第112話 それでも君に花束を


 たとえば小鬼ゴブリンという魔物がいる。子供程度の体格と筋力、思考を併せ持つあいつらを侮ってはならない。たとえ熟練の祓魔官エクソシストであっても、油断すれば殺される危険性はあるという。

 あるいはもっと直截に述べるなら、当時のエトランゼは、人間を容易に殺しまくっていた従来型の赤帽妖精レッドキャップの基準からすると、やや小柄くらいの大きさだった。


 つまり、まだ3歳だから……彼の生涯における、まだ序章だからという理由で、その時点での仇打ちを諦めて先延ばしにする必要は、必ずしもなかったということだ。

 そしてもちろん、彼にそんなつもりは毛先ほどもなかったのだが。


「……ッ」


 エトランゼは絶叫しかけた口をつぐんだ。表情の変化を悟られなかった自信はあるが、敵の一人に人狼がいる。感情の変化は悟られてしまっただろう。花束を落としたのも失点だ。ほんの数秒でいい、籠絡するための小道具だったという方向に勘違いさせなければ……。


 湧き上がる激情を、赤帽妖精レッドキャップとしての冷徹な本能が統御し、殺しのロジックを組み上げていく。

 このときばかりは色々な意味で丈夫に産んでくれた母親に感謝する他ない。


 前提条件として、悲しみに暮れるのは後回しだ。まずは漏れてしまった怒りを偽りの目的に仮託するところから始めなくてはならない。


 そうしなければ滾々こんこんと湧き上がるそれらを、すべて出し切ることもできなくなるから。


 エトランゼはメイミアだったものに近づき、ぐちゃぐちゃになる心をなんとか押し潰して、年相応に見える地団駄を踏んでみせた。

 が、いちおう奴らに背を向けておいて良かった。もう歪んだ表情はどうにも誤魔化せない。


「あーもー、ほんとだよ! おーれーのーだったのにー! おっさんたち最悪だよ!」


 これを受けて、二人が再び警戒を解くのがわかった。やはり、おっさんの相手は楽だ。おっさんの思い込み通りに喋ってやれば納得するんだから。


「だはは、ほんと悪かったって! 後でなんか別のもん奢ってやっから!」

「やっぱこれ、チビすけくんが育ててたんだな。……あれ? そのわりに」


 しかし吸血鬼の青年の方が少しだけ敏いようだ。こいつへの不意打ちは諦めよう。

 エトランゼは、半分になってしまったメイミアを抱えて叫んだ。


「だめだめだめ! おっさんむかつく、許さん!」


 ごめん、メイミア。

 やっぱり今のおれは、一人きりでこいつらを殺すスキを作ることはできない。

 だからほんの少しだけ力を貸してくれ。

 乱暴でごめん。やっぱりおれは、レッドキャップだから。


 内心でそう呟いて、彼はメイミアを振り回す。

 遠心力で彼女の断面から、もうほとんど残されていなかった内臓とともに、大量の血が飛び散った。


「おっ!?」


 狙い通り、人狼親爺の顔面にかかった。眼と鼻を一時的に血臭で塗り潰すことに成功。

 これで自慢の感知能力も半減する。

 メイミアを半分にしたのは主にこいつだ、因果をその身に受けろ。


 メイミアが床へ落下する音と、エトランゼの床を蹴る音が完璧に重なった。

 体が小さく体重が軽いということは、高い跳躍を可能とするという利点にもなる。


 人狼の後ろ首を視界の斜め下に捉えた瞬間、ようやくエトランゼの口から端的な本音が飛び出た。



「死ねよ」



「ごっ!!?」


 強硬な手応えと、野太い呻き声が返事だった。

 全体重をかけて振り下ろしたのだが、手斧の刃は鉄骨に等しい強度の頸椎に阻まれて止まっていた。


 やはり大して鍛えていなくても、人狼は人狼だ、強度は折り紙つき。すぐに衝撃とダメージから立ち直った親爺は、まだ空中にいるエトランゼの小さな体を、強烈な裏拳で正確に打ち抜いてきた。


「がはっ!!」


 吹っ飛んで壁に叩きつけられた妖精を、さらなる苦痛と熱が襲う。

 かけられた火の向こう側で、吸血鬼の青年が冷静な笑みを浮かべていた。


「おいおい! 文字通り血迷ったって感じだなあ、チビくんよお!!」


 だがエトランゼがまず考えたのは、奴の固有魔術がこんな生温い炎で良かったなということだった。具体的に想定していたわけではなかったが、意識を持っていかれたり動きを封じられる恐れのある雷霆系や氷冷系なら、この時点で詰んでいたかもしれなかったからだ。


