第100話 紅蓮相生
ようやく拍手の雨が止み、適度なざわめきを取り戻した会場に向けて、司会者が拡声杖を手に感慨を発した。
『いやー……まさに神は細部に宿るという感じで、古典舞踊の精髄を見せていただきましたね。
それでは審査員の皆さん、点数をどうぞ!』
7人がそれぞれ9、9、8、10、9、10、7点を提示し、エルネヴァの獲得点数は70点満点中62点となった。
かなりの好成績で、観客席に戻ってきた彼女は案の定、したり顔で胸を張ってきた。
「ふふーんですわ! どーんなもんですのっ! ……と、一番言いたい相手がここにおりませんの!」
「エルネヴァさん、とても良かったですよ。うちの子とは退場時に、舞台袖ですれ違わなかったのですか?」
ヒメキアの隣に座り、彼女と執事から賛辞と労いを受けながら、お嬢様は複雑な表情をしてみせた。
「ありがとうございますの! 確かに顔は合わせましたが、お互いなにも声はかけませんでしたわ。
なぜなら、彼女の出番が終わってからでないと、お互いなんとも言えませんから」
「そうですか……そうですよね。では、うちの子のことも見ててあげてくださいね」
「お望み通りに、ですわっ!」
エルネヴァはまだ興奮しているようで、フクリナシが彼女の額に濡れたタオルを当てている。
一方、ヒメキアは親友の出番が近づいてきたことで、自分のことのようにそわそわしている。
「ソネシエちゃん、大丈夫かな? 緊張してないかな?」
「しているでしょうね。でも大丈夫ですよ。むしろ私たちが励ましに行くと、糸が切れてダメになってしまうと思います」
「そっかー……じゃああたしも、ここでじっと見てるよ」
「そうしてください。そういえば、ヒメキアは緊張しましたか?」
「ううん、あんまりしなかったよ。あたし、こういうときは大丈夫みたいなんだー」
「ヒメキアは強い子ですのね。あたくしはねえ……ガチガチでしたわよ!!」
「それはわかるので大丈夫です」
「反応ひどくありませんの!?」
言っている間に、エントリーナンバー24、25、26の3人がダンスを終えていた。
いよいよソネシエの番だ。司会者が相変わらず、陽気に盛り上げてくれる。
『では続きましてー、エントリーナンバー27、ソネシエ・リャルリャドネさん! 曲は……』
と言いかけたところで、まだ本人が登場してすらいないにもかかわらず、固有魔術〈
『って、ちょっとちょっと、フミネちゃん? 気が早すぎますよー。こーの、せっかちさんめ! あはははは!
……えー、というわけで皆様、ただいま本コンテストが誇る舞台装置ちゃんに異常が発生しておりまーす。もうしばらくお待ちくださいませー』
司会者がなんとか間を繋ぎ、観客席からは笑声が上がるが、フミネが自分でもどうにもできず、困惑している様子が伺える。
なるほど、彼女と顔見知りであることは、先行イメージを植え付けてしまい、それを拭えないというデメリットにもなりうるのだ。
しかし、どうやら舞台袖に潜むソネシエが「このままで問題ない」という合図を発したようで、司会者は逡巡したが、結局は強行を決めた。
『はい……いいんですね? わかりました……では改めまして、曲は「紅蓮の薔薇」です、どうぞ!』
どうやらかなり難しいかマイナーなため、楽団の中でも熟達している人が少ないのか……あるいは、その方が音が映えるという判断だったのか、奏者は2人きりのようだった。
2人は意味もなくバチバチと睨み合っていたが、一瞬後には呼吸を合わせ、曲を紡ぎ始めた。
「〜🎵」
思いのほかスピーディな音楽に合わせて、颯爽と舞台上に現れたソネシエは、一見するとエルネヴァと同じく、バレエの振り付けをなぞっているように思えた。
回転し、腕を広げる。しかし注視すると、動きの終端が微妙に異なることがわかる。硬さというか重さというか、力強さのようなニュアンスが添えられるのだ。
それを理解しないほど、フミネも鈍いわけでも、頑ななわけでもない。
