第101話 紅蓮相乗


 心臓が早鐘を打ち、滝のような汗が滴る。

 超速の足技を止めてもソネシエの体はなお熱く、まるで魂だけがいまだ躍動し続けているように感じられる。


 戦闘中は固有魔術の属性ゆえ、基本的に体が冷えている彼女にとっては、このような状態にあること自体が珍しく、独特の恍惚を覚えていた。


 しかし、次の瞬間に起こった異変を見逃すほど、その黒曜の瞳は容易に曇りはしない。


「……」


 観客席にチラリと目が行ったのが幸運だった。

 なぜ見つけることができたのかはわからない。


 とにかく中ほどの列に紛れている、オレンジ色のフードを目深に被ったチンピラ風の人物がわずかに顔を上げ、フードの下にキャップの鍔を……さらにその下に昏く光る暗緑色の眼を、彼女ははっきりと視認したのだ。


「!」


 まずい。それがソネシエ自身を見ていたのなら、なにも問題はなかったのだ。

 だが奴の視線は、舞台上の片隅を捉えている!


 そう理解すると同時に、いまだフラメンカの熱を帯びていたソネシエの体は迅速に駆動する。

 滑らかなバックターンで目的地点に到達し、空間踏破してきた標的を捕捉した。


 固有魔術〈紅蓮冽華クリムゾンブルーム〉を発動。肉厚な闘士剣グラディウスが、彼女の右の手の中で、刹那のうちに構築される。


「むっ」

「ぬぐっ……!」


 重さに任せて振り下ろされた氷塊に対し、刺客であるギデオンは攻撃のために振りかぶっていた斧を姿勢そのままに、防御に転用することで対処した。


 冷風を浴びたからというわけでもないだろうが、アクエリカは涼しい顔で、退避の素振りも見せなかった。


 ソネシエは闘士剣グラディウスを即座に破棄した。ギデオンは反応こそさすがだが、上段で受けたのはまずかった。

 なぜなら、彼自身の視界を遮ってしまうからだ。間髪入れずソネシエの左手が、脇構えで精製した炎波剣フランベルジュを横一線に振り抜いた。


 あわよくばギデオンの腹を引き裂ければと思ったのだが、そうでなくてもアクエリカから遠ざけることはできるはず。


 その狙いは当たり、一歩後退して避けたギデオンは、左手でオレンジ色のローブを脱ぎ捨てつつ、右手で凍った斧を舞台の床へ軽く叩きつけた。

 砕けた霜が、危険な輝きを発して散る。


 背景がおどろおどろしい、赤黒い幾何学模様に変化していくのを、ソネシエは目の端で捉えている。

 フミネが狙ってそうしているのかはわからなかったが、一方で元・クラスメイトは悪くない閃きを、黒衣の吸血少女に与えていた。


「またあなたなの」

「そうとも、俺だ」


 もとより互いに寡黙な性質たちで、状況が状況ということもあり、二人は言葉少なにもう一度距離を詰め合った。

 それは再会を喜ぶ恋人同士のように自然な動きであった。


 だが結ばれる殺意の交誼を、ソネシエは一度だけ拒否する。

 コンパクトに振りかぶられた斧の一撃に対して、彼女は無防備に掌を突き出したのだ。


 無論、たとえ掻っ捌かれても吸血鬼の再生能力があるので、すぐに繋がるという見込みはある。

 しかしてもたらされた結果は、彼女の小さな手の数センチ手前で、刃がピタリと止まるというものだった。


「……!」


 ギデオンのわずかな反応を見て、ソネシエはイリャヒの結んだ契約が有効であることを確信した。


 いわく、『今後一切、イリャヒ・リャルリャドネとソネシエ・リャルリャドネに対する攻撃行動を禁止します』だそうな。

