第109話 申し訳ない、アクエリカ


 高級そうな絨毯じゅうたんの上で這いつくばったヴィクターの傍らに召喚され、敵の姿を認識したギデオンは、早くも覚悟を強いられることになった。


 この部屋の主として正面の安楽椅子に座っているのがアクエリカ・グランギニョル。

 その傍らに立っているのがメリクリーゼ・ヴィトゲンライツだ。


 最悪の状況である。

 そしてギデオンを視認した瞬間、メリクリーゼはすでに攻撃態勢に突入していた。


 ギデオンも反射で腰元の斧に手をやり、抜き打ちで振り抜いた。

 いや、正確に言うと眼前に掲げる、防御姿勢を取ったのだ。


 しかしそれも、メリクリーゼがすれ違いざまに放った一太刀の前には、まったくの無駄だった。


 数歩でギデオンの背後へ駆け抜けたメリクリーゼが、もはや振り返ってもいないのがわかる。


「ぐっ……!」


 果たしてギデオンの斧は硬く分厚い刃が斜めに斬り落とされ、彼自身の胸板にも長い朱線が引かれている。

 傷口から鮮血が、全身から脂汗が流れるが、ギデオンがまず感じたのは、いまだ自分が絶命していないことに対する安堵だった。


 やむなく膝をつき、こうべを垂れつつも、彼はアクエリカを睨み据える。

 たった一撃で無力化されても、相手が悠々と笑っていても、気概が挫けるわけではない。


 しかし、ギデオンは再度の攻撃行動に移らない。そうしないというより、に近いかもしれない。


 妖精界隈では「進行不能状況」と呼ばれているのだが、特に自身の死が予測される条件下でなおゴリ押し特攻を続けるというのは、長期的視座において任務達成の意思なしとみなされるため、妖精は自己保存行動を取ることになるのだ。

 妖精族が比較的容易に逃走行動を選択する傾向があるのも、その関連だという説もある。


 そのあたりもある程度は理解しているからなのか、メリクリーゼは室内をのんびりと大回りしてアクエリカの傍らへ帰還し、彼女に恭しく一礼してみせる。


「殺すなとのお達しだったが、こんなものでよろしかったでしょうか、猊下?」

「上出来よ、メリーちゃん。あとでご褒美をあげましょうね」

「あれあれ? どうやら私の皮肉、この女に通じていないな??」


 アクエリカという怪物に飼われているため矮小に見えてしまいがちだが、本来メリクリーゼの強さは、こんな中途半端な田舎街で遊ばせておいていいレベルではない。


 メリクリーゼの固有魔術は、識別名を〈観念具現イデアアバター〉という。

 彼女が生成する光の剣は、この世界の一つ上の次元に存在する「斬撃」という事象そのものであり、あらゆるものを切り裂くことが可能で、悪魔の領域にも到達、または凌駕していると言われている。