舞台上を席巻していた霜が徐々に崩れ、融解して霧と化していく。
演出の変化を気にせず、ソネシエは踊り続けた。門外漢では手拍子を合わせることも難しいとされる独特のリズムで、彼女の靴が舞台を叩いていく。
曲調が加速するにつれ、舞台上には陽炎が起き、背景が歪んでいく。
それもしばらくのことで、やがて端々に種火が散り、空間に宿るエネルギーが限界まで高まっていくのがわかる。
やがて、不意に曲が止まり、束の間の静寂が訪れた。
次の瞬間、まるで自らの心臓を破ろうとしているかのように、ソネシエは複雑な激しいステップを、高速で連打し始める。
それを受けて、ついに紅蓮の焔が立ち上がった。舞台全体を一気に覆い尽くして、幻影であることを忘れさせる火勢で燃え始める。
会場の盛り上がりは最高潮となり、怒涛の歓声が観客席を支配した。
そして、エルネヴァが勢いよく立ち上がり、眼を見開いて、ようやく声が出たという感じで叫ぶ。
「こ……これは、フラメンカ! ですのね!?」
「ええ……隣国イノリアルに伝わる民族舞踊だったと存じます。しかし、これはまたなんとも、見事と申し上げる他ございませんね……」
フクリナシが補足する通りだ。本番までひた隠しにしていただけはあり、驚いてくれたようで、なによりである。
ソネシエの刻むステップは止まらない。たとえば人狼並みの運動能力があれば可能という類のものでもく、純粋な技術の賜物であることを理解できる。
まるで靴ではなく、小さな蹄を履いている、かわいいポニーのダンスのように感じられた。
「イリャヒ……」
いまだ立ち尽くしたままエルネヴァが呼ぶので、彼は執事に許可を得てから彼女に近づき、高貴なる口元へ顔を寄せた。
熱に浮かされたような吐息が、眼帯の紐を通した耳にかかる。
「……あたくしもソネシエも、顔を合わせるとどうしても張り合ってしまい、素直になれませんわ。
なので、よろしければ……あなたの口から、あのときなぜあの子があんなに怒ったのか、教えてくださいませんの?」
イリャヒが首肯すると、エルネヴァが真っ赤になっている高貴なお耳を近づけてくるので、彼は秘密というほどのものでもない、妹の話を代弁した。
「我々の父親……は論外として……母親は自称教育熱心なスパルタママさんだったのですがね、どうもご自分のお好きな習い事をやらせることに大変お忙しかったようで……毎日毎日食卓の真ん前に座っていたかわいい娘の本質を、驚くほどなに一つとして見抜けなかったようなのですよ。
私としては、いや5年も見ていれば普通に気づくことばかりだろう? と思うのですがね。
あの子が、黒い服や甘いお菓子が好きなことも、剣術を初めとする武才も、心の内に秘めた温度も、なーんにも気づきもしなかったわけです」
ソネシエにイリャヒ以外の理解者が初めて現れたのは、ごく些細なきっかけによるものだった。
あれはソネシエの初等部時代のことだった。
神学校で舞踊の授業があり、経験者だというソネシエに教官が先んじて個別に会いたいとのことだったため、渋る彼女にイリャヒが付き添って行ったのだが、2人の予想とは別のことが起きた。
種族がなんだったかは忘れたが、ごく普通のふくよかな中年女性という第一印象でしかなかった教官は、ソネシエが母親に社交だか教養だかを理由に無理矢理仕込まれた各種舞踊を嫌々やるのをひとしきり見た後、おっとりと首をかしげて言ったのだ。
『うーん、悪くはないんだけど……ソネシエちゃんは情熱的だから、フラメンカなんてやってみるのはどうかしら?』
そのときのソネシエの、感嘆で眼を見開いた顔も忘れられないが、イリャヒ自身も一瞬で教官に敬服したので、妹が彼女の手を取り傅いたことを、格別不思議とは思わなかった。
なぜ会ったばかりでわかったのか、なぜ一目見ただけで相手の大切な部分をそうも丁寧に掬い上げることができるのか、あなたは天女かなにかなのか。
