第88話 遠地の傀儡


 一方その頃、なんとか逃げ切り、市内の隠れ家の一つに潜伏するヴィクターは、たまたま置いてあった何年ものかわからない酒樽を勝手に開けて、ワインを盗み呑んでいた。

 伝承に聞く妖術師ストレゴーネそのものの行動だなと、ギデオンは半ば感心しつつも呆れて見ている。


「いやー、一仕事終えた後の一杯はたまらないね! ギデオン、君もどうだい?」

「仕事中なので、遠慮しておく」

「君もしかして、全部終わるまでずっと仕事中って認識なの? 息抜きとか覚えたら?」

「必要ない。それに、どうせ息を詰めるのもあと少しだ」

「それは、まあね。でもだからこそ、たまには楽しみの一つもあっていいんじゃない?」

「…………」


 答えに代えた沈黙の内訳を察したようで、ヴィクターはギデオンをチラリと見ただけで、また盗酒に勤しみ、満足した様子で再び喋り始める。


「しかし、コニー・アンデルセンが助けに来たのは予想外だったね。あれさえなければ、デュロンを殺せてただろうに」


 早くも酔っ払っているのかと疑問に思いつつも、ギデオンは助言してみる。


「アゴリゾ・オグマの立場になって考えてみろ」

「んん? ……あ、そうか。偉大なオグマ氏としては、デュロン・ハザークに護衛されていること自体に意味があるわけだ。だから死なれると困り、コニーに救援させたと」

「合っているが、あまりそういう言い方をするものじゃない」

「いやいや、別に皮肉じゃないよ。戦闘能力の低い相手を、この僕が軽蔑するわけないじゃん。ていうか、あのおじさんだっていくら体なまってても人狼なんだから、少なくとも僕よりは絶対に強いでしょうよ」

「だろうな。比喩表現でもなんでもなく、お前は彼に小指の力だけで倒されるだろう」

「言ってくれるね。だけどね、それがいいのさ」

「どういう意味だ?」


 ヴィクターは腰元から愛銃を取り出し、芝居がかった仕草で虚空に向けて構えてみせる。


「いいかい? ヴィトゲンライツの出来損ないである、戦闘能力皆無のこの僕がだ、デュロン・ハザークを一方的に制圧できるんだよ? 銃という武器の有用性を示す、これ以上ないプロモーションになったじゃないか。

 この街を監視している〈眼〉は、けっして一系統だけじゃない。さて、どこが買い付けに走ってくれるかな? まだ早いとは思うけど……先着順にしようか、それともオークション形式がいいかな?」

