第106話 偽りの自我


「ああ、あ……」


 ようやくエルネヴァの中で、状況の把握が逆順に追いついてくる。

 まず頸動脈に、氷でできたナイフを突きつけられている。この時点でもう諦めるしかない。


 右腕は握ったトリガーごと斬り落とされて別離している。

 吸血鬼の再生能力なら即座に治ってもおかしくないところだが、切断面を凍らされていた。


 これでも〈紅蓮冽華クリムゾンブルーム〉の本来の性能を考えれば、かなり手加減されていると言える。

 そして、振り返ることはできないが、背後の壁と棚を斬撃の嵐が斬り落とされ裂いて、無理矢理侵入してきたのだろう。


「はい、そのまま、そのまま。お嬢様、動いてはいけませんよ」


 腹の立つことに普段通りの陽気さで、イリャヒが喋りながら近づいてきて、右腕を拾い上げた。


「あらあら、こんなものを落として。お嬢様はうっかりさんですね」


 ふざけたことを言いつつ、手の中のトリガーだけを〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉で焼き尽くす。

 そして一旦は別れた右腕を、切断面をぴたりと合わせることで再会させてきた。


「そのまましばらくくっつけておくと、じき治りますからね……と言っている間に、もう繋がりましたか。やはり、血の強さは自己申告通りといった感じですね」


 もはや撤収の流れにあるようで、首筋から氷のナイフが離れた。

 いつの間にか背から火を消されたフクリナシが、這いつくばったままで慮る。


「お、お嬢様……」

「う、うう」


 完全に出し抜かれた。100%上手くいくと思っていたわけではない。しかし、第一段階でこうも見事に躓くとは予想していなかった。


「うぐぅ!」


 悔しい。その気持ちが奇しくも、敗北した主従に同じ姿勢を取らせた。

 エルネヴァは子どものように床へ身を投げ出し、全力で駄々を捏ね始めたのだ。


「うわぁぁああぁぁん!! どぉぉして上手くいきませんのっ!?」


 情けない姿を見せてしまっている。

 しかし、涙も鼻水も泣き言も、自分では止められない。


「ずるをしている、とか! エルネヴァちゃんと遊んでもつまんない、とか! 没落貴族が頑張っちゃってる、とか! 武力による後ろ盾がないのでどうしようもない、とか! 所詮はガキの商売ごっこだ、とか! お嬢様個人の力に依りすぎだから次代の育成に励むべき、なんなら世継ぎを作ればいい、お相手はボクなんてどうでござるか、ブヒヒこれは失敬……だとか!!」

「最後の人、癖強すぎません?」

「うるさいですわイリャヒ、黙りなさい!」

「す、すみません、続けてください」


 ううー……と睨む様子に気圧され、眼帯野郎が引っ込んだので、エルネヴァは一度大きく息を吸い、再び溜まったものを吐き出し始めた。


「……なにを言われても我慢してきたのに……なら、四つまとめて喰ってやる気概で企てを行えば、その結果がこの仕打ちですの!?」


 言いながらも、わかってはいる。普段最前線を張っている祓魔官エクソシストを相手に、戦闘における論理的思考で上回れるわけがないということくらい、重々承知のはずだった。