イリャヒは実際に直接そう尋ねてしまったのだが、読心系の能力を持っているわけでもなく、本人にもよくわからないとのことだった。
つまるところ答えは、長年の経験による眼力……そして身も蓋もない言い方をすると、「性格が良いからわかる」としか表現できない。
いずれにせよイリャヒはこのとき始めて「薫陶を受ける」とはこういうことなのだなと理解した。
そしてソネシエはその教官を先生と呼んで慕い、今でも交流を持っている。
ただ、理解者を得るというできごとは、幼く硬直していたソネシエの心に良くも悪くも大きな衝撃を与えたようで、そういう相手には言わなくても……あるいは遠回しに言えばわかってもらえるという、困った癖を彼女に与えてしまった部分がある。
ここ数年は特に、剣の師であるメリクリーゼから始まり、リュージュにオノリーヌ、デュロンにベルエフ、そしてヒメキアと目白押しで、もちろん喜ばしいことではあるのだが、イリャヒの悩みの種でもあるのだった。
なので、母親による教育について言及された際、ソネシエがエルネヴァに言いたかったのは、本当はこうだ。
『一部の近親者を除いて、理解されず、誤解されて生きてきたという点で、あなたとわたしはとても似ている。なのに、どうしてわたしのことをわかってくれないの』
こんなもの、口に出さなければわかってもらえるわけがないというのに。
このまま放っておくと、妹が間違いなく面倒臭い女に仕上がる(というかすでにかなりなりかかっている)と、残念ながらイリャヒは確信している。
なので言うべきことをきちんと言ってくれるエルネヴァの存在は、イリャヒにとっても非常にありがたいものだった。
あまつさえ、今、こんなことを言ってくれるのだから。
「……あたくし、あの子に謝らなくてはなりませんわ」
「おや? まだ点数は出ていませんし、あの子が勝てるかは微妙だと思いますが?」
「いいんですの。もちろん、勝負は勝負ですけど、それとは話が別ですわ。
あたくしは、あの子のことを、もっと知りたい。そのために一度、きちんと謝る必要があると考えましたの」
むしろそうしなければならないのはソネシエの方であるわけなので、ひとまずイリャヒは彼女に代わって、尊意と謝意を示しておくことにした。
「あなたの高潔な精神に心服します」
「なぁんですの!? どういう意味ですわん!?」
しかし、どうにも日頃の言動が悪すぎたようで、小型犬と化したお嬢様に吠えられてしまった。
「えっ……いえ、そのままの意味ですが。私だっていつもいつも皮肉ばかり口にするわけではありませんよ?」
「なんだ、そうでしたの……まったく、兄妹揃って面倒な性分ですわね!!」
それに関しては本当にその通りなので、イリャヒはぐうの音も出なかった。
舞台上ではちょうどソネシエが踊り終え、ひときわ大きな、地鳴りのような歓声が巻き起こるところだった。
イリャヒにはそれが、彼女の歩んできた半生への称賛であるように感じられた。
大げさな考えなのはわかっていながら、彼にとっては、他のなによりも嬉しい。
「わー!! ソネシエちゃーん!!」
イリャヒのすぐ前では、興奮がピークに到達したヒメキアが、跳んだり跳ねたりしながら、舞台上の親友に黄色い声援を送っている。
舞台の端ではアクエリカが、部下への贔屓にならないようにということでだろう、通常通りの拍手を送りながらも、ソネシエに対して熱い視線を向けているのがわかる。
そして、同じく立場上応援できないフミネの後ろ姿が小刻みに揺れており、その感情を投影するかのように、舞台上の幻影は火勢が衰えるのにまだ時間がかかりそうだった。
言葉でなくとも伝えられるのなら、口下手な妹にとって、それは素晴らしいことだ。
なにせ理解者というものは、多すぎて困るということはないのだから。
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