「なるほど、それで最寄りの帽子屋に、というやつか」

「そう、それ」


 ちゃんとヴィクターなりの考えがあって動いているのなら、なにも文句はない。

 ギデオンは腕を組んで納得を示し、そのまま壁にもたれて、少しばかり体重を後ろへ預けた。


 彼はその下がった視界の端から、隠れ家の中へ侵入してくる、小さな姿を発見する。


 鍵は掛けていなかったため、野良猫の一匹が体で扉を押して、勝手に入ってきたのだ。

 鼠でも探して迷い込んだのか、ニャーニャー鳴きながらウロウロしている。


「はは、猫だ。かわいいねえ」

「俺は元々あまり好きでもなかったが、例の一件でさらに嫌いになったぞ」

「そりゃ、あれだけやられちゃあね。やだな、僕もう絶対あの寮に行きたくないや」

「同感だ。……ところで」

「……うん。まずいよね、これ」


 ギデオンとヴィクターは顔を見合わせる余裕すらなく、冷や汗をかいて、猫から目線を切らずにいる。

 わかっていた、そろそろ潮時だと。

 だがこうも直接アプローチしてくるとは予想外だったのだ。


 果たして次に猫が口を開いたとき、発せられたのは愛らしい鳴き声ではなかった。


『ごきげんよう、クソガキの諸君。いい加減追い詰められている自覚はあるかな?』



 ミレインの街を遠地から監視している高位吸血鬼が、使い魔の口を借りて話しかけてきたのだ。

 仮にこの猫を捕獲できたとしてなんの意味もないため、ギデオンは諦めて相棒を仰いだ。


 ヴィクターは……おそらくその瞬間が他のなによりも好きなのだろう、どこまでが虚勢かわからない厭な笑みを浮かべて、典雅に貴族式の一礼をしてみせた。

 この場面でなかなかの胆力だと、ギデオンは彼を見直したくらいだ。


「これはこれは、かの有名なペリツェ公ではないですか。いや、ペリシ、ペリッチュ、ペリツァル、 それともシンプルにエルンスト様とお呼びした方が良かったかな?」


 対する猫は、冷淡に鼻を鳴らすばかりだ。


『フン。私の正体を看破できることが、よほど嬉しいと見える。しかし……』

「人間の大貴族として処刑される際、土壇場で吸血鬼へと転化を遂げるために仕込んでおられたあのトリックには、遅まきながら拝見して驚嘆の一言だったよ。魔族社会が成立し、言語統一が為された後の共通貨幣の名にまで刻まれたあなた様のご威光を、この若輩めが存じぬわけがないでしょう」

『ああうるさい、話を聞け、少しは。まったく……全知無能のヴィクターよ、神のきざはしに足をかけたつもりでもあるまいな? お前の猿知恵がなんとなる? それともミレインの〈監視者〉はあの死に損ないのペリツェめだと、世間に吹聴でもしてみるか?』

「ご冗談。僕は生まれついての狼少年だ。

 この魔族社会は力がすべて……は言い過ぎにしても、最優先なのは間違いない。

 どんな面妖な大鎌を携えていようと、振るう腕力の伴わない死神を、いったい誰が恐れる?

 弱者の主張にさしたる信憑性を認めるほど、この世界は甘くはない。

 ペリツェ公、そんなことはあなたが誰よりもわかっているはずだ」


 人間として処刑されたということは、力尽くで引きずり出された経験があるということだろう。

 猫は一時押し黙ったが、やはり思い直した様子で、どちらかといえばお節介に近い忠告を発してきた。


『……なにを企んでいるのか知らんが、悪ふざけも程々にしておけ。特に今、この街でというのが最悪なのだ。

 まさかと思うが、アクエリカが私より温厚だと思っているわけではないだろうな?

 いい加減大人になれ、引き際を弁えろ』


「あーあーやだやだ、自分が小さくまとまったからって、その立場から説教かましてくれちゃってさ。さすが、転化を遂げたはいいものの復活が教会にバレて懐刀として囲われ、魔族社会成立に際してそのまま魔族教会の閑職にスライドしたお方は、言うことが違いますなあ?」


『黙れ、若造が。言っておくが、そんなものは挑発にもなっとらんぞ。

 後から勝手に覗いた貴様とは違い、私は180年間もの馬鹿げた露悪趣味のお祭り騒ぎを、進行形で目の当たりにしてきたのだ、厭戦も極まる。

 日和見と呼びたいなら構わん、私はもはや座視するのみだ。

 しかしヴィクターよ、今ならお前たちの処刑地をミレインとゾーラ、どちらか選ぶこともできるぞ。これはなかなか破格の特典だと思うが』


「またまたー、そっちこそそういうハッタリは僕に通用しないってわかってるくせにー。

 君とアクエリカは、ほとんど意思疎通らしきものができていない、というかする気もないよね。

 その二項対立の二重支配こそが、この街の監視をより強固にしているんだろうけど、それはあくまで平時の話だと忘れちゃいけないよね」


 約300歳の広大な範囲における使い魔作成・運用能力を持つ高位吸血鬼を向こうに回しても、ヴィクターはまるで普段の調子を崩すことなく、得意の長広舌を垂れ流している。これにはギデオンも素直に感心した。


「というかね、むしろ君ら教会上層部の方こそ必要としているんじゃないかと、僕は睨んでいるわけなんだけど」

『……なにがだ』

「銃だよ。僕は知ってるぞー。10年前、ハザーク夫妻を筆頭に据えたクーデターは大失敗に終わったけど、教皇庁もノーダメージで切り抜けたわけじゃない。

 生き残った姉弟をこんな遠地に飛ばしたのは、あの濃くて強い狼の血が怖くて怖くて仕方なかったからなんじゃないの?