 それでも、奴らを膝下に従えて高笑いしたかったのだ。


 なぜかというと、それはもちろん、貴族としてのプライドが……。

 と、再び構築されようとした偽りの自我を、凛とした声が断ち割った。


「エルネヴァ」


 泣き喚いて視界が濡れていたため気づかなかったが、いつの間にか彼女の正面にソネシエが回り込み、しゃがんで顔を覗き込んできていた。

 そのあまりに純粋な瞳に、心の奥まで見通されるかのような危惧を感じ、エルネヴァは早口でまくし立てた。


「な、なんですの!? 同情するなら、力をくださいな!!」

「それはできない。そして、同情ではなく、共感。だと、思われる……」


 自分で言っておきながら、自分の気持ちが確定していないようで、ソネシエは喋りつつ、首をかしげてくる。

 その様子はかわいらしいが、絆されるわけにもいかない。

 鼻水を垂らしながらも、エルネヴァは気位の高さだけは崩さない。


「共感、ですって……? あなたにいったい、あたくしのなにがわかりますの……!?」


 ああ、この問いはダメだ。答えられなければ突き放してしまう。

 そして、答えられてしまったら、問うた方は受け止めるしかなくなってしまうのだから。


 果たしてソネシエは、返事に詰まりはしなかった。


「わかる。あなたとわたしは、似ている。なので、あなたとわたしの本心は、きっと近いところにあるはず」


 それを聞いてエルネヴァの双眸から、涙がさらに滂沱と溢れた。

 しかしこれは、恥辱を上塗りされたと感じたからではない。


 涙の意味が変わりつつあった。

 エルネヴァは、そのことを認めまいとした。

 認めたら、必死で隠していたものが溢れてしまうから。


「わたしも……幼い頃は、完全に心を閉ざしていた。当時の影響で、いまだにほとんど表情を変えることができない」


 そう言ってソネシエは、自分のほっぺたをぐにぐにとつねってみせる。

 そういうことなのだろうとは、エルネヴァも察してはいた。

 原因は主に母親による、自我の封じ込めを始めとする精神的虐待だろう。


 エルネヴァは少し冷静さを取り戻し、イリャヒに眼を移した。

 彼は体を起こしたフクリナシを監視するふりをして、彼女から表情を隠している。狡い男だ。

 しかし、彼の口ぶりからして、彼らの父親の方もカスだったのは間違いなさそうだ。


 ソネシエに眼を戻すと、彼女はこくりと頷いて、自分語りを続けた。


「兄さんは、そんなわたしにこう言った。

『我々はダニのつがいに産み育てられてしまったが、この世界のすべてがダニの巣窟というわけではない。

 そして、私やお前もダニではない。他にダニじゃない相手を見つけて優しくし、仲間や友達になればいい』」

「言い様が最低なのを除けば、なかなかまっとうなことをおっしゃってますわね……」

「でしょう? さすが私」

「黙っていてくださいませんの?」

「えー……今、私の話してませんでした?」


 紳士的でない紳士はこの際無視して、エルネヴァはソネシエの朴訥な独白に耳を傾ける。


「あなたも、ダニではない」

「だから言い様……ええ、まあ、褒め言葉と受け取っておきますわ?」

「褒めている。なので……」


 ソネシエは少しの間まごまごしていたが、やがてぎこちなく手を差し出し、慣れない様子で言った。


「わたしと、友達になってほしい。

 これが今日、あなたに一番言いたかったこと」


 駄目だ。もう限界だ。エルネヴァは自分の中で、せきが切れるのを感じていた。

 それを外界へ出力するかのように、彼女はもはや、声もなく涙を流すことしかできなかった。


 ソネシエが心配してくれる気配を感じるが、視界が曇ってどうにもできない。

 ソネシエの固有魔術……は、少し違うが(それはそれとして、どういう目的の能力なのかは、同じ吸血鬼であるエルネヴァには察せられる)、たとえば今日ダンスコンテストの演出係をやっていたフミネあたりが、エルネヴァと固有魔術の成り立ちが似ていると予想できる。


 おそらくフミネは、自分の楽しいビジョンや怖いイメージを他者と共有して、その間で感情を倍増したり半減したいという、ストレートで素直な気持ちが、あの能力を形成したはずだ。


 エルネヴァはというと……とにかくなんでも器用にこなしたかった、ということなのだろう。

 なんでもできれば、誰とでも仲良くなれる、といったふうな、子どもじみた発想だ。


 そうだ。エルネヴァは友達が欲しかった。自分のことをわかってほしかった。

 利害だけではない、気の置けない関係が欲しかった。

 両親が死んで悲しくて、寂しくて、どうしようもなかった。

 フクリナシはいつも側にいてくれたけれど、彼一人分の愛情では、彼女の心を埋めるには足りなかった。

 もっともっとたくさんの人に、打算なく褒めてほしかったのだ。


 そして、そうしてくれる相手が今、目の前にいることに、彼女はとうに気づいていた。


「…………」


 視界が晴れてもまだ、ソネシエはしゃがんだままで、エルネヴァをじっと見つめながら、手を差し出し続けている。

 不器用な子だ、と思う。感情を出すのが恐ろしく下手だし、口も悪い。だが、心の芯は純氷のように透明なのがわかる。


 エルネヴァはその手を、そっと握った。

 小さくて、冷たい手。

 不思議と心地よく、つい甘えてしまう。


 しかしもう、彼女に対して弱みを見せることを、エルネヴァは恥とは思わなかった。

 手を引かれて体を起こし、それでもまだ腰が抜けているため、床にぺたんと座り込んだまま、エルネヴァは不貞腐れたように喋ってしまう。


「……あたくし、めんどくさい女ですわよ? こんなに近くに住んでいるのに、手紙とか書きまくりますわよ?」

「知っている。それに、わたしも同じ。手紙なら、いくらでも書く」

「あなたが他の子と仲良くしていたら、嫉妬するかもしれませんわ……」

「それも、わたしも同じ。お互い仕方ないものと、割り切るべきかと思う」

「ううー……い、いいですわね、ソネシエは、モテモテで余裕があって!」

「……確かに、残念ながらあなたは、わたしの一番の友達ではないかもしれない」

「知ってますわ、ヒメキアかフミネでしょう? ちゃんと聞いてましたわ!」

「そう。しかし、わたしがあなたの一番の友達であるよう、わたしが努力する」

「……ッ……そ、そういうことなら……」


 そこまで言われてしまうと、もう笑うしかない。

 なのでエルネヴァは涙で濡れたままの頰を緩め、震える喉から、自然と柔らかな声が出た。


不束者ふつつかものではありますが……こんなあたくしで良ければ、よろしくお願いしますわ」


 ソネシエはこくりと頷き、エルネヴァを一度抱きしめてから、誇らしげにイリャヒの方を振り返る。彼はすでに二人の方へ顔を向け直していて、表情は言わずもがなだ。


 彼女に倣い、エルネヴァもフクリナシを見る。

 執事もいつものようににこやかに笑っており、近づいてきて膝を突き、ハンカチで涙を拭ってくれた。


「お嬢様……今夜の夕飯は、うんと豪華にしましょうね」


 エルネヴァは唐突に、ソネシエがいつも無言で頷くときの気持ちを理解した。

 言葉が要らないから、そうしているのだ。

 なので、彼女もそうした。


 仲間を増やしたいのなら、今からでも遅くはないし、もはや大仰な策略も必要ない。

 今日、エルネヴァの世界は、大きな広がりを見せたのだから。

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