 だがヴィクターによると、実態はこの説明文ほど簡単ではないらしい。

 いわく、長年剣を振り続け、一心不乱に求道した結果、ようやく発現した能力なのだという。

 つまりおそらく、本来的には「自らが体得・開眼した観念そのものを疑似実体として行使する能力」であり、彼女の場合はそれが剣の形をしていたということだとか。


 いずれにせよ、防御不能という結果が残るため、原理を理解してどうなるものでもない。

 ただ実力差によって敗北したとしか言いようがない。


 事実、ギデオンがメリクリーゼに直接退けられるのは、これが初めてというわけでもなかった。

 そのあたりは相手も思うところがあったようで、ほとんど呆れたような口調で糾弾してくる。


「まったく、お前も本当に諦めが悪いな。ギデオンとか言ったか……これで何回目だ?」

「……わからん。10回より後は数えていない」

「そういうことを言っているんじゃない。この街へ移動中の馬車にまで襲いかかってきおって。

 ……おい、アクエリカ。なんか他者事ひとごとみたいな顔して聞いてるが、元はと言えばお前が原因なんじゃないのか?」

「えー? そんなはずはなくってよ? わたくし別に、彼になにかしたわけではないもの」


 すっとぼけた口調で喋るアクエリカだが、実は本当に彼女の言う通りで、彼女を狙っているのはギデオンの憂さ晴らしというか、八つ当たりのようなものではある。

 だが一方で、彼女を殺さなければならないという使命は、もはやギデオン一人のものでもなくなっていた。


 そのあたりを知ってか知らずか、アクエリカは二人を見下ろし、嗜虐的に笑んでみせる。


「あなたたち、ちょっとだけ悪ふざけが過ぎたようですね。さあ、どういうお仕置きをしてあげましょうか? 希望があるなら聞いてあげましてよ?」


 ヴィクターが小声で「マゾに目覚めそうだね」と呟いたが、実際ギデオンもそんな気分だ。

 そして思いのほか冷静に思考できるようになっていることを、ギデオンは自分で意外に思った。


 アクエリカのことは、依然として殺したい。だがその顔を見るとつい紐付けされた記憶が蘇り、我を忘れて攻撃してしまうというだけで、アクエリカのことをそこまで憎んでいるわけではない。なので、いちおう自制が利いているという側面もある。


 そして存外余裕のある様子は必ずしも虚勢ばかりでもないようで、ヴィクターは不敵な笑みを返して啖呵を切った。


「希望か、特にないね。やってみるといいよ、尋問でも拷問でもなんでも。僕はね、そういうのは慣れてるんだ。今までどれだけの暗部や暗黒街が、僕の体や心にものを尋ねてくれたと思う?」


 それを聞いてもアクエリカは平然としているが、メリクリーゼが苦渋で顔を歪めるのをギデオンは見た。

 やはりこの聖騎士パラディンは情に厚く根が甘いという弱点を、圧倒的な実力でカバーしているという表現が適切なようだ。


 だが現実的にヴィクターへの手出しができないという意味では、アクエリカも大差ないとも言える。


 ヴィクターが普段、護衛も連れずに外を出歩くことができる理由は、ごく単純なものだ。

 彼を拉致した組織や機関には、必ずヴィトゲンライツ家からの報復が与えられるからである。


 もっとも正確には、それを口実とし、大義名分を得た上で殲滅攻撃を仕掛けるという意味だが。

 ヴィトゲンライツは死の商人を家業とし、同時に自分で喧嘩の売買もやるタイプの戦争屋なのだ。


 もっともアクエリカも、掌握しているミレインの戦力をそれなりに消費すれば、ヴィトゲンライツとやり合うことは、現実的に可能ではある。

 ただ、仮に彼女にその気があるとしても(そして実際にはないだろうが)、ヴィクターとギデオンを影から操っている黒幕の存在が不確定要素として大きすぎるため、放置することができない。

