第110話 これはチェスじゃない


 妖精族の真の名を呼ぶと要請に強制力が働き、拒否権のない命令を下すことができる。

 一見便利な「専属契約」だが、他者が先行して結んでいると、後発のものは無効となる。


 アクエリカに平伏してみせたのも、足の指を舐めようとした(メリクリーゼに止められなければ、本当にやってみせるつもりではあった)のも、ギデオンの自由意志による演技に過ぎなかったのだ。

 嘘を吐いているのとは質が異なるため、仮に人狼を同席させていたとしても、この手の欺瞞は見破れなかっただろう。


「……つまりあなたはその黒幕と、そこまで信頼を結んでいるということなのかしら」


 即座に頭を切り替え、考えが及んだアクエリカに、ギデオンはやはり賞賛を覚えた。

 ただし敬意と殺意は同居可能ではあるし、彼女の言も微妙にズレてはいる。


「名前を明かせば済む話だ。それが仕込みとして必要だっただけで、ビジネスの関係に過ぎない。

 これは奴自身にも面と向かって言ったが、俺がこの身を殉じるのは奴ではなく、俺自身の本懐に対してだ」

「なるほど……パルテノイという切り札の存在は、どうも事前にバレて織り込まれていたようね」


 アクエリカは表情を消して黙りこくり、しばらく考え込む態勢に入った。

 ここから彼女がどうするのか。それによってギデオンの、そしてミレインの運命が決定される。


 やがて額を指で叩き始めたとき……彼女の頰には薄い笑みが戻っていた。


「……ゲームを行うとき……特に一世一代の博打を張るときなどは、ルールの確認を怠ってはならないわ。

 禁止事項として明言されていないなら、自由度の範疇に含まれる可能性があるから。


 つまりこの場合は、あなたたちの依頼主がギデオンに規定していない行動なら、わたくしも彼に取らせることができるということ。


 それも、専属契約による事実上の命令などという胡散臭いものではなく……純粋な利害関係に基づく打診により、仕事を依頼したいと言ったら、聞いてくれるかしら?」


 ギデオンの背筋に寒気が走った。

 合理的思考というのは、時間さえかければ誰でもというわけではないが、ある程度はできるものだ。


 しかしこの女の恐ろしいところは、誰よりも早くそこへ到達する、玲瓏なほどの怜悧さである。

 脳が水の塊でできているんじゃないかと思わせるほど、柔軟で冷徹な思考を持っている。


西洋こちらのチェスでは無理だけど……東洋あちらの将棋なら可能な手がある。

 単刀直入に要請するわ。ギデオン、わたくしのものになりなさい」


 すでに目の前の女に取り込まれつつある恐怖を感じながらも、ギデオンは予防線を張っていく。


「別に口先で忠誠を誓うのは構わないが、俺の心が貴様の元にあるわけがないことは当然理解しているだろうな?

 依頼主による別命があればいつでも寝首を掻くべく夜這いをかけるので、背信という言葉の定義にも漏れるぞ。意味があるとは思えないが」

「もちろん、わかっているわ。

 だったらその先行契約とやらを、有耶無耶にしてしまえばいいだけでしてよ」


 もうこの時点で、アクエリカの狙いは明らかだった。そしてその手札がバレているに等しい状態で、なおも彼女は押してくる。


「そもそもギデオン、あなた言うほどわたくしを憎んでいるわけではないでしょう?」

「それはまあ、そうだ」

「あなたの本懐は、わたくしの殺害とは別のところにある」

「その通りだ。お前の殺害は手段というか、通過点の一つに過ぎない」

「酷い言い草だけど、許してあげるわ。

 なら、いつまで経っても達成できないわたくしの殺害に固執するより、別の道筋を辿った方がいいとは思いませんこと?」

「確かにな。理に適っていると言える」


 この女に説得されていると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

 アクエリカはまるで友人と喫茶店で雑談しているかのような気さくさで、ギデオンににっこりと笑いかけてくる。


「ね? だから、こちらへ来なさいな。

 あるいは、こうしましょう。一度だけわたくしのお願いを聞いてほしいの。それがこの場から、あなたとヴィクターを解放する条件よ。


 わたくしと結んだ通常契約に基づく規定の行動を一つだけ終わらせてくれたら、あなたたちは自由の身となり……なんならその後、これまでのように何度となく殺しに来てくれるのでも、それはそれでわたくしとしては、一向に構いませんよ?」


 ギデオンはアクエリカの提案を精査した。困ったことにそれは、先行契約に抵触するものではない。禁止されている行動を含んではいない。


 その様子を見て取ったようで、アクエリカは考えながら最終決定を下していく。


「ギデオン、あなたにわたくしの殺害を依頼……ではないのよね、おそらく。ええと……。


 ギデオン、あなたがヴィクターと共謀し、わたくしに不利となる一連の行動を取るよう依頼した黒幕を殺害してきてくださいな。これは契約よ。


 ……こんな感じでいいのかしら?」


 妖精族との契約は口頭で行われるため、たとえば(請けるかどうかは別として)小さな子どもが「あいつムカつくから殺して。でもなんか謝ってたらやめていいよ」ぐらいのガバガバなやつを持ちかけてくることも普通にある。