 ソネシエが不可視の防壁を生成したわけではなく、鎖に縛られたギデオンが勝手に中断したのだ。


 しかし、行動の起こり自体が止められないことはやや疑問ではあった。

 その理由を、ソネシエはすぐに理解する。


「アアッ!!」


 柄にもなく雄叫びを上げ、敵意に顔を歪めて、ギデオンは右手の杖と左手の斧を交互に振るう。それは満身の力で、ソネシエが構えた双剣の腹を叩いた。


 契約はもちろん有効だ。だが戦闘妖精の暗緑色の眼は、アクエリカしか見ていない。

 つまり契約上、彼はアクエリカに向かって攻撃しており、それを間に入ったソネシエが止めているという扱いになるのだと思われる。


 そしてどうやら妖精族に課せられる攻撃制限は、判定がかなり厳密なようで、ソネシエに傷を与える動作しかキャンセル対象にならないらしい。

 なので、先ほどのように故意にミスするか、結果的に捌き損ねた場合にしか、あの不自然な寸止めは起こらないようだ。

 ついでにソネシエの攻撃を、ギデオンが防御するというのも可能と見える。


 どちらがどちらの動きを読んでいるのか、そしてどちらがどちらを攻撃しているのかわからないくらい、二人の間で複雑精緻な暴力の嵐が吹き荒れる。


 鞭であるかのごとく滑らかに振るわれるギデオンの斧と杖が、触れた端から霜が降り、そのたびに砕いていくのを、ソネシエは目撃していた。

 それは彼に宿る瞋恚しんいの炎が溶かしているようにも感じられる。


 そこまでアクエリカを憎んでいるということなのか。あるいは彼女の殺害こそが、彼が己に課した使命なのか。

 わからないので、今は応戦するしかない。


 だがその無限と思われた寸陰も、やがて終わりが訪れる。

 ソネシエの視界の奥……舞台の向こう端に、白き死神が登壇したのだ。


 メリクリーゼ・ヴィトゲンライツは、すでに固有魔術である光の剣を生成し、無言無音で距離を詰め、凶漢の背に斬りかかる段にあった。


「くっ……!」


 半ば狂乱状態だったとはいえ、さすがに殺し屋の勘が気配を察したようで、ギデオンが反応したが、すでに挟撃態勢が整えられている。

 あとは処断の刃を選ぶだけ……の、はずだったのだが。


「なにっ!?」


 まさしく手品でも使ったように、ギデオンの姿は一瞬で舞台上から消えていた。

 なのでソネシエの眼には師の顔が、耳には師の声が、それぞれ驚きを含んで届くばかりだ。


 またしても逃げられた。少女の脳裏に浮かんだのは、ただその落胆のみだった。



 お互い即座に固有魔術を解除し、光と氷の剣は花と舞い散る。

 メリクリーゼは、勢い余って胸に飛び込んでくる格好となった愛弟子をとっさに抱き止めて、残った慣性に引っ張られ、二人してその場で半回転する。


 そうして、腕の中の華奢な体から力を緩めると、ソネシエは大きな眼で、彼女の顔をじっと見上げてきた。


「……師匠、こんにちは。数日ぶりになる」

「あ、ああ。こんにちは。まったく、妙なことになってしまったものだな」


 その状態でしばらく見つめ合っていると、気を利かせたつもりなのか、背景から赤黒模様が消えて、紅白の百合が咲き乱れた。観客も口笛を吹く。


 アホだ、とメリクリーゼは思った。もちろんソネシエはそういうあれではない。かわいいかかわいくないかで言うとめちゃくちゃかわいいが、私はアクエリカとは違うっ! と、彼女は強く自分に言い聞かせる。

