第125話 割れた鏡の向こう側では


 痛い、苦しい。

 でもそれ以上に、寂しい、逢いたい。


 ここがどこで、自分がどうなってしまったのか、メイミアにはわからない。


 直前には恐怖の感覚だけがあり、意識は完全な暗黒に包まれていた。

 まさか人狼と吸血鬼が、結託して乗り込んでくるとは思わなかった。


 せっかくこの前、エトちゃんが本当の名前を教えてくれたところだったのに。

 きっとあの子は誕生日プレゼントを用意して、早くに訪ねてくるのだろうに。


 驚いただろう。悲しんだだろう。幼い心にトラウマを植え付け、純粋だった性根を、悪魔のように変貌させてしまったかもしれない。


 揺蕩たゆたう自分よりも、彷徨さまよう彼の行く末が、メイミアは気がかりだった。


 ●●●●、●●●●。


 メイミアは忘れないように、あの子の真名を闇の中で繰り返す。


 もし自分が生きていて、なんらかの存在に転化し、特別な力を得ることができたのなら……やりたいことはただ一つ、あの子を見つけることだけだ。


 成長して風貌が変わってしまい、妖精としての通り名を変えてしまっていたら、たとえ眼の前を通り過ぎたって気づかないかもしれない。そんな事態はなんとしてでも避けたい。


 神様、ジュナス様、他の誰だっていい。

 どうかわたしに眼をください。


 あの子がどんなになっていても、変わらないその本質を……その真名を捉えることのできる……妖精族にとっては邪悪そのものの、看破の邪眼をくださいな。


 他にはなんにも要らないから。弱くったって構わない。

 だって今度は、離れないから。強いあの子がいるから。

 あの子がわたしの側にいて、わたしを守ってくれるのなら、わたしはそれだけで……。




 おぼろげに意識を取り戻したとき、メイミアの耳に届いた声は、やけにくぐもっていた。

 どうやら水の中に浮かんでいるようだと、彼女はぼんやり思考が及ぶ。


『……ったく、ミレインに送り飛ばされてきて最初の仕事が、死体のお守りかよ。縁起悪いったらねえぜ、先が思いやられるね』


『だーかーらー、死体じゃないって言ってるだろ!? 縁起悪いのはキミの言い草だよ、ベーコン・ダイスバーガーくん!』


『ベしか合ってねーから! ……つーかよ、生きてるってんならなおさら、服ぐれえ着せてやったらどうなんだ?

 なんでこの手の培養槽って、絶対に生体を全裸で浮かべてんの? 学会でそういうふうに決まってんの? お兄さん閉口するんですけど?』


『バカかい、キミは? 彼女は元々、腹から下を失っていたんだぞ。どこかのおバカちゃんが吸血鬼の血をバシャバシャ撒き散らしてくれたのが幸いし、生理学的にギリッギリ死んでいなかった彼女にぶっ掛かったおかげで、徐々に転化が始まっていて一命を取り留めたけど……ボクの技術を使っても、結局五体が再生しきるのに10年かかったんだ』


『……ん? おかしくねえか? お前、見た感じこの子と同じくらいの年格好だが、今いくつよ?』


『ボクかい? 彼女の止まってしまった肉体年齢と同じで、15歳だけど? ん? お察しの通り、ボクは5歳のときから生体研究の最前線にいる、神童の中の神童だけど?? んっふっ? 褒めてくれていいんだよ???』


『クッソ腹立つガキだな……で、それがなんの関係があるんだよ?』


『だーかーらー、服なんか着せといたらそれで隠れちゃって、自己修復の過程を把握できないでしょ? おじさん大人なのにそんなこともわかんないの?』


『俺はまだおじさんじゃねえ。……いや、だったら治ったとこまで覆えるような、ワンピースタイプのなら問題ねえだろ』


『わかんない人だなあ! いいかい、ボクの仕事はいつも激務なんだ。こうしてかわいい女の子をすっぽんぽんで水槽に入れて置いとくと、ふとした瞬間に眼に留まり、疲れた心にスーッと効いて癒されるじゃないか!』


