第86話 早すぎる絶望


「おやおや? オノリーヌ、君は自分たちが二対一を仕掛けようとしていたのに、二対二に持ち込む形で不意打ちを食らうと、卑怯だと感じるタイプだったかな? ……っと。ハハ、言ってやった言ってやった。ざまぁ!」

「ヴィクター、空気を読め。もうそういう段階じゃない」


 雑音がうるさい。今すぐヴィクターを殴り殺したいが、そんなことは弟の生死に比べれば犬の糞に等しくどうでもいい。

 脂汗が流れるのを感じ、過呼吸を起こしかけながらも、オノリーヌはデュロンに駆け寄り、上半身を抱き起こした。


「デュロン、デュロン! しっかりしたまえ、即死するような箇所じゃない!」

『その通りよ。そのまま声をかけ続けなさい』


 さすがにいくらか切羽詰まった声で、アクエリカがデュロンとオノリーヌそれぞれにつけていた二体の使い魔から、合唱するように通達してきた。


『すぐにヒメキアを護衛つきで飛ばさせたわ。……でも、この場所を選んだことは少し仇となったわね。到着まで2分ほどかかる見込みよ』

「2分……!」


 まずい、デュロンの顔が紙のように白くなっていく。その2分は、彼の生死を分ける2分となる。


「デュロン! デュロン! だめ、逝かないで! 君が死んだら、わたしは耐えられない!」


 普段は湯水のごとく悪知恵の湧いてくる彼女の頭が、こんなときに限ってまったく働いていない。応急処置の選択肢すら浮かんでこない。

 腕の中で、弟の体が急速に冷えていく。心臓の鼓動も、徐々に弱まっていく。


 まだ1分も経っていない。これでは間に合わない。


「デュロン……? 嘘でしょ……? ねえ……」


 このとき、オノリーヌは思考が踏むべき段階をスッ飛ばし、無意識がデュロンの死を半ば受け入れかけていた。

 想定していた最悪の事態が起きてしまったため、それだけ絶望が深く速かったのだろう。


「デュロン……デュ、ロ……」


 もはや涙もまともに出ない。ほとんど真っ白になりかけた彼女の世界で……しかし、不意に知らない声が聞こえた。


「諦めるのは、まだ早いですよ!」


 アクエリカと同じか、少し年下くらいの女性のようだ。

 それをオノリーヌが認識できたのは、腕に抱いた体に、仄かな熱が戻ったからだった。


 ギリギリのところで命を繋がれた弟から、彼の口に血を注ぐ手首へ、そしてその措置によりわずかに血の気を失い青ざめた、美しい横顔へと姉の視線が上がっていく。


 淡い金髪を丁寧なシニヨンにまとめ、縁のない眼鏡をかけた上品な面立ちにはどことなく見覚えがあるのだが、混乱しているせいか、オノリーヌは思い出せない。


 だが少しだけ冷静になった彼女は、ヴィクターの様子を伺った。


「おっと、これはどうも……」


 微妙な笑みを浮かべて、彼にしてはキレのない、曖昧な反応を見せている。

 嗅覚感知と推測により、オノリーヌにはその理由がわかった。


 ヴィクターは彼女が誰なのかを知っている。そしてそれを明かすと、彼女がオノリーヌの味方たりうる人物であると、オノリーヌに確信を与えるのが癪なため、いつもの調子で喋りかけて途中で黙ったのだ。まったく、使いやすい写し鏡で助かる。


 改めて女性に眼を向けると、彼女はオノリーヌが礼を口にするより早く微笑み、ヴィクターとギデオンに正対しながら、背中越しにオノリーヌへ名乗った。


「申し遅れました。アゴリゾ・オグマの秘書官を務めております、コニー・アンデルセンと申します。種族は妖鳥人ハルピュイアです」


 自己紹介の一部なのだろう、髪と同色の美しい翼が、服の背を破って広げられる。

 妖鳥人は人魚や吸血鬼ほどではないが、その血に多くの魔力を含む種族だ。


 なぜ市長が秘書官を救援に寄越してくれたか……いや、正確には休憩に出たデュロンに対し、「ちょっと彼の様子を見ていてあげてくれ」とでも言って後をつけさせたのだろうが、とにかくそうしてくれた理由はわからない。

 しかし今はそうしてくれたことと、そういう措置が可能なくらい、博愛主義の市長が色々な種族を部下として重用していてくれたことに感謝するばかりだ。


 もっともまだ銀の弾丸はデュロンの体内に埋没したままなので、応急処置にしかならない、のだが……眼鏡を指で押し上げるコニーが笑っているのが、顔を見なくてもオノリーヌにはわかった。


「と、言っている間に、来ましたよ。私たちの救い主が!」


 彼女の言う通りだ。まだ少し遠いが、向かい風に混じり、よく知る声が聞こえてくる。


「……ン! ュロン!」


 再度デュロンを狙おうとしていたヴィクターが、露骨に顔を歪める。

 コニーとオノリーヌを排除するタイミングを伺っていた、普段冷静なギデオンですら、わずかに眉をひそめていた。


 彼らとは対照的に、オノリーヌは法悦にも近い歓喜で心が満たされていた。


「デュロン!!」


 どうも今日は、とことん鳥人が吉兆であるらしい。祓魔官エクソシストの同僚である鳥人の姉妹に護衛されながら、自前の翼をやや不器用に操り、ヒメキアが飛来するところだった。


 皆のいる塔のてっぺんへ着地すると、彼女はまず脇目も振らず、デュロンの元へ直行してきて、いつにも増して機敏な動作で、ウォルコが残していったというナイフを取り出し、躊躇いなく自らの細腕を切りつけた。


「デュロン、大丈夫だよ。あたしが来たからね」


 滴るのは、これ以上を望むべくもない命の雫だ。再びデュロンの口が血に濡れ、それが嚥下されると、効果は覿面だった。


 最強化された彼の肉体活性が、祝杯を挙げるべくワインの栓を飛ばすように、銀の弾丸を深層筋によって自力で捩り抜き、こんなものがどうしたと言わんばかりに、呆気なく体外へ摘出した。


 デュロンの血色が急激に戻り、心臓が力強く脈打ち始める。

 脇腹に空いていたはずの傷穴は、最初からなかったことにされたかのように、綺麗に塞がれている。


 そうして一息吐いた彼女は、ようやく周囲に眼が向いたようで、露骨に嫌そうな声を上げた。


「うわ、ヴィクターだ! あっち行ってよ!」

「こっちの台詞だよ! あーあー、うるさいのが来た! やだなー」

「あたしもやだよ! あっ、それと、あたしのねこたちをいじめた赤い帽子の人もいる!」

「……その節はどうも」

「どうもじゃないよ! あたしまだ許してないからね!!」


 これだけ敵意を剥き出しにしておきながら、「誰がデュロンをやった? お前か?」などと言わないのがヒメキアらしいなと、少し余裕を自覚してきた頭でオノリーヌは思った。

 犯人探しをしたところでヒメキアに罰する力はないし、そもそも彼女は暴力による解決自体を否定しているわけではない。弱くて参戦できないので、邪魔にならないよう気をつけているだけのようだ。


 そして、それでいい。荒事は荒事が得意な者に任せればいいのだ。

 コニーが依然姉弟を庇う姿勢のまま、彼らの味方を代表し、敵の二人へ毅然と問いかける。


「さて、どうも形勢が傾いたようですが……。ちなみにここからどうされるおつもりで?」

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