 ところでさっきのデモンストレーション、実はほぼ君に向けたものだったんだ。今ならお安くしとくよ? もっとも僕一人の裁量じゃ、そのあたりは最後まで決めきれないんだけど」


 ギデオンは猫があまり好きではないが、それはそれとしてそのかわいらしい口からため息が出るところは見たくはなかった。


『馬鹿馬鹿しい。今から弓を引こうとしている相手に、短筒を売り込もうという気が知れんな。無用の心遣いだ、なんなら爪や牙に訴えてもいいわけだからな』

「おっと、そこまでバレてたのか。いやー、参った参った、勘弁してよ。にゃんこさんは怖いな、敵わないよ」


 ぺしぺし、と真顔で気のない拍手を終えたヴィクターは、満面の笑みで二の句を継いだ。


「という冗談は置いといて、ここから本題だよ。あれだけの言い様をしておいて、これを切り出すのは心苦しいんだけど」

『前置きは要らん、さっさと言え』

「ペリツェ公、僕たちと協定を結ぶ気はない?」

『……見過ごせ、ということか。私に、というか、我々になんのメリットがある?』


 我が意を得たりとばかりに、ヴィクターは活き活きと語り出す。


「そりゃ、アクエリカを労せずして排除できることでしょ。

 君も聞いたことはあるはずだ。ここミレインは彼女の故郷に程近い。身を寄せていた修道院跡なんかすぐそこさ。

 もちろん知ってるだろうけど、彼女の来歴には色々と噂が立ち、怪しい点が多い。


 ここらの土地にはね、いわば彼女が教皇になるという夢を抱えてゾーラへ旅立つ前に残した、怨念というか、亡霊のようなものが渦巻いていると言っていい。

 そーんな街でさ、彼女にこれから、事実上の執政を許していいと思う?

 あ、内部で割れたのは知ってるから、多数派の意見がどうとか、そういう贅言を聞きたいわけじゃないんだよね、ごめんね?


 僕はね、このまま彼女を放っておくと、そのうちミレインの二つ名が〈魔都〉に変わる方に賭けるね、むしろ。

 いや、そんなんで済むかな? 最悪の場合、ここで地歩を固めた上で、亡霊たちを全員引き連れて、教皇庁へ打って出てくるんじゃないかな?

 そんなことになったら僕としてはひたすら爆笑なんだけど、君らとしては困るだろうし、今のうちに彼女を潰しておいたら?」


 そのあたりの懸念はあったようで、ペリツェはしばし沈黙する。

 実際の話、アクエリカがミレイン司教に任命されたのは、教皇庁の大多数が彼女の野心を見抜いており、あわよくば事実上の地方領主という立場で甘い汁を啜ることを覚え、満足して腐ってくれたら、という期待があったのだろう。


 危険視による実質的な左遷というのが半分。そしてもう半分は単純に実力に対する評価なのだろうし、教皇庁がアクエリカを、良くも悪くもどれだけ高く買っているかが窺い知れる。

 もっとも、顕在化しているのは警戒され、まさに蛇のように疎まれているという側面だろうが。


 もう一押しだと踏んだようで、ヴィクターはさらに雄弁を振るった。


「なにもぼんやり寝てろと言っているわけじゃないんだ。いいかい、君は事前に察知できていたわけじゃない、逸早く気づいて迅速に対応したんだ。っていう設定でいこうよ。


 そしたらさ、これはマジな話、君は遠地の英雄として返り咲き、次のミレイン司教に指名されちゃうかもよ?