 ついでに当の蛇女をキッと睨んだが、相手は上品ぶって口に手を当て、下品な妄想で笑っている。


「あら〜……困ったわ。てっきり剣術を教えているのかと思っていたら、別の意味で……」

「なんだ!? 別の意味でなんと言うつもりだ!? お前と一緒にするな! 男も女も見境なく誘惑しおってからに、尻拭いする私の身にもなってみろ!」

「ええ〜? どうしようかしらね? メリーちゃんにお尻をキレイキレイしてもらえるなら……」

「ああもう、喋るなお前は! ……ソネシエ、あの女とは用もなくお喋りしたらダメだぞ? わかったな?」


 綺麗なほっぺたを優しく挟んで言い聞かせると、弟子は素直に頷いた。


「大丈夫。すでに、兄さんとオノリーヌとベルエフから同じ警告を受けている」

「そうか、なら良かっ……いや、良くはないよな、これ!? 青少年の教育に有害な存在すぎるだろ、私たちの上官!?」


 今も喧騒に紛れて観客席までは聞こえないことを前提に本性を現しているように、あの蛇女は、とにかく見えないところまで計算尽くなのが性質たちの悪い部分だ。


 たとえば今日はギデオンが襲撃してくる可能性を念頭に置いて、かつ、あくまでこの場にそぐわない圧を振り撒くからダメという建前をもって、メリクリーゼを広場内に放っていた。

 さしものギデオンも聖騎士パラディンの存在は警戒しているから、そこを緩めて誘っていたのだ。


 結果、上手く釣れたのだが、最終的には取りこぼしてしまった。


 そういえば、あれはどうやっていなくなったのだろう? 赤帽妖精レッドキャップが持つという、高速移動による瞬間踏破能力だろうか?

 いや違う、とメリクリーゼは思案する。あのときギデオンは、まだアクエリカから眼を離していなかった。他の方向へ飛ぶことはできなかったはずだ。


 とすると、考えられるのは一つ。

 この広場のどこか、あるいは舞台上を見下ろせる近くの建物などから、何者かが襲撃の様子を監督しており、契約関係に基づく召喚行為を用いて、窮地のギデオンを掬い上げたのだ。


 それが先ほど取り逃がしてしまったヴィクターであるなら、むしろマシだ。

 もし、他に協力者がいて、そいつが黒幕の手の者ということになるなら、いったいなにを目的としているのか?


 もう一つ疑問がある、襲撃のタイミングだ。

 踊りを終え、会場全体が一番気を抜いている瞬間という意味では悪くはない。

 しかし、よりによってギデオンと武器術においてほぼ実力伯仲しているソネシエが、わざわざ舞台上にいるときをなぜ狙ったのだろう?


 ギデオンのアクエリカに対する殺意は本物だと、メリクリーゼは理解している。

 しかし、だからこそ、それをブラフとして用いるべく、ヴィクターが指示を出したのではないか?

 だとすれば、こうやってあちこちにしつこくちょっかいをかけ続けている、本当の理由が別個で存在することになる。


 ただ標的を絞り込ませないために、フェイントを織り交ぜているだけとも思えない。

 どうにも不穏な気配が漂っているように、メリクリーゼには感じられた。


 それを知ってか知らずか、アクエリカは完全に支配者気取りで、片手を挙げて微笑んでいる。

 なにを言っているわけでもないのだが、観客席はその意を勝手に汲んで、自ずから沸いた。

 それを追認するように、司会者が主導権を取り戻す。


『はい! 素晴らしいパフォーマンスを魅せてくださいましたが、ちょっとエキシビションのタイミングではなかったかなーとも思います! あははは!

 えーとですね……なので、あくまで舞踏大会ですから、ダンスのみの評価ということで点数をつけてくださいね! それでは審査員の皆さん、どうぞ!』


 もちろん観客たちだってバカではないので、あれが純然たるアクシデントだったことは薄々わかっているのだが、そういうことにしておいて流そうかという雰囲気が自然と醸成される。

 なにせ、せっかくのお祭りの日に、血生臭い刃傷沙汰が起きかけたとなると、誰だって気分が悪い。


 そしてそれは、仮になにかやるなら事前に聞かされているはずの立場である、審査員たちならなおのことである。

 よって普通に平等な審査が為されるはずで、このあたりの合意は、大人ならばスムーズに形成したいところではある。


 ともかく舞台から降りたメリクリーゼは、観客席脇に突っ立って腕を組み、結果を見守る。


 別に自分が教えている分野でなくとも、愛弟子に下される評価は、師匠としては気になるものだ。

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