「……てめえっ、やってくれたな、チビ!!」


 さらに後ろ首に手斧が突き立ったまま、ブチギレ状態の人狼親爺が、眼と鼻についた血を拭いながら振り返ってくる。


 こうなるともはや話し合いも命乞いも利かない。もっとも、そんな必要はない。

 危機? いいや、まったく。それどころか僥倖ですらあり、エトランゼが自然と浮かべた獰猛な笑みには虚勢が含まれていなかった。


 そのことに気づくのも、やはり吸血鬼の青年の方だった。


「待て、おっさん! !!」


 正解。でももう遅い。

 条件を満たした赤帽妖精レッドキャップの種族固有能力が発動し、エトランゼは親爺の至近距離までの高速移動をすでに終えている。

 次手は迷ったがやはりこれがベターだ。

 エトランゼは立てた五指で親爺の顔面を突いた。3歳児にしては長めで太めの人差し指が親爺の右眼に、小指が左眼にずっぷりと刺さる。

 エトランゼは依然として火達磨ひだるま状態なので、眼窩に火箸を挿入する感じである。


「うっぎゃああああああ!?!」


 親爺が絶叫するが、うるさい、お前の痛みなんかどうでもいい。問題は手順なのだ。

 眼を壊してから首だと、自己再生で先に首が治ってしまう。だから首を壊してから眼にしただけだ。


 エトランゼは親爺の背後に回って飛びつき、大量出血を起こすべく斧を引き抜きにかかる。

 だが食い込んでいて抜けない。まずい、このままでは結局眼が先に治ってしまい、意味がない。


「死ね死ね死ね死ね、ばーか、死ねっ!!」


 焦ったエトランゼは斧の柄を叩いた。それはもう叩くとお菓子が出てくるレバーぐらいの勢いで一生懸命叩きまくった。


「あばはあびゃ?!!!ぎゃあああい!?ばびゃあああ?ああぎあああっ!???!!?」


 頸椎を打楽器にされているのだから当然だが、親爺はもう意味がわからないくらい絶叫している。

 ようやく梃子の原理で肉が削がれて斧が抜けた。着地したエトランゼは再度状況を確認する。


 吸血鬼は炎の魔術で追い打ちを仕掛けたいのだろうが、今の位置関係だとエトランゼに当たらない。近接戦闘が得意な吸血鬼はかなり珍しいので、ひとまずこいつは無視していい。


 人狼は明らかに怒りを苦痛と恐怖が上回っている様子だった。この期に及んで、背を向けて逃げ出す態勢に入っていたのだ。しぶとい上に生き汚いとは恐れ入る。


 残念だ。もう少しだけ時間があれば、こう言ってやれたのに。

『おれの大事な人だったんだ。お前ら、最悪だよ。なんでタダで帰れると思ってんだ?』


 しかしビビった犬コロを呼び止めるには、これで足りる。


「待てジジイ、殺すぞ!!」

「ヒイッ!?」


 3歳児に一喝された固肥りの親爺はその身を情けなくビクリと震わせて、とっさにズタズタにされた後ろ首を庇った。

 せっかくの傷穴を隠されてしまったが、もとよりエトランゼはもうそこを狙ってはいない。


 その斜めに抉れた切り口を見て、なにかに似てるなと思ったのだが、あれだ。

 デカい木を切るときのやり方を、母に連れられて森へ見に行ったときのことを思い出す。


 エトランゼはワルツのように華麗なターンで人狼親爺の正面へ回り込み、両肘の間をすり抜け、喉笛へと手斧を叩き込んだ。


「ぐえぇっ!?」


 雑魚は断末魔まで凡庸だった。エトランゼはドロップキックで追い打ちし、その反動で斧を抜く。

 あれだけ騒いでいた親爺は急に静かになった。

 喉を潰されて声が出せないからなのだが、自分の首の周りでクルクルと手を動かす様子はどこかコミカルで、まるでそういう持ち芸を披露してくれているかのようだ。


 あれ? あれれ〜? 俺の首ちゃんが、どうしても上手く嵌まらない。全然フィットしないよ〜。

 そんな動きだった。


 それもそのはず。喉笛に作られた追い口をきっかけに、後ろ首に開かれていた受け口の側に向かって、人狼の頸部という太い幹は、ようやく倒れようとしていたのだから。


 ゆっくりと傾ぎ始めた胴体に先んじて、ようやく切断に至った頭部が落下音を奏でる。


「おっと、危ない」


 エトランゼは服を掴んで胴体を引き止める。

 危ないと言ったのは、迸る動脈血を浴びて、彼の体を燃やし続ける火を消す機会を失うところだったという意味だ。


 汚い血潮を浴びて冷やされ、むしろ鮮明になってしまった全身火傷の激痛を無視して、エトランゼはゆっくりともう一個のゴミを振り向いた。


「よし、次は吸血鬼を切っちゃお」

「ふ……ふふふざけるなっ! 舐めるんじゃないぞこのガキ!! うおああああああ!!!」


 顔面蒼白で焦りまくっているが、それでも一抹の冷静さを残していたことは賞賛に値する。

 吸血鬼の青年は踏破能力を警戒して左手で目線を隠し、おそらくはエトランゼの足を見て動きを把握しながら、右手で照準をつけて炎の魔術を連発してきたのだ。


 だが高速移動が使えないなら、普通に避けながら距離を詰めればいいだけだ。

 あっという間に至近へ至り、叩きのめしてのしかかったエトランゼは、人狼の血で鈍りきった斧で、吸血鬼の顔面を何度となく殴りつけた。


「死ね。ばか。あほ。ごみ。うんこ。たこ。くそ。死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね!!」