 余計なお世話だったらごめんね? でも、そんなに的外れでもないんじゃないかと思うよ。

 お世辞で言うわけじゃないけどさ、教会に仕えた年月、吸血鬼としての格、実効支配力、なにより知名度が桁違いだ。


 高すぎて伝説の域に入っちゃってるせいで、逆に信用されないかもというのが難点だけど……まあそのうち慣れるでしょ。

 それよりなにより、単純な話、職場は近いに越したことはないと思わないかい?」


 ペリツェにはもはやなんの野心もない、というようなことを言ったのは、ヴィクター自身ではなかったか。

 これは悪手だなとギデオンは思ったのだが、意外にも響いた様子で、猫は低音で唸った。


 おそらくは現在の彼の保身ではなく、昔の彼が持っていた情熱と、なんらか共鳴する部分があったのだろう。

 短い夢を見た結果、現実が丸く収まるなら、午睡を摂るのも悪くない。


『……貴様らの計画は、おおむね読めている。成功すればの話だが、なかなか愉快なことになりそうではある。

 これは私の胸先に留め置くとしよう』

「それはどうも。やっぱりいつの時代も、話し合いって大事だと痛感したね」

『しかし、いったいなにがそこまで貴様らを駆り立てる? なにを求めてそこまで血迷うのだ』


 核心に踏み込まれたため、ギデオンはヴィクターの横顔を盗み見た。

 案の定、彼はときどき見せる、抜き身の刃物を思わせる真剣な表情をしていた。


 少なくともこういうときのヴィクターが本音で話していることは、ギデオンにもわかる。

 果たして彼は、一転静かに語り出した。


「僕らは現状、自由に野を駆けている。近年では最初の〈しろがねのベナンダンテ〉であるあなたからすれば、甘ったれの癇癪かんしゃくにしか見えないだろうね。


 だけど、かつてのあなたにもあったように、僕らにもそれぞれ、命を代償に捧げても叶えたい、宿願ってやつがあるんだ。

 大げさに言えば、この世界に生きた証を刻みたい、みたいなことになるのかな。


 表現を変えると、これでも僕らなりに、少しでもこの世界を良くしたいと思っているのさ。

 ……もっともそれは他の二人の話で、僕は完全に自己満足が動機なんだけどね」


 ペリツェの使い魔はしばらくヴィクターを見つめた後、この件をことを決めたようで、凛々しい後ろ姿を見せつつ、尾を引く鋭利な眼光だけを残していく。


『……いずれにせよ、これ以上ここで貴様らと仲良くお喋りをしていては具合が悪い。大人しく退散するとしよう。

 ただし、私の職務の性質上、一部始終を見ていることにはなる。つまり、やはり介入することになる。そこは忘れるな』

「はいよー、ありがとね。また窓口が欲しいときはいつでもどうぞ」


 事実上の静観を取り付け、ヴィクターは見事に、野良猫を放逐することに成功した。

 その手腕自体には素直に感服するが……だからこそ、ギデオンは尋ねずにはいられなかった。


「それで、お前の実家には連絡したのか?」


 意図を精確に汲み取り、ヴィクターは鼻白み気味に肩をすくめた。


「したけど、その言い方だと、帰省を促すお節介な職場の先輩みたいだよ。

 ……君の懸念はもっともだ。確かに二枚舌ではあるけど、僕は君にも彼にも嘘を吐いちゃいないさ。


 だって実際、彼はアクエリカの後任として、ミレイン司教に就任するかもしれない。

 未曾有の危機を未然に防いだ功績として、じゃないよ。最悪の惨劇、その発端を黙殺したかどで、空虚な敗戦処理の陣頭指揮を執る、傀儡くぐつの王にされてしまうという意味でだ。


 だからね、僕は本当はミレインの新しい二つ名が、〈死都〉になる方に賭けてるよ。ああ、そこは嘘を吐いたね、ペリツェ公ゴメンネ★

 さあ、いよいよ僕らの計画も大詰めだ。どうせなら派手に行こうじゃないか」


 それを聞いてギデオンは安心した。同時にもう一つ、認識を改める。

 もしもこの世界で最後に残る種族が猫となるのなら、今のうちに彼らを好きになっておいてもいいかもしれない。そう思ったのだ。

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