 そうこうするうちに口から血の塊が溢れ、ブレントは己の死期がすぐそこまで迫っていることを察した。


「……んん」


 しかし、毒殺神父は焦らない。無駄口は慎み、戦闘に専念するよう切り替えた。

 攻撃は、いや、一部を除いて防御さえ捨てる。


 この喉が嗄れて潰れる最後の最後まで、息を吸い、吐くことだけはやめず、それを妨げる攻撃だけを除けていく。

 まさに病めるときも健やかなるときも、全身全霊をもって戦うと、誓った通りの行いで、極限状態も相まって、彼は己の敬虔さに対する陶酔に半ば陥っていた。


 その誓いを詠唱してくれたイリャヒはというと、なにごともない様子で、礼拝堂の隅に立って静観している。

 おそらく〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉を視認不能なくらい薄く展開して全身を覆い、防菌しているのだろう。

 ヴァルティユの使い魔である赤い蜥蜴は、彼の肩の上に移動し、その恩恵に浴していた。


『入れてくれてありがと、イリャヒくん』

「どうもです。それよりヴァルティユ氏、そろそろ決着がつきそうですよ」


 微笑ましい光景で、指摘も適切だ。

 ついにブレントは、崩れ落ちるように片膝をついた。

 いまだに鼻血の量が少し増えた程度の様子であるユアヒムが、勝ち誇ったムカつく顔で見下ろしてくる。


「ははは! ほら、やっぱり俺が正しい! この世界は弱肉強食! 神なんかクソ食らえなんだが!?」


 そしてその姿も赤く染まった。

 ユアヒムの体ではなく、ブレントの眼の方からも出血しているせいだ。


 まったく関係ないただの偶然だろうが、ユアヒムの黴菌息吹ファンガスブレスは、ブレントがドヌキヴに使った「コンセプトアクア・バージョン1」の毒に症状が酷似している。

 弱肉強食かどうかは知らないが、少なくとも因果応報ではあるらしい。


「神を殺す! 神を喰らう! そして神になるっ!」


 ここがどこかわかっているのかいないのか、ユアヒムは知性を欠いた景気のいい冒涜の言葉を吐き散らかす。

 対するブレントは本格的に喉をやられつつあり、息を吸うので精一杯、激痛ゆえもはや口から吐くことができない。


「あとついでにアクエリカとかいう聖女? 絶対に腹黒のクソビッチに決まってるし、俺が抱いて孕ませてや……ぽぱぁっ!?」


 だからと、今の今まで起きていた致死性の不調が呆気ないほど軽くなった。

 なのでブレントは跪き……いや、脚を撓めた姿勢から、伸び上がった勢いそのままに、ユアヒムの鼻っ柱へ思いっきり拳を叩きつけたのだ。


 それなりの爽快感とともに、まずは構図が逆転した。

 すぐさま喉までが復調したブレントは、少しの間だけ黄泉に預けられた己の声を取り戻し、差し当たっての罵言に用いる。


「……聞き捨てならないな。お前ごとき下等生物が天より尊いアクエリカ様を、なんだって? お前は一生地虫とでも交尾していろ」


 鼻からさらに出血大サービス状態のユアヒムは、似合いの地面に這いつくばり、裏返った声で叫ぶ。


「な、ななな!? なんだってー!?」

「うるさい、真似をするな。自分のケツに舌突っ込んで死ね」

「口まで絶好調じゃないか!? なんだってそんな急に回復したんだよ!? さてはズルだな!? ズルでもしたんだろ!?」

「言っている意味がわからないが……いきなり謎の新能力が都合良く生えてくるのは、お前が寝る前にする妄想の中だけで充分だ。

 僕は誰でも思いつく、つまらないやり方を実行に移しただけだよ。お前程度を相手にするのに、複雑な策なんか必要ないからね。

 というか、別にお前だって同じことをすればいいんだ。ほら、どうぞ?」


 なんのことはない、息吹の外部放出を使えなくなったブレントは内部循環に切り替え、体内に侵入している黴菌を劇毒で殺し、本来の再生能力を取り戻しただけだ。

 より正確に言うと、そういう毒物を生成できるよう、適切な配合検索を繰り返していたことになる。


「ぐ……くそーっ! お、俺だって、やってやる! 俺はほら、普段やらないだけだから、やればできる子だから! ふんにょーっ!!」


 気合いを入れる声すら気持ち悪いというのは、もはや芸術の域である。

 しかし、土壇場で僕ちゃんがちょっとイキってみたところで、普段練習していないことができるわけがない。


「彼、内部循環というのもできるのですか?」

『できているところは見たことがないな。何度かは教えたんだが、いつも屁理屈捏ねて逃げるばかりでな』


 ちょうどよくイリャヒとヴァルティユが答え合わせをしてくれる。この二人は良質なギャラリーだ。


