第99話 黄金の白鳥


 まったく、エルネヴァにも困ったものだ。

 普段あれだけ血だの家だの、吸血鬼だの他種族がどうのこうのと言っているのに、いざとなれば余計なものをすべて脱ぎ捨て、ドレス一枚で舞い踊ることができるのだから。


 曲名は「黄金の白鳥」というそうで、弦楽器を中心とした緩やかな旋律が流れる。


 特別なことをしないという点では、エルネヴァもある意味ヒメキアと同じではあった。

 彼女もただ歩き、跳び、回る。


 違いはそれら一挙手一投足が極限まで洗練され、計算し尽くされ、指先まで意識が行き届いているということくらいだ。

 だがその差は微小でありながら歴然であり、舞踊としてまったく異なる様相を示している。


 フミネはすぐにそのことに気づいたようで、舞台を包括するイマジネーションに反映された。


 硬い木の床に架空の水が満たされ、エルネヴァのステップに合わせて波紋が広がる。

 背景も静謐な湖沼地帯と化し、豊潤な淡色が控えめな緑とともに溢れた。


「エルネヴァ様は……伝統的なバレエを選択されたようですね」

「ええ。お嬢様の、一番の得意分野ですので。

 ご存じかもしれませんが、伝統的なバレエは正解あるいは手本とでも呼ぶべき、きちんとした型通りの挙措を重んじる舞踊でございますから、お嬢様に合っておられたのだと思われます」


 ほとんど独り言として口にしたイリャヒの呟きを、フクリナシが律儀に拾ってくれた。

 そしてイリャヒからは訊きにくいだろうと察したのか、さらに補足してくれる。


「おわかりかと存じますが、基礎に関しては教本を読んで……つまり、固有魔術〈技能目録スキルリスト〉によって修得されたものです。

 お嬢様は事業の拡張と整理でお忙しく、家庭教師などに直接教わるということがおできにならなかったため、変則的でございますが、おそらくこれも我流と呼ぶべきなのだろうと思われます」

「そうでしょうね。ですが拝見した感じ、ただ自動的に学習しただけというふうには見えません。きちんと曲を解釈し、その本質に透徹してらっしゃるのが、門外漢である私にもわかります」


 たとえば仮に神が機械仕掛けだったとして、神に心が無いという証明にはならない。

 当たり前といえばそうなのだが、エルネヴァは単純にこの「黄金の白鳥」という曲が好きで、何度も聴いては楽譜を読み返し、曲に合わせて踊ったのだろう。


「……そう言ってくださると、わたくしとしては、そしてお嬢様にとっても喜ばしいことなのですが。一方で、ずるをしている、と言われることもあったそうでございます。幼少期のお嬢様に、あまり……その、お友達ができなかったのは、それが原因でもあったご様子でして……」


 フクリナシが寂しげに微笑みつつ反語を口にするので、イリャヒは即座に否定する。


「そういう向きもあるでしょうね。しかし実際には、才能があった上で努力をしているとか、生まれつき記憶力がいいとか、寝ている間にすっきり整理されるといった、優れた者が普通に前提としているようなことを彼女もやっているに過ぎないと、私はそう思います。


 まあ、ある程度は仕方ありませんよ。節穴並べて雁首揃え、自分の見えないものを茶化して鼻で笑うというのが、無能の習性なのですから。


 どうも連中にとって、連中の知らないことや理解できないものは、幽霊のように定義されているようですね。

 感知できない自分の間抜けを棚に上げて、存在をまったく信じることができず、五里霧中のままで、闇雲に憎悪を向ける。あるいは本質を捉えられないことで、逆に過剰な信仰を抱いてしまう。


 まったく、世の中をすべてご存じのつもりか知りませんが、お偉いお歴々の様々方々には頭が下がるばかりで……」


 しまった。直さなくてはいけない癖だとわかっているにもかかわらず、また長々と悪態を垂れ流してしまっていることを、イリャヒは自省する。

 幸いにもフクリナシは、イリャヒがエルネヴァに感情移入してくれていると解釈したようだが、実際には彼女の苦悩に仮託しただけなのだ。


 幽霊に対して怒り続けているという意味で、イリャヒも大差ない。彼の場合は死んだ両親へのいまだ消えぬ憎悪の炎が、勝手に口から出てくるという、ある種の宿痾しゅくあを抱えているのだが……この話はもう少し後に持ち越すことにする。


「ともかく、素晴らしい踊りだと思います」

「ありがとうございます、イリャヒ様。わたくしもおっしゃる通りかと存じます」


 なにより、これを舞台袖で見ているであろうソネシエも、認識を改めている……というよりは、わかっていたことを再確認しているはずだ。

 そして今イリャヒの目の前にある赤紫色の後頭部からも、ほんわかした感銘の声が発せられた。


「エルネヴァさん、きれいだねー」

「おや、ヒメキアもそう思いますか?」

「そう思うよ! すごく透き通ってて、真っ白なねこみたいだよ!」

「表現はよくわかりませんが、言いたいことはよくわかります」


 本当に優れたものというのは、こうしてまったく知らない相手からも、理屈を飛ばして賛辞を受けるものなのだろう。

 真美善などというものは曖昧だからこそ、定義を論じ始めた時点で必敗なのだ。


「〜🎵」


 エルネヴァの足捌きや身のこなしは、まさに水上を歩いているかのように軽い。

 風に煽られ水面を滑っていく、一枚の羽根であるかのごとく感じられる。

 丁寧に巻かれた髪が回転に合わせて優雅に舞い、連続で発生した波紋が、名残惜しむように彼女を追いかけていく。


「……あっ」

「おお……なんとも美しいですな」


 そして、イリャヒが胸のコサージュに宿した青い炎が、まるで尾を引く魂の軌跡であるかのように、流麗な光の帯を残像として生じている。

 演出としての意図はなかったのだが違和感がなく、観客からも感嘆の対象となっていた。


 まずい、なんだかすごくいい感じのあれになってしまっている。エルネヴァを贔屓ひいきしたと、後でソネシエに文句を言われても仕方ないレベルだ。


 やがて曲とともにエルネヴァが舞台中央で動きを止めると、割れるような拍手がそれに応えた。


 歓声も指笛も、大仰な感動の涙もない。

 ただ誰もが己の掌を打ち破らんばかりに、揺さぶられた魂を込めて叩き続けたのだ。


 しっとりと笑みを浮かべたエルネヴァがお辞儀をすると、音がますます強まる。

 それは数分間も鳴り止まず、進行を一時滞らせるほどだった。

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