『お前の趣味じゃねえか!? この子も災難だな、とんでもねえエロガキに……ん? おい!』


『どしたの?』


『彼女を見ろ! 意識が戻ってるぞ! 転化と再生が終わったんだ!』

『エッ!? ほ、ほんとだ! あわわ……排水! 排水しないと! ええと、どれだっけ』

『だあっ、しゃらくせえ!』

『ギャーッ!?』


 衝撃とともに押し流され、耳と鼻の詰まりが抜けて、大きく息を吸ったメイミアは、思い切り咳き込んだ。

 肺を使うことが久しぶりだったので、慣れるのに少しだけ時間がかかった。


 バスローブをかけてくれる大きな手の主が優しい気遣いを発し、それに少女の甲高い声が答えるのが聞こえた。

 皮膚が纏う空気の感触すら、もはや懐かしく思えてしまう。


「大丈夫か、お嬢ちゃん? もう裸を毎日じろじろ見られることはねえから、安心しな」

「ちょっと!? ボクが諸悪の根源みたいな言い方やめてくれるかい!?」


 メイミアがゆっくりと眼を開くと、黒髪を逆立てた強面こわもてで大柄な男と、癖の強い緑髪に眼鏡と白衣が特徴的な少女が、心配そうに覗き込んできてくれていた。


 それはわかるのだが、メイミアの視界には奇妙な金色の光が満ち、不自然な文字列が映り込んでいた。

 年号や種族名、人物名らしきもの……肉、白、犬といった断片的な単語が横溢していたりして、整理するのに時間がかかった。顔をしかめ、何度も瞬きしてみる。


 しばし眩惑されたが、ようやく焦点の合わせ方がわかってきた。

 ひとまず眼前の二人に集中すると、彼らの名前らしきものが浮かび上がってきたので、メイミアはほとんど無意識に口ずさんでいた。


「はい、平気です。ありがとうございます……ベルエフ・ダマシニコフさん……と、ヴェロニカ・ゲーニッハさん……?」


 思い切って眼を閉じてみたら、金色の光は消え、名前やらなんやら、余計な文字列も見えなくなった。奇妙だが楽ではあるので、メイミアはそのまま二人と対話してみる。


 一方のベルエフとヴェロニカは顔を見合わせて、メイミアに視線を戻すところだった。


「おいヴェロニカ……俺かお前、この子の前でどちらかの名前を口にしたか?」

「いや、一度もしてないはずだぜ。とすると、このボクの天才推測によれば……」

「彼女の能力か。どうもそういう、見えちまう系に開眼したみてえだな」

「あーもー、ボクが言おうとしてたのに!

 おはようメイミア、ボクがキミのマスターさ!」

「この緑色のアホの言うことは気にしなくていい。ひとまず眼は封じた方がいいだろう。おい緑、用意しろ」

「ムキーッ! このおじさん扱いにくい! 天才特権発動! チェンジ! チェンジで!」

「だからまだおじさんじゃねえっつってんだろう、26だ俺は」


 目隠しを施されて落ち着いたメイミアは、流動食で空腹を癒しながら、ベルエフの話を聞き始めた。ちなみにヴェロニカはふてくされて、並べた椅子の上に寝そべり、ときどき茶々を入れてくる。


