第114話 愛や信仰の形はみんなそれぞれ


 それまでエトランゼの涙を隠し、また洗い流してくれていた雨が、アクエリカの手掌によって統括され、波濤と化してエトランゼに襲いかかる。


「くっ……!」


 走り、跳び、転がり、蹴った反動で後退して避けながら、エトランゼは接近の機会を伺った。


 もしこの面倒臭さの塊のような捻じ曲がった女の固有魔術が単純な水流操作なのだとしたら驚くしかないが、制御力と応用力重視で変に凝らないという意味では納得できる。


「…………」


 現にアクエリカはなにか思いついた様子で、エトランゼを巧みに屋内へと誘導していく。

 エトランゼが彼女を追い詰めるような形になっているが、実際には彼女の呼び水に逆らえず引き寄せられている格好である。

 わかっていても、彼女の手管からは逃れられないのだ。


「イヤアアッ!?」「なに!? なんなの!?」「アクエリカどこ行っ……ええ!?」


 波濤が木製の壁を破壊し、修道院の廊下へと二人ごと雪崩れ込んだ。

 掃除に励んでいた様子の修道女たちはパニックに陥り、ほとんど波乗り状態で戦う二人から逃げようと慌てふためく。


 そしてアクエリカがわざわざ作った、その危機を利用する好機を逃すわけがない。


「危なーいっ!」

「きゃあっ!?」


 自分でそういうふうに動かしておきながら、たまたま修道女の一人を庇うように見えなくもない形でエトランゼの杖を受け止めたアクエリカは、エトランゼにしばらく大量の瀑布を差し向けて動きを封じながら、へたり込んだ修道女にキスしている。


「リリー、愛してるわ。ここはわたくしに任せて、逃げなさい!」

「で、でも……!?」


 アクエリカはすごくカッコいい角度で振り返り、ちょっと反りすぎなくらいのポーズをキメて言っている。


「生き残ったら、わたくし……あなたが焼いたマドレーヌを、もう一度食べたくってよ」

「え、エリカちゃん……好き! 大好きだよぉっ! わたしも生き残るから、あなたも、絶対……!」

「みなまで、言わせないわ……」


 なんだこの茶番……自作自演の極みである。

 要は好みの女にはこういう寸劇を仕掛けて落とすらしい。勝手に巻き込まないでほしい。

 そして嫌いな女にはどうするかというと、当然……。


「あーしまったー巻き添えにしてしまったわー」


 いくらなんでも棒読みにも限度がある。

 どさくさに紛れて日頃から気に食わなかった修道女や生き残られるとまずい修道女を、アクエリカの水は方円自在に千変万化して、溺れさせ、壁や床や天井に叩きつけ、収斂させて突き刺し、切り刻み、蛇のごとく水圧でくびり、圧し折り、体の穴という穴から浸入して破壊し、様々な苦痛を与えて殺していく。


 目撃者かつ生存者というのは残されなかった。

 どうもアクエリカはこういうやり方を好むらしいと、エトランゼはいちおう覚えておく。


 少々派手にやりすぎたようで、数分もすれば黒や紺の制服を着た大人たちが駆けつけて、生き残った修道女たちを保護した。ミレインの祓魔官エクソシストたちと、市役所の職員たちだ。

 そして唯一落ち着いているアクエリカから事情を聴き始めた。そりゃ落ち着いているだろう、すべて彼女の掌の上なのだから。


 アクエリカは案の定、暴漢が侵入して修道女たちを無差別に殺し始めたので、自分が戦ってなんとか撃退したが、何人か自分の魔術にも巻き込んでしまった、と主張した。大筋で間違ってはいない。


 エトランゼはそれを、彼女が背にした壁の残骸の後ろに潜み、破壊された救世主ジュナス像を眺めながら聞き届けるしかなかった。どうやらそこは聖堂だったらしい。

 アクエリカはもちろんエトランゼがそこに隠れていると知っていたわけだが、なぜだか告発してこなかった。


 ようやく一人、いや二人になれたタイミングで、彼女は背中越しに、静かに話しかけてくる。


「今後もわたくしを付け狙うなら、好きにどうぞ。それがあなたの救いとなるのなら、わたくしはあなたのための聖女となりましょう。ただ、あなたにもいずれは、わたくしの治める世界の一部となってほしいわね」


 一方的に言い放って去っていく彼女の華奢な後ろ姿に、エトランゼは輝くなにかを見ていた。

 雨は上がったが虹とは違う。それを光背と呼ぶのだと、彼は成長した後で知ることになる。


 世界のすべてを憎む必要などない。

 これからは彼女が巨悪として、彼の前に立ちはだかってくれるのだ。

 彼女を殺す方法を考えている間だけは、メイミアがいなくなった悲しみを忘れていられる。

 生きる活力が湧いてくるのを、エトランゼはひしひしと感じていた。




 その一方、同じ現場で、とある男が戦慄を覚えていた。

 当時はまだ一介の職員でしかなかった彼は、青い髪の少女が笑顔の奥になみなみと湛えた異常性を見抜いていた。


 なにもかもがびしょ濡れで、死因もすべて洗い流そうとしているが、手を替え品を替え彼女一人がったことは、芬々ふんぷんと漂う悪意の香りが、他のなによりも雄弁に語っている。