「ふ、ふぐにゅ……お、おかしい……俺が最強じゃないこの世界の方がむしろおかしいんだが!?」


 そしてもう一つ。仮にユアヒムが技術的に習熟していたとして、奴が自らの息吹にその身を委ねることができたかどうかもまた別の話だ。

 戦闘のロジックに精神論を持ち込むのはミレインでもラグロウルでも流行っていないが、ここだけは覚悟と決断の領域に入ってくる。


「災い転じて福となす、毒も長じれば薬となる……菌だって使い方によってはそのはずなんだ。だが、お前は研鑽と応用を怠った。

 天から授かりし力をブッ放しているだけなんだから、負けるのは当たり前だろう。そしてそれとは別に、お前の敗因はもう一つある」


 ユアヒムは普段から他者ひとの話を聞いていないが、もはや聞くこともできまい。

 ついに毒の進度が命に触れる段階に到達し、鼻に加えて耳からも流血が始まったからだ。


 元から捻じ曲がっていた脳がさらにグニャグニャになり、三半規管ごと狂ってしまったユアヒムは、歩行もままならなくなり、膝立ちが精一杯の様子で眼を回している。


 これで形成も逆転であり、ブレントは被毒対象を冷静に観察し所見を述べるという、通常の戦闘時の物腰を完全に取り戻していた。


「やれやれ、本当にかなりの時間を要してしまった……この毒は行動不能に陥れるまでが遅くてね。ただし、そこからは一直線だ。

 こいつはいくつかの寄生虫を参考に精製した代物でね。まず脳に到達するとグチャグチャに破壊し、指令能力を乗っ取ってしまう。

 そして脳に、全身の組織がそれら自体を溶解させるような命令を誤発信させるんだ」


 水というのは長期的に見れば、王水をも凌ぐ溶媒の神である。

 このまま放置すると骨も残さず全身を、最後は自滅命令を誤送信した脳自体をも溶かし切り、最初からなにもなかったかのようにこの世から消滅させるという、棺桶いらずの欲張り毒殺キットがこの「コンセプトアクア・バージョン3」なのだ。

 ちなみにバージョン2はまたの機会にご照覧。


「ここはかつてアクエリカ様が副院長を勤められた聖域なんだ。いわば彼女という万民の母が掻き抱くかいな狭間はざまなんだよ。母の愛に死ね、ユアヒム!!」

『うわっ……なあイリャヒくん、いつの間により気持ち悪いこと言った奴が優勝みたいなルールができたんだ? 私そんなの追加してないぞ?』

「わからないです」


 ギャラリーの二人がなにを言っているのかが、それこそブレントにはわからなかった。

 しかしキメ台詞を訂正する必要性を感じたため、彼は腕を振るい、制服の裾を翻して叫ぶ。


「アクエリカ様の胎内に回帰して死ね! ……ヴァルティユさん、これでどうかな?」

『どうもこうも、取り返しのつかないレベルで気色悪くなったなとしか……私に訊くなよ。というか、アクエリカにヤバい感情を向けたり願望を投影している奴、ミレインに多すぎないか? 彼女、本当に平気なのか?』

「ご心配なさらず。猊下は海のように懐が広いお方なので、この程度なら『あらあら、うふふ』で済まされます」

『だからこの街にこういうのが集まって、性癖百科事典みたいになってるんじゃないのか? むしろ彼女が誘発する春の陽気的なやつになってないか? この街、色んな意味で大丈夫か?』

「うーんヴァルティユさんのおっしゃってることは僕には難しすぎます」


 ブレントたちが雑談して待っている間に、ユアヒムの溶解は進んでいく。

 もはや再生能力でどうこうする段階を超えた彼は、遺言となるべき片言隻語を漏らし始めた。


「い、いやだいやだ! ちょっと見栄を張って説明怠ったくらいで、なんで殺されなきゃならない!? ふざけんなよ、俺はこの街で異種族ハーレムを作るんだ! そしてスローライフを送りつつ、たまには魔物とかを倒してチヤホヤされるんどぅあ!」

「溶けた脳でそこまで醜い願望を垂れ流せるなら、享楽主義者も大したものだ。しかし……不敬だぞ、ユアヒム」


 ブレントは掲げた右足で、ユアヒムの両瞼に蓋をしながら、彼に死を宣告した。


「この礼拝堂は内装も美しい。君ごときが見る末期の光景としては、あまりに過ぎた代物だよ」

「う……うブ……殺……お、れは……れ……の王に、な……ろ……」


 ついにものごとの表面しか捉えることのなかったユアヒムの二つの眼球が、くしゃりと破裂する感触を靴底で味わわされる。

 まったく死に際まで気持ちの悪い男だと、ブレントは顔をしかめながら、外れたチョーカーごと地面に落ちた肉色の珠を、満身の力で踏み砕いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る