「んじゃ、いちおう身上書っつーか、人事資料的なものを書かなきゃなんねえから、適当に改竄だとか捏造しながら埋めてくぜ」

「は、はい……」

「流れるような邪悪に辟易する目隠し少女の図……せんせー、すでに絵面が事案でーす」

「うるせえ外野はほっとくとして、まず名前を決めなきゃならんな。しょうがねえから外野にも訊いてやる。なんか案あるか、ヴェロニカ?」

「はい! パルテノイちゃん! が、いいと思いまっす!」

「どっから出てきた?」

「語感が良い、以上!」

「ペットの命名じゃねえんだからよ……まあ素性を隠さなきゃならねえから、変にそれらしい意味のあるやつよりはマシなんだが……」


 視線を向けられ、メイミアは率直に言った。


「わたしも、いいと思います。なんかもっちりしていて、かわいい名前ですし。気に入りました!」

「だよねだよね! 女子の感性に押しやられるおじさんの図が完成したぜ! ざまあ見ろ!」

「やかましいわ。……じゃ、お前さんがそう言うのなら、それで決定な。

 あと申し訳ないんだが、姓はパチェラーを使ってもらう」

「それこそどっから出てきた? ボク疑問」


 ベルエフは気遣わしげに言い淀みつつも、事情を説明してくれる。


「んー、メイ……じゃねえ、パルテノイ的には複雑かもしれねえがよ……つまり、お前さんを、こう、半殺しにした二人組だが、人狼の方は完全に身寄りがなかった。

 吸血鬼の方はそこそこのボンボンで、キレた妖精たちが報復で一族郎党皆殺しにしちまい……。

 ああ、これはよくあることだから気にしなくていい。手を出す相手を間違えるような間抜けを輩出する家が悪い、運の尽きってやつだ。

 んで、お前さんの出自の偽装のために、絶えた家名だけパクって利用することにしたわけ。

 気分も縁起も悪いが、一番偽装しやすい方法なんで、我慢してくれると助かる」


 こっくりと頷くメイミア……パルテノイを優しく見下ろして、ベルエフは書き込むページを繰り越して、メイミアにいくつか質問した。

 どうやら今度は記憶のテストのようで、比較的淀みなく答えていく彼女に、ベルエフは満足そうに頷いてみせる。


「問題ねえようだな。事件の前後はショックで消えちまってるが、そんなもんは思い出さなくていいさ」

「そうですね。ただ、一つだけ……」

「ん? なんだ、言ってみな」

「わたしはあの子……●●●●ちゃんに」

「それは、妖精族の真名だな? その子に会いたいってことか」

「そうなんです! ●●●●ちゃんが、わたし……あれ?」

「どうした?」


 パルテノイは焦り、メイミアだった頃の記憶を必死で掻き回した、のだが……ダメだ。

 あの子が教えてくれた真名だけは、繰り返し刻んでいたので覚えているが、どういう子だったか、どういう関係だったか、普段なんと呼んでいたかといった、周辺情報が完全に飛んでしまっている!


 がっくりと項垂れたパルテノイは、探す方法はただ一つであることに思い至った。


「……たぶん、顔を見たら……つまり、この名前を直接この眼で見ることができたら、思い出せると思います……」

「妖精族はそのへん融通が効かねえからな、あいつらに直接尋ねるわけにもいかねえ。ま、生きてりゃそのうち見つかるさ!」


 しかしヴェロニカは納得がいかない様子で、並べた椅子の上でバタバタ暴れた。


「そんな無責任な! ボクに任せておくれよ、脳味噌チュッチュして直接記憶を吸い上げてあげるからさあ!」

「どっちが無責任だよ!? てめえなんぞに任せられるか! きっかけってもんがあんだろうが!

 いずれ運命が自ずと二人を引き会わせるはずだ! 俺はそう信じてる!」

「うわ、ロマンチストだ! しかもその顔で!」

「顔は関係ねえだろ、クソガキ!」


 ドタバタ騒ぐ二人を笑ってたしなめながら、しかしパルテノイは不安を抱えていた。


 この広い世界で、本当にもう一度あの子と会えるのだろうか?




 それから10年の月日が流れた、1558年5月某日。

〈美麗祭〉から帰ってきたパルテノイは、アクエリカに付き従って歩きながら、ローブの下で滝のような汗をかいていた。


 きた。来た! 本当に来た! あの子だ! ●●●●ちゃんだ! ちゃんと生きて、しかもこの街にいたのだ!


 そして本当に、顔を見た瞬間にすべてを思い出した。かわいいエトちゃん。向こうはこちらの顔が見えなかったようだが、それはいい。


 すごく逞しく、かっこよくなっていた。

 会いたい。会いたい! 今すぐもう一度会いたい!


 そしてオフィスでパルテノイと二人きりになると同時に、アクエリカは妖艶な流し目を向けた。


「さて、パルちゃん。あの男の真名……の他にも、なにか言わないといけないことがあるようね?」


 この人は本当に察しが良くて助かる。

 パルテノイは課せられていた任務の報告とともに、一切の事情をまくし立てた。


 喋っているうちに様々な感情が溢れ、涙が流れて止まらなくなる。

 パルテノイは気づけばアクエリカに優しく抱きしめられて、彼女の胸に顔をうずめて嗚咽を漏らしていた。


 泣き止むまで頭を撫でてくれた彼女に、パルテノイは何度も何度も、しつこいくらいお願いした。

 小さな頃すらしたことがなかったほどに、必死で甘えておねだりした。


 どうかどうかあの子を、絶対に絶対に殺さないでください。

 それだけが彼女の、この世界に対して、たった一つだけ捧げる祈りだったのだ。

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