第78話 蟷螂、またはある種の蜘蛛


 なにものにも縛られてはいけないよ、というのがギデオンが母から授かった教えで、今でも帰郷すると、母は口癖のように同じことを言う。


 20年前……当時3歳のギデオンも、安楽椅子に腰掛けて糸紡ぎに勤しむ母の繰り言を、床へ直に座り込んで、足をバタバタさせながら聞き届けたものだ。


「いいかい●●●●、あたしら妖精族は、同族以外に本当の名前を知られると、そいつの虜になっちまう。

 具体的には、行動を大きく制限されちまうんだ。だから誰にも教えちゃいけないよ」

「でもさあ、バヒューテさんとこのラムラちゃんとリモリちゃんとルマルちゃんはさあ、自分の名前をさあ、街のお兄さんたちに教えてるみたいだよ。おれ、聞いたよ。ほんとだよ」


 母は手を止め、露骨に舌打ちしながら「あの淫乱娘どもか」と毒吐いた。


「あそこの三姉妹は本当に困ったもんだね、妖精族全体の品性が疑われちまうよ。しかももうじき四人目が生まれるって話だろ?」

「うん、レミレちゃんって名前にするんだって」

「そりゃ結構なことだが、きっと五人目もすぐさね。……●●●●、お前まさか、あの娘っ子どもが秋波を送ってきてやしないだろうね?」

「? おれが遊ぼうって言ったら、『わたしたちはいいけど、あなたのママに殺されそうだからダメ』って言われたよ」

「そうかい……そりゃさすがに相手が三歳児じゃ、あいつらにも分別ってものがあらあね」


 当時のギデオンこと●●●●は当然子供の作り方など知らなかったわけだが、今になるとその意味がわかった。

 母は安堵の息を漏らし、話を戻して、手の動きも再開した。


「あいつらのやり方は例外的だが、ある意味で賢くはある。差し当たっては、反面教師として見るべきだけどね。

 つまり、こうさ。自分の信頼できるたった一人に対して、こちらから真の名を明かし、そいつに繰り返しその名で呼ばせる。

 すると、仮にそいつに命令されればそれには縛られることになるが、他の誰かがいくらお前を『●●●●、ああしろこうしろ!』と命令しようと、なんにも強制力がなくなる」

「じゃあ、おれには母さんがいるから、安心だ」


 母は顔をしかめたが、それが不快の表情でないことくらい、当時のギデオンでもわかった。


「バカだね、妖精族以外に対しての話さ。さっきもそう言っただろう?」

「そっか。命令っていうのは、契約のこと?」


 母はギデオンの早熟さに最初は驚いたものだが、この頃にはだいぶ慣れてきていたようだった。


「おや、急に賢くなるね、お前は。

 その通り、真の名を知られ、その名を呼んで契約を吹っ掛けられちまうと、そこには強制力が働き、こちらの承認が省かれちまうんだ。


 ただしさっきも言ったが、一方で他からの干渉を完全に無視できるようになる。

 いわば専属契約を結ぶ格好になるのかね。

 なにか一つのもので自分を縛るってのは、ある意味では究極の自由なのさ。


 ま、相手は死ぬほど慎重に選ばにゃならんがね。それこそ、こいつのためなら死んでもいいと思えるくらいでないと、とてもとても」


「母さんは、父さんに本当の名前を教えてたの?」


 いつも冷静な母も、このときばかりは動揺した素振りを見せたが、ギデオンには視線を寄越さず、殊更に低い声で呟くように言った。


「……いいや、教えちゃいなかった。つまりそれくらい慎重にってことさね」

「そっか。じゃあしょうがないね」


 母は蟷螂かまきりのような女だ。見た目がという意味ではない。

 母は子供を丈夫な体に産みたいというだけの理由で、周囲の反対を押し切り、他族の男を妖精族の里に引き入れ、夫とした。


 詳しくは聞かされていないが、種族名に獣だか鬼だかのつく、とにかく体のでかくて強い男だったそうな。

 もっとも喧嘩の腕前は、断然母の方が強かったらしいが。


 母はギデオンを誕生させると、産後の栄養とするため、そして反対していた周囲に「これなら文句はないだろう」とでも言いたげに、夫をすぐさま殺して料理してみせた。

 母はいわゆる「強い血」を持つ赤帽妖精レッドキャップで、その資質はしっかりとギデオンに受け継がれているため、文字通りと血統面の二重の意味で、夫を「まるごと喰った」ことになる。


 ともかくそんなふうに慎重で残忍な母は、しかし、と前置きし、どこかある種の口惜しさを湛えつつも、温度のない声でこう言った。


「お前の一生だ、お前が決めればいい。

 もし、●●●●や、その名を教えてもいいと心から思える相手に出会ったなら」

「出会ったなら?」


 母はもはや諦念に近いため息を吐きつつも、糸とともに真摯な助言を紡いだ。


「そいつの耳元にそっと囁くのさ。他の誰にも聞かれないようにね」

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