第133話 内心の罪③


「よー、リュージュ。お前、いつの間に調香師に転職したんだ?」


 ようやく自分になにが起きていたのか理解が及んだデュロンが声をかけると、リュージュは特に衒いもなく、真っ正直に答えてくる。


「別にこういう用途を想定していたわけではないぞ。単なる趣味の産物として、いつも持ち歩いているだけだ。近しい女の匂いを嗅ぐと、幸せな気分になるであろう?」

「まるで俺が同類かのように、比較的ソフトな変態性癖への同意を求めるんじゃねーよ……」


 どうも誤解されがちなのだが、デュロンやオノリーヌ、ベルエフのように、人狼の中でもさらに鋭い嗅覚を持つ者は、繊細なニュアンスまで嗅ぎ取れてしまうため、逆に匂いフェチにはなりにくい。

 中途半端に鼻が発達している方が、むしろ危ないゾーンなのだ。


「どういう植物を使って、どうやって作ってんのかは、この際訊かねーけどよ……せめて私的に楽しむに留めろよ」

「ふふ、わかっているとも。それにこれはわたしとヴェロニカ、二人の共有技術なのだから」

「またあいつかよ……お前ら互いの能力を悪用しすぎで、もはや共犯関係だぞ」


「……そっか……そうだよね」


 声に振り向くと、タピオラ姉妹が意識を取り戻しており、寂しそうに微笑んでいた。


「リューちゃんも、こっちに仲間や友達がたくさんできたんだもんね……」

「うちらのことなんて、もう忘れちゃってたもんね……邪魔だもんね…」


 くすんくすん、とわざとらしく嘘泣きしてくる二人だが、感情自体は虚偽とは言い切れないことを、デュロンの嗅覚が察している。

 デュロンと姉妹にチラチラ視線を向けられたリュージュは、しばらくして観念した様子で天を仰ぐ。


「ああもう、わかったわかった。……と言っても、上の方からガチャガチャやられるのは面倒だから、私的に里帰りするという飛んで火に入る夏の虫のような真似は、今後もするつもりはないぞ。というかできないしな」

「ぶー」

「けちー」

「リューちゃん、けちだよね!」

「戻ってこいよ、リュー! 青春っぽく!」


 拗ねてウダウダ言い出すタピオラ姉妹を、本当に面倒くさそうに見ながらも、リュージュは少しだけ耳を赤くし、訥々と述べた。


「うるさい。……だが、まあ、なんだ……里の近くでなにか外的な問題が発生して、誰かが派遣されるような任務があったら……わたしが志願して行くとか、そういうことはあるかもしれない。そのときは少しくらい時間を取ろうではないか」

「「……!!」」


 なにを言われているかを理解した姉妹は、パッと顔を輝かせ、跳ね起きてリュージュに抱きついた。


「リューちゃん、大好きっ!」

「その言葉を待ってたよっ!」

「フフ……こらこら、やめるのだ……」


 まんざらでもない様子のリュージュに、姉妹はますます甘える。


「なんだかんだ言って、結局うちらに構ってくれるお馬鹿ちゃんだよね!」

「やっぱりリューちゃん、ちょろいよね!」

「あーやっぱりクソであるなこいつら」


 両腕の振りで姉妹を吹っ飛ばしたリュージュは、石畳に叩きつけられて悶絶する二人を呆れた様子で見下ろし、たぶんそれが適切な対処なのだろう、放置してその場を立ち去った。

 デュロンも慌てて後を追いつつ、後ろを振り返ると、姉妹は地べたでじたばたしながら、性懲りもなく黄色い声を上げてくる。


「リューちゃん、うちらのぶんも頑張ってね! お菓子とか食べながら応援してるよ!」

「託したぞリューよ! 優勝したら、なんかの間違いでうちらを指名してくれてもいいよ!?」

「はいはい、お疲れ様。ゆっくりしていけ」


 背中越しに手を振るリュージュに追いつき、デュロンは遠慮がちに尋ねる。


「おい、いいのか?」

「うむ。あいつら、これくらい適当に扱わないと、ずっとついてくるからな」

「それもあるが……敗退したとはいえ、そのままにしといて大丈夫なのか?」

「ああ、そちらも問題ない。決着がついた後にチマチマ掻き回してくるとか、あいつらは……つまり、はそういうことはしない。そこは信用してくれていい」


 リュージュの戦いに対する廉直さは知っているので、彼女の言うことをデュロンはそのまま呑み込んだ。



 なにはともあれ、まずはアクエリカに報告だ。

 といっても、どうせ彼女はすでに状況を把握している。

 なので、聖ドナティアロ教会の最奥に位置する、教区司教のオフィスに入ったデュロンは、開口一番、どちらかというと苦情に近いものを発した。


「よー、姐さん。なんであんなもん了承しちまったんだ?」

「そんなことを言って……デュロン、リュージュ、あなたたちも肌で感じているはずでしょう?」


 打てば響く玲瓏な声が、瑞々しい優しさを伴って反問してくる。

 アクエリカ・グランギニョルは、今日も幻想的な美貌でおっとりと微笑み、膝の上で眠る灰色の子猫をゆっくりと撫でていた。


 相変わらず底の見えない女だ……とデュロンが考えた次の瞬間、アクエリカは童女のように大きく眼を見開き、悪戯っぽく口を両手で覆った。


「あっ、ごめんなさいね? こんな言い方をすると、あなたたちはわたくしの裸の感触の方を思い出してしまうわよね? 配慮が足りませんでしてよ。わたくしもまだまだですね〜」