 なので、妖精とその契約の側が厳密に遂行するというだけで、意味さえ通れば文言はわりと適当でもいいのだ。なのでこの場合も問題はない。


 そしてこの契約は、ヴィクターやギデオンの目的と食い違うこともない。


「受諾した」


 なのでギデオンが下した決断は、黒幕に対する土壇場での背任と呼ぶべきものだった。

 ヴィクターはなにも言わない。実際この場を切り抜けるにはこれしかなく、拒否すれば二人まとめてメリクリーゼの剣の錆になるしかないのだ。


「契約を、遂行する」


 ギデオンの魂に書き込まれた指令が、直近の使命と化して始動する。彼自身すらそれに逆らうことはできない。


 もはやのんびりと回廊を歩く時間も惜しい。ギデオンは両腕を交差すると窓へ突進し、硝子ガラスを突き破って、対象を抹殺すべく飛び出していった。




 その様子を、メリクリーゼは呆気に取られて見送っていた。

 今それを言い渡されたから今からやるだけなのだろうけれど、行動だけ見るとまるで我慢の利かない腕白小僧である。


 ともあれ、これで面倒だった問題の一つが片付きそうだと、彼女は労いの一つも言ってやるつもりで振り向いた。


「…………」


 しかしアクエリカはなぜだか浮かない顔で、ギデオンが破壊していったステンドグラスの残骸を見つめている。


「どうした? それ、そんな高級だったのか? 弁償なら、そこに転がっている私の従弟いとこに請求してもいいと思うが」

「……いえ、そうではないの」


 物憂げにため息を吐く彼女の様子は艶っぽいが、メリクリーゼにはそれが、彼女が思考に没頭する際の癖だとわかっていた。深呼吸とか、猫の欠伸あくびに近い仕草だ。


「そうじゃないの、だけど……」


 やがて徐々に彼女の息が荒くなり、頰を汗が流れ落ちる。なにかおかしい。体調が悪いとか、毒を盛られたという感じではないが、明らかに普通の状態ではない。


 いかにも体温が低そうな見た目をしているアクエリカだが、意外に汗かきな体質であることを、メリクリーゼは知っている。

 あとかなりの癖っ毛で、それらに悩む彼女の姿は結構かわいい……というのは置いておいて。


 連れ添って早十年以上になるが、メリクリーゼは彼女のそんな様子を見るのは初めてだった。

 アクエリカはみるみるうちに全身から大量の汗が吹き出し、法衣の裾から滴り落ちて、絨毯を湿らせているのだ。


 尋常でなく動揺していることだけはわかる。メリクリーゼは慌てて駆け寄り、ひとまずタオルと水を差し出した。


「なんだ!? 大丈夫か!?」


 漫然と見上げてくるアクエリカは、顔や髪が雨に打たれたかのように濡れている。


「……いえ、なんでもないわ。いずれにせよ、こうすれば済むことです……」


 熱に浮かされたように呟く彼女は、耳に手を当てて、髪の中に隠れていた青い有翼の蛇に向けて、なんらかの指示を発しかける。


 だがそこで、今の今まで黙りこくっていた男が、我が意を得たりとばかりに口を挟んできた。


「あー、ダメダメ。それはやめといた方がいいよ、アクエリカ」


 メリクリーゼが目を向けると、ヴィクターは起き上がるのが面倒なのか、床に這いつくばったまま、不敵な笑みを浮かべていた。


 猛烈に嫌な予感がする。メリクリーゼは肩を怒らせ、ツカツカと歩み寄って彼の後ろへ回ると、思い切り背中を踏みつけて怒鳴った。


「おい! 答えろヴィクター、なにをした!?」

「いてっ!! ちょっと従姉ねえさん、勘弁してよ。今ので脊柱折れたじゃないか。普通の魔族なら治るのに半日はかかるところだよ、どうしてくれるの?」


 そして、メリクリーゼはヴィクターのこともよく知っている。

 こいつの舌が滑らかに動き始めるというのは、まずい兆候だ。


 が、勝手に喋ってくれること自体には不都合がないため、そのままにしてみる。


「まさかこんなに上手くいくとは……えーとね、今、アクエリカがギデオンと交わした契約は、ある理由があって


 だからといって彼を止めるために増援を送れば、そいつらは道中でに遭うことになっている。


 なんでかって訊きたそうだね、従姉ねえさん? それはね、すでに白い兵隊さんたちが配置についていて、後からやって来る奴らに銀の銃弾を撃ち込んでくるからさ。根回しって大事だなと、今回つくづく思ったよ。


 今後のことを考えると、ただでさえ貴重な手駒を無駄に減らすのは良くないと思うけどな。言ってる意味はわかるよね?」


 問いかけられたアクエリカは汗も拭かずに、彼を正面から見返している。

 角度的に顔が見えないが、ヴィクターの浮かべた邪悪な笑みが、落ちた硝子ガラスの破片に映っているのを、メリクリーゼははっきりと見た。


 容易に組み伏せられた脆弱な従弟いとこの背が、彼女の眼には不意に怪物のそれに見えた。

 彼は大仰な演説を、次のように締め括る。


「いいかい、これは両者が手を繰り合うチェスじゃない。あらかじめ決められたゴールに向かって一本道をひた走り、遅かれ早かれたどり着くことは変わらないという死の双六すごろくなのさ。

 そしてアクエリカ、さいを投げたのは君だ。僕がなにをしたかって? なーんにもしてやしない、知ーらない、だ。もう後戻りはできないぜ。あとは祈りの一つも捧げてみればどうだい? 君の信じる神だか、救世主ってやつにでもさあ!!?」

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