 最悪の場合、まさにその情勢を想定して、漁夫の利を狙っている可能性すらあるのだから。


 なので必然の帰結として、アクエリカは先にそちらを消化することになる。

 彼女はどことなく嬉しそうにギデオンに向き直って、左耳にかかった髪を掻き上げながら、蠱惑するような甘ったるい声で話しかけてきた。


「そうですね……ヴィクターよりもあなたに訊いた方が、よほど手っ取り早そうだわ。

 ギデオン、教えて。あなたとヴィクターを動かしている人物とは、いったい誰なの?」

「それはできない」


 さして想定外でもないといった様子で、〈青の聖女〉は言い直す。


「では、質問を変えるわね? なんだか単純にわたくしの抹殺というわけではないように思えるから、あなたに課せられた依頼の具体的な内容を教えてはくれないかしら?」

「それもできない」

「そういう契約を、その相手と交わしているから、ということ?」

「そうだ。なので、なにをされても話すことはできない」

「そうですか。なにをされても、ね……」


 アクエリカはその美しい顔を片手で覆い、あからさまにため息を吐いてみせた。

 だが細い指の下に、嘆きではなく喜色があるのをギデオンは見ている。


「仕方ないわねえ……本当に気が進みません🎵」


 彼女は長い脚を優雅に組み替え、おもむろに靴を脱いだ。

 ぎょっとするメリクリーゼに片方ずつ手渡して、青年たちの眼前に綺麗な素足を晒す。


 その指先を機嫌よく蠢かし、彼女は殊更に魅力的な笑みを浮かべた後、表情はそのままで、その顔に薄い影の帳が下りたように、ギデオンは錯視した。


 髪や肌との対比で実際より赤く見える唇が、遠慮なく命令を発する。


「●●●●、このわたくしに平伏なさい」


 真名を呼ばれたことに驚くより先に、ギデオンは即応し、膝をついた状態からさらに頭の低い姿勢へ移行すべく、彼女の眼前に這いつくばった。

 まるできっちりと躾けられた犬のようだと、他者事ひとごとのように自分で考える。


 対するアクエリカは、満足げな様子でさらに要求した。


「●●●●、わたくしの足の指をお舐めなさいな。あなたが赤ん坊だった頃を思い出して、母親の乳を吸うように……無垢なる愛を込めて、優しく丁寧にお願いしますね?」


 わかってはいたがこの女、生粋のサドだ。サドが法衣を着て座っている。教会都市ミレインは、もうこの時点で終わっている気がする。

 いずれにせよ、ギデオンは従うしかない。だが、その名誉ある汚辱が果たされる前に、聖騎士の拳が司教の頭上へ、雷のように落ちた。


「おおおおいっ!!」

「ぎゃんっ!? いったーい! なにをするんですかメリーちゃん?」

「バカか!? 頭が沸いてるのか!? こっちの台詞だわ! 逆になんで私が止めないと思った!?

 なんでお前はいつもいつも、必要事項だけ済ますということができないんだ!? そんなだから毎度余計な敵ばかり作るんだぞ、わかってるのか!?」


 メリクリーゼは結構本気で怒っていて、かなりのマジ説教だった。

 ふてくされているアクエリカを見ながら、ヴィクターがギデオンに向けて答え合わせを口にする。


「あーあ、やられたよ……〈美麗祭〉のときだね。僕もさっき、アクエリカの肉体履歴を見て気づいたんだ。あのとき把握できていればな……」


 ギデオンはダンスコンテストを強襲したときのことを思い出し、すぐに見当がついた。


「……もしかしてあのときこの女に随伴していた、フードで顔を隠した二人の副官か?」

「うん。片方は普通に護衛官だったんだけど、もう片方が……」


 なぜか言い淀んだヴィクターに代わって、なぜか殊更に楽しそうなアクエリカが、話の先を引き取った。


「ミレインへ来たばかりのギデオンに訊いても仕方ないかもしれないけど、パルテノイ・パチェラーという名前に聞き覚えはないかしら?

 彼女の固有魔術〈看破邪眼ディストラテクション〉が、あなたの秘すべき本当の名前を暴いてくれましてよ。

 もっとも、彼女をあの場に連れて行ったことで得られたあなたの情報は、それだけではないのだけど」


 ギデオンはむしろアクエリカの知性に対する純粋な敬服を込めて、正直な所感を口にした。


「ああ、聞いたことがある。安全より優位の確保を優先するとは、まるで武門の思考だな」


 しかしなぜか彼女の反応は、納得がいかなそうに首をかしげるというものだった。

 どうもギデオンは彼女の予想とは違う返答をしたらしい。


 ヴィクターの表情が妙に堅いのも気になる。

 ただ、アクエリカにとってはそこまで引っかかるほどの重要事項ではないようで、彼女の頭の角度はすぐに戻った。


「まあいいわ。認識や記憶の行き違いというのも、よくあることだものね。

 なんだかわたくし、ちょっと飽きてきましたよ。さっさと終わりにしましょうか」


 その気まぐれ極まりない言い草を聞いて、メリクリーゼが明らかに安堵した表情を見せているのを、ギデオンはもはや不憫に思った。


 ただしその憐れみはここまでの彼女の心労ではなく、胃痛に向けたものだ。


 なぜなら次にアクエリカが発する質問はわかっていて、ギデオンの答えも決まっているから。

 そうとは知らず蛇は笑み、舌を動かした。


「では改めて……●●●●、あなたとヴィクターを動かしている黒幕の素性を教えてくださいな」


「それはできない」


「よしよし、いい子ね…………えっ?」


 そして予想済みであっても、アクエリカ・グランギニョルの表情がたとえ一瞬でも凍りつく様を見るのは、なかなか悪い気分ではなかった。


「できない。

 契約によって禁止されているため、それを貴様に話すことは、俺にはできないんだ。

 申し訳ない、アクエリカ」

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