「言ってねー、一言も言ってねー……つーかあなたたちって言った? ……そういえばリュージュ、お前、レミ姐や姉貴やヒメキアはともかく、この人の匂いはどうやって採取したんだ?」

「ん? どうもこうも、普通に『ください』とお願いしたぞ。猊下は優しいお方だからな」

「そうね。リュージュとはあまり話す機会がなかったのだけど、急速に仲良くなってしまったわね。

 根を詰めすぎるとよくないですから、こう、適度にといいましょうか……。

 もちろんデュロン、あなたの考えている通りの意味でだけど……」


 これ以上続けるとドツボに嵌まることだけはわかったので、いい加減学習しつつあるデュロンは話を戻した。


「おーよ。つまり気晴らしとか、ガス抜きってことだろ。

 アゴリゾの旦那が企ててた計画の全貌と、前提とする最前の情勢は、この前ギデオンから聞いた。

 ウォルコんときも根っこは同じだったな。そういう、高まっちまってる好戦の気運を消化するにはもってこいの催しだったっつーわけだ」


「衣食足りて礼節を知る、なんて言いますけど……パンが足りたらサーカス寄越せ、の方が本質に近いと、わたくしは考えますね〜。

 つまり今、我々が構築してきた魔族社会は、そういう段階に到達しつつあるということ……いわば、円熟期でしょうか?」


「ものは言いようすぎるぜ……元々ある魔術的な監視網を一時的に半公開状態にでもするのか、向こうから勝手に使い魔……もはや覗き魔越しに睥睨してくるのかは知らねーけどよ。暇を持て余した世界中のバケモンどもに遠地から観戦されるってんじゃ、嫌でも萎縮しちまうぜ」

「またまた〜、この程度はいつものことでしょう? 気にせず力を発揮なさいな」


 元の怜悧さが戻った群青の双眸で、アクエリカはここではない深遠を捉える。

 彼女の思考は先見性が高いだけで、内容はさして複雑ではないことはわかっている。


 食らいつこうと泳ぎ続けさえすれば、絡め取られて溺れることはないのだ。

 そして一つの岸へと辿り着いたリュージュが、恭しく言葉にした。


「興行の側面を帯びるのは、進行自体に支障はないとは思いますが……問題は……」

「ええ。わたくしもジュナス教会の重鎮の一人として、抑止したいのは山々なのだけど、知らないところで勝手に動いていくお金については、どうにも把握しようがないのですよね」


 つまり、今回ミレインで開催される〈ロウル・ロウン〉は、王侯貴族だか暗黒街だか、その他得体の知れない連中の間における、巨額の賭けの対象になっているということだ。

 そしてその結果に応じて、世界が良からぬ方向へ傾くことも……という、またいつものやつである。いい加減、重荷の過積載は勘弁してほしい。


 アクエリカは目覚めた子猫をデスクの上に置き、ぐぐっと伸びをするかわいい姿を眺めて微笑みながら、その視線とはまるで温度の異なる内容を口にした。


「細かいところは、わたくしが調整しておきます。ややこしいことが抜きになるように……つまり、あなたたちのペアが優勝さえすれば、なんの問題もないようにね」

「逆に言うと、俺らが勝ち抜けなきゃヤベーってことか……なー姐さん、そろそろヴェロニカに頼んで、俺の心臓と胃袋のスペアを培養してもらっといてもいいか?」

「構いませんけど、気をつけた方が良くってよ? あの子があなたに対して一番興味を持っているのは、睾丸と陰茎だもの」

「最近この組織、風紀が乱れすぎじゃねーか? 原因はわかってるが……そういやあいつらどこだ? まさか……」

「大丈夫、別室でちゃんと仕事をしてるわ。メリーちゃんを監視に付けてあるから大丈夫よ」

「逆に言うと監視ないとダメなのかよあいつら……いいご身分だな!」

「嫉妬も程々にね。あなたたちの方も、差し当たっては専従任務の扱いにするから、これに集中しなさい」

「司教猊下の寛大な措置に、感謝いたします」


 けっして皮肉で言っているわけではないらしい、リュージュの良い返事を合図とし、二人は退室しかけた。


「デュロン、ちょっと残りなさい」


 その呼びかけに動揺したのは、むしろリュージュの方だったが……なにかを抑え込むような様子を見せ、謹厳に踵を返して去った。


 彼女の足音が遠ざかるのを確認し、どこまでも捉えどころのないアクエリカの笑みが、さらにかげりを増す。

 果たして〈青の聖女〉はこう言った。


「ねえデュロン? 今回は完全に〈昼〉の案件ですから、〈夜〉に生きるあなたが息をしやすいように、月の光を一雫、スパイスとして垂らしてあげましょうね」


 要りません、とは口が裂けても言えない。それが猟犬にして虜囚である、〈銀のベナンダンテ〉の定めなのだから。


 そして、与えられた密命に対し、二、三の質問を重ねたデュロンは……確かにこれはバラすとマズいなと、一人で納得する羽目になった。


 相棒バディに対し、隠しごとなどしたくないが……こればかりは仕方がないのだ。

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