「ぷぎゃあっ!? ぎゃ! やめ……やぎゃ……あぱぱぴ……ぷ……ぷひ……」


 声らしきものを上げる機能すら徐々に奪われていった青年は、もはや痙攣する肉の塊に過ぎない。

 だが相手は吸血鬼だ。奴の上から腰を上げたエトランゼは、胴体も滅多打ちにして切り刻んでいく。この細い体のどこから湧いていたのかという大量の血が、とうに真っ赤な室内へさらにめちゃくちゃに飛び散っていく。


 やがてようやく絶命に至った吸血鬼は全身が灰と化し、エトランゼが無造作に掴んでいた腕も崩れて零れ落ちていった。

 まだまだ殺し足りないのだが、死んでしまっては仕方がない。

 エトランゼは、人狼の死体にも同じことをした。感情がまったく治らない。


 妙に疲れたなと思ったら、気づけばエトランゼ自身も再生限界状態に陥っていた。

 あと一撃でも貰っていたら、ヤバかったかもしれない。

 全身火傷はほぼ治ったのだが、左頰にだけ大きな跡が残った。


 こんなものはどうでもいいし、むしろちょうどいい。

 こんなに心が痛んでいるのに、体が少しも痛んでいないのでは、その乖離で頭をやられてしまいそうだ。


「…………」


 メイミアだったものにトボトボと近づいたエトランゼは、今度こそ丁寧に彼女を抱き上げる。

 エトランゼに負けず劣らず血まみれのその体は、ピクリとも動かず、虚ろな眼は動かないままだ。

 この悪夢が覚めないことが信じられない。

 だがもう受け入れるしかない。

 エトランゼは死という概念を強制的に理解させられた。


 エトランゼは彼女の瞼を優しく閉じてやり、彼女が好きだった椅子に座らせてやる。

 そこで初めて、彼女が裸であることと、ついでにエトランゼ自身の服もほとんど燃えてしまったことに気づく。


 しばらく室内をウロウロした彼は、一番大きくて綺麗なカーテンを二つに裂いて、片方を彼女に纏わせ、片方を自分で纏う。


 そして彼女の血に浸され、真っ赤に染まってしまった花束を、彼女の前に捧げた。


 すぐに踵を返し、逃げるように家から出ていく。

 もう変わり果てた彼女の姿など見たくなかった。

 踏んでいる地面すら現実のものと思いたくない。


 しかし妄想に浸る暇すら与えられなかった。外にあるのは花畑ではなく、ミレインの街路だった。

 メイミアに起きた異変をようやく察知した妖精たちが、結界を解除したのだろう。

 彼らの思惑などもはやどうでもいい。顔を合わせたら斬りかかることになるが、それでメイミアが帰ってくるわけではない。


 あれだけ晴れていた空がいつの間にか曇り、街は黄昏のような薄闇を浴びていた。

 頰に当たり始めた水滴に追い立てられるように、エトランゼは走る。

 しかし雨を避けるのではなく、むしろ浴びるように、彼は屋根の上を狂奔した。

 自分でもどこへ向かっているのかわからない。

 ただ止まることができなくなっていた。


「ウウウ……」


 喉から搾り出したのは自分のものとは思えない、獣のような声だった。


「ウアアアアアアアア!」


 頰が引き攣り、火傷の跡が痛むが、それ以上に心臓が張り裂けるような絶叫を発していた。

 それはエトランゼ自身の咆哮にも劣らないものだった。

 この天水のすべてがエトランゼの涙であるように思えたが、仮に神がいたとして、実際は完全に無関心なのがわかっている。


「アアアアアアアアッ!! ふざけるな! なんで、なんでメイミアが!!」


 メイミアのいない世界など、もはや無価値な残りカスでしかない。

 メイミアは異種族同士が仲良くすることを願っていたが、その結果がこれだ。

 彼女は素晴らしい人格者だったが、これに関しては間違っていたとしか思えない。

 メイミアはエトランゼにもそうするよう、そうなるよう言い聞かせていたが、あれは契約でも命令でも、依頼や請願ですらなかった。彼女自身の意思には反するが、従うことはできない。


 メイミアを殺したこの世界が憎い。こんなもの、世界の方が間違っているに決まっている。正すことすら生温くて考えられない。

 力の及ぶ限り、めちゃくちゃに破壊してやる。

 彼女の存在を否定したことを絶対に許さない。

 なにが魔族社会だ、くだらない!

 便壺の住民どもに思い知らせてやる!!



 種族の宿業である殺しに感情を持ち込み、妄執に囚われた時点で、彼が戦闘妖精としての完成を迎えることはなくなった。

 しかし、復讐を遂げてしまった彼は、もはやなんらかの原動力がなければ、生きていくことすら難しい状態となっていたのだ。


 地上のすべてを、分断と混沌のドン底に陥れる。それが幼い彼の胸にたった一つ残った、亡霊のごとき怨嗟えんさの炎だった。

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