第70話 駒は大切に扱います


「〈結界石〉よ。報告は受けているわ。今も緊急時に備えて、肌身離さず持っているのでしょう?」


 来たか、というのがオノリーヌの正直な感想だった。遅かれ早かれという見解ではあったので、格別の異議はない。

 しかしヒメキアはビクッと震えた後、〈結界石〉を取り出したはいいものの、彼女の中ではお守りのような存在になっているようで、名残惜しそうにせめてもの抵抗を見せた。


「は、はい。あたし、これがあったから、デュロンと一緒に助かったことがあって……」

「わかっていますよ。確かにそれは便利な代物ですし、あなたが悪用しないことは理解しています。

 押収物の現場裁量による横流しに関しては、後でベルエフを絞め上げるとして、それはあなたの責任ではないし……ギャディーヤという例外には通用しなかったようだけど、そういうことではないの」


 アクエリカがあからさまに目配せを寄越すので、自分が試されているのだと悟り、オノリーヌはヒメキアの説得を代行した。


「ヒメキア、君の呪詛耐性は精神系や頭脳系の能力に対して大きな穴がある。

 たとえば君が幻惑にかけられ、自らの魔力で結界を閉ざし続けるようなことになってみたまえ?

 外部の我々は破壊できず、金庫に鍵を閉じ込めたような格好で、君は衰弱死するまで自らを囲う檻を維持する羽目になる。

 苦しいけど、逆らえない……そういう状態になるかもしれないのであるからして」


 ぶるる、と震えたヒメキアは、素直にアクエリカへ結界石を手渡した。アクエリカは満足そうに受け取り、反対の手で部下の頭を撫でる。ヒメキアは嬉しそうだ。


「こんなものがなくても、あなたには自慢の猫たちがいるでしょう? なにかあったら、あの小さな騎士たちに守ってもらいなさいな」

「は、はい! あたし、ねこたちを信じます!」


 オノリーヌは静かに嘆息するしかない。確かにヒメキアの猫たちは純粋に彼女のことが大好きなので、思うところはない。問題はアクエリカだ。


 その問題の人物はというと、オノリーヌを興味深げに観察しながら、ヒメキアの視線をオフィスの隅にあるソファに誘導する。


「ヒメキア、あなたへの用件はこれだけです。後はオノリーヌとお話をしたいので、あなたはそれが終わるまでの間、わたくしの子猫と遊んでいてくださいませんこと?」

「……い、いいんですか……?」


 さすがヒメキアのひよこアイだ、ソファに置いてある膝掛け毛布の色調に半ば擬態してじっと潜伏していた、青い眼の灰色子猫の存在を、しっかりと捕捉していたらしい。相変わらず猫に関してだけは、ベテラン諜報員並みの観察眼である。


「ええ。ミレインにおいてわたくしを除けば、あなたより猫の扱いに長けた者はいないと理解しておりましてよ」

「そうですね! ……でもごめんなさい、そこはあたし負けません! あたし一位です!!」

「ヒメキア、君はそろそろ普段の謙虚な態度を、猫の話題に対しても反映させたまえ」

「ごめんねオノ……それは無理なんだー」


 どうしても譲れない一線が存在するらしい。ヒメキアはそのまま海月くらげのように部屋を漂い、彗星のように子猫へ引き寄せられていった。どうも子猫には格別強烈な引力が存在するようだ。


 その様子を楽しげに眺めた後、アクエリカの瞳孔がわずかに散大するのを見て、オノは身構えた。


「ふふ、そう警戒することはありませんよ。あなたとは本当にただ、直接話したかっただけだから。

 そしてこの面談は、現役の管理官マスターたち全員に仕掛けるつもりよ。その手始めとして、次代の候補であるあなたの番というわけ。

 チェスでも指しながら、気楽にお喋りしましょう?」


 つまり遠慮なく互いの腹の内を探り合おうという申し出である。

 願ったり叶ったりであるため、オノリーヌは無言でデスク脇に置いてある卓に就いた。


 そこに金持ちのインテリアにありがちな、大理石製のチェスセットが置いてあるからだ。

 ボードの磨り減り具合でかなり使い込まれているのがわかる一方、駒は一つ一つが完璧に磨き上げられているのが見て取れる。


 アクエリカもデスクから移動し、オノリーヌの対面へ優雅に腰を下ろしつつ、そこに言及した。


「わたくし、駒は大切に扱うタイプでしてよ」

「ド頭から最悪が過ぎるのだよ……」

「ふふ、本当よ? 最初に宣言しておくけれど、わたくし、サクリファイスは使いません。理由はつまらないし、虚しいから。あなたもそうなのではなくって?」


 これはチェスの戦術論ではなく、そういう暗喩として受け取っておいた方が良さそうだ。

 ……あるいは本当にハンデを与えてくれているのかもしれないが、話半分に聞いておく。実際、文字通りに、話には半分しか頭を使えそうにないことではあるし。


 しかし確かに駒を初期位置に並べるアクエリカの手つきは、どこか慈しむような優しさが感じられる。

 さすがに傷一つ付けないというわけにはいかないだろうが、美しい所作には見せかけではない品がある気がした。


「……まあ、そういうふりをして釣り上げることは、よくあるけれど」

「この前はそれでウォルコを引っ掛けたそうね」

「まったく、やりにくいことこの上ない。いったいどこまで知っておられるのか」

「さあ、どこまでかしらね? ほら、あなたが白よ。お先にどうぞ」

「では失礼して、一局お相手願いたまう」

「こちらこそ、どうぞよろしく」


 静かに対局が始まった。

 といっても、なんということはない、ひたすらセオリーに沿った堅い手が交わされ、早くも世紀の凡戦が予想される。


 少なくともチェスに関しては、現状どちらもそこまでやる気がないことが、互いに伝わっている。

 互いに並列思考を得意とする頭のつくりなのだろうが、処理能力にも限度が、そしてそれ以上に優先順位というものがある。


 アクエリカの駒捌きがほぼ手癖というか上の空で、対話に集中しようとしているのが、オノリーヌの嗅覚が明確に感知していた。

 もっとも、それすら今は手の内を見せる気がないというだけなのかもしれないが、気の許せない相手とのゲームを楽しめる性分でもなく、オノリーヌは無難な次手を探りながら、最適な会話の糸口の方を考え抜いた。


 今はチェスで勝ってマウントを取ることより、この女から情報を引き出し、少しでも本性や本懐を暴く方が優先だ。

 それもアクエリカとの共通認識であるようで、黒のルークをおもむろに動かしながら、〈青の聖女〉は物憂げに口を開いた。

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