 そして彼女の恐ろしいところは、彼に嘘がバレていることを見抜いていながら、それを気にも留めていない点だ。

 こんな木っ端野郎の一人や二人、どうとでもなるという認識なのだろう。

 そしてそれはおそらくその通りなのだ。


 真っ暗に細められる群青色の瞳を見返した瞬間、男は天啓とも呼べる確信を得た。

 この邪悪な少女を放置しておけば、世界はいずれ必ず混沌と破壊の渦に叩き落されると。

 そして、彼女を止めることこそが、この場に居合わせた彼の使命であることを。



 最初は一冊のスクラップブックだった。

 男はこの20年間、アクエリカの動向をつぶさに追跡してきた。

 彼女がまだ無名の一修道女でしかなかった頃は、彼女がちょっとした表彰を受けたときの新聞記事だったりとか、彼女が手掛けたという教会内の掲示・刊行物をピックアップしてそこから心理傾向を分析しようとしたなどという、涙ぐましい努力の跡が残っていたりする。


 しかし彼女がとある修道院の副院長となった後、院長を経ずに司祭位と生前列聖を受け、〈聖都〉ゾーラに移り住んでその名を轟かせてからは、むしろ溢れるほどの情報を手にすることができた。

 毎週のように彼女絡みと思しき事件や事故が発生し、毀誉褒貶の渦が巻き起こる。


 その頃には男もそれなりの立場と知縁を得ていたので、ゾーラやアクエリカ周辺の状況について細々としたところまで流してもらい、そこからアクエリカが次にどう動くかを予測していった。

 あるいは単純に雑然とした所見や所感を毎日書き綴っていると、ノートが次々に埋まった。

 アクエリカが招かれた場所や謀略を働いたらしき場所の資料を無理を言って取り寄せ、彼女がなにを企むか、どう仕掛けたかを、自分もその場にいるつもりになって考えた。


 気づけば膨大な資料が書斎に積み上げられ、足の踏み場もなかったが、どうせ家へはか寝に帰るだけだ、支障はない。

 主に外聞のために結婚し子を設けたが、彼らを愛していることは間違いないし、仕事は仕事できちんとやっているので、多少プライベートがだらしないくらい許してほしいものだ。



 しかしついに妻の理解は得られず、気味悪がった彼女が「もうこんなことはやめて」「こんなことをしてどうなるの」「そんなにご執心なら、そのアクエリカとかいう女と一緒になったら!?」などと口うるさいので、「やめるわけにはいかない」「具体的にどうなるかはわからないが、私がやらなければならない」「それはできない。なぜなら彼女は聖者だからだ」と客観的事実を並べ立てた。

 結果、妻は二度とまともに口を利いてくれない家庭内別居状態となった。男はため息を吐いた。

 成長した娘もほぼ同じ反応を示し、男を汚物のように扱ったが、年頃だから仕方ないなと男は割り切って考えることにした。



 そういえばアクエリカはどんな思春期を過ごしたのだろうと、男はふと思いを馳せた。


 幼い頃から己の身を立て、処世術を確立していた孤児みなしごである彼女のことだ、周囲の大人に甘えるような反抗期などなかったに違いない。


 可能なら自分がアクエリカのパパになってあげてもいいのにと、男は他意も衒いもなく思った。


 男はいつの間にかアクエリカに対し、父性愛にも似た感情を抱くようになっていたのだ。


 ああ、かわいいアクエリカよ、それでも私は君を殺さなければならない。

 私は君と違って神の声を聞くことはできないが、ゾーラから響いてくる亡霊たちの怨嗟の声……敗れ破滅し路頭に迷うかつての政敵や、謀殺された重鎮たちの遺族、路傍の石と蹴られた名もなき弱者の叫びを吸い上げ、集合知として蓄えることはできる。



 そして1552年(6年前)に、男は……アゴリゾ・オグマはミレイン市長の椅子に座ることになる。


 感慨は特にない。アゴリゾはただ座して待つ。

 家庭環境はもはや壊滅的と呼べるものだったが、これくらいの犠牲で済むなら安いものと思えた。


 アクエリカがミレインに舞い戻ってくる保証は、当然だがなかった。ただそこもやはり確信があったとしか言いようがない。



 果たして実際に、1558年5月某日、彼女は教会都市の地を踏んだ。

 教区司教と枢機卿の肩書に名実共に相応しい闇の遍歴を経て、立派になって帰ってきた。


 20年前の痩せっぽちだった少女の面影は、その群青の瞳に残っていたが、妖艶な大人の女へと成長を遂げていたことに、アゴリゾはある種の感動すら覚えた。


 市庁舎の窓から遠目に見てすらそうだったのだから、就任直後の表敬訪問を受けた際などは、うっかり生き別れの娘との再会のごとく接してしまうところだった。

「おかえり、パパだよ」などと冗談でも口にしたら、さすがの彼女も目を丸くしてしまうだろう。困ったように笑って「あらあら?」くらいは言うかもしれない。


 いずれにせよ、それとなく探りを入れてみたのだが、20年前に会った小役人のことなど、彼女はまったく覚えていない様子だった。

 それでこそアクエリカだ。壮大な政治劇の主役が街路樹に注目するなどあってはならない。



 彼女が帰った後、秘書や職員を遠ざけて一人になったアゴリゾは、部屋の残り香を胸一杯に吸い込んだ。


「んっふううううん……んマーヴェラ〜ス……」


 甘く優しい中にどこか頭の冴える爽やかなニュアンスが混じっている彼女の匂いは、家で一日一本と決めている嗜好品の葉巻などよりよほどキく。

 舞い上がっていたアゴリゾの心は一瞬で鎮まり、冷静な思考を取り戻していく。


 機は熟した。魔女に鉄槌を振り下ろすときがやってきたのだ。

 中途半端は良くない。一撃で叩き殺してやらないと可哀想だ。

 それがこの20年間の集大成として、アゴリゾ・オグマがアクエリカ・グランギニョルに向ける愛の形だった。

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