第69話 まずは盤上を整えて
あれから何日か経ち、デュロンたちは例の護衛任務を、特段の問題なく続けているようだった。
しかしそれは裏を返せば、刺客がいまだ捕まっていないという意味でもある。
そのあたりに思いを馳せていたオノリーヌは、ふと手を引かれ、今の状況を思い出した。
時刻は午後二時過ぎ、場所は聖ドナティアロ教会の回廊の、深奥へと向かう途中である。
ミレイン司教アクエリカ・グランギニョルから呼び出しを受けたのは、オノリーヌ一人ではなかった。ゴネまくるベルエフに書類仕事を全部押し付けることに成功した彼女は、寮に取って返し、ちょうど休憩中だったヒメキアを連れて戻ってきている。
おちびさんのひよこちゃんは不安なようで、オノリーヌの手を縋るように握ってきたのだ。
「オノ、あたし、なにかしたかな? なにか怒られるかな?」
「さてね。しかしいずれにせよ不利なら、わたしが弁護するのだよ」
オノが優しく握り返すと、ヒメキアの手の温度が少し高まり、ふにゃっと笑いかけてくる。
「そっか! ならあたし、安心するよ!」
「あまり買いかぶられても、困るのだけどね」
そう、なにせ相手はあの女なのだ。……といってもまだ、対面で喋ったことすらないのだが。このあたりは弟とまったく同じ流れである。
扉の前に着いたため、オノリーヌはやんわりと握られたヒメキアの手を放し、代わりに肩を抱いて、自分の隣に立たせ、いつでも庇うという意を込めて、腰のあたりをポンと叩いた。
このひよこちゃん、だいたいいつもいい匂いがするのだが、安心するとさらにいい匂いがする。なのでより安心させたくなる。
決然と背筋を伸ばし、毅然とした音でノックすると、穏やかな返事が扉越しに響いてくる。この蠱惑的な声からしてまず危険だな、と彼女は改めて気を引き締めて臨んだ。
「どうぞ、開いていましてよ」
「失礼いたします。オノリーヌ・ハザークとヒメキア、参りました。グランギニョル猊下におかれましては……」
「あーあー、待って待って、ストップストップ……そこまでにしなさいな」
堅苦しい敬意表現の使い慣れなさが即刻バレたようで、アクエリカは大仰に嘆いてみせた。
「まったく、全員に個別に言わなくてはならないのかしら? 報告のたびに長々と能書きを垂れられたのでは、業務が滞って際限がないわ。いつも通りの言葉遣いで話しなさいな? それともオノリーヌ、あなたはいつもお腹の調子が悪いのかしら? それならそれで、良いお薬を教示するけれど」
遠回しに下品な俗語表現で揶揄されたことで、オノリーヌの緊張もいささかほぐれた。
一方のヒメキアは意外に平常心で、にこにこしながら挨拶する。
おそらく怒られる雰囲気ではないことを早々に察し、さらに相手が少なくとも外見と物腰は、優しそうなお姉さんだと再認識したからだろう。
「聖女さん、こんにちは! はじめまして、あたしヒメキアっていいます!」
「はい、こんにちは。あなたのことはよく知っていますよ、ヒメキア」
「えっ!? な、なんでですか……?」
ヴィクターの能力を連想したのだろう、一転怯むヒメキアに、アクエリカはやんわりと取り繕う。
「ああ、違うの……それはもう普通に、人事資料でだから安心なさいな。
……資料といえば、苗字を名乗れないのも不便なものね。敵性認定されたウォルコはジュナス教会から永久除籍され、養子縁組も事実上の解消を余儀なくされたもの。ウィラプス姓は完全に宙に浮いてしまった格好ね」
「は、はい……あたし、苗字ないです……」
途端にしょんぼりするヒメキアから、オノリーヌはアクエリカへと視線を戻す。
口では部下との交流を図りたいようなことを言っておきながら、なぜ今わざわざデリケートな部分を突き回すのか?
そこで、アクエリカがオノリーヌの嗅覚感知に絶対に引っかかるよう、あからさまなほどに昏い愉悦を発散していることに、人狼少女は遅まきながら気づいた。
相手の意図に乗る形で、オノはいつも通りに崩した口調で返答した。
「今、ヒメキアを義妹として迎える権利を巡って、リャルリャドネ家と我がハザーク家で民事係争の真っ最中だ。これが紛糾していてね、果たして彼女が結婚して自力で姓を獲得するより早く、結審となるかは微妙なところなのだよ」
本人には特に意味もなく伝えていなかったため、ヒメキアは落胆も忘れて仰天している。
「あたし、そんなことになってたんだ!? あ……あたしのために争わないでよ!!」
「その台詞、こんな殺伐裁判に対して聞きたくなかったのだよ……と、いうわけなので、猊下もグランギニョル家との三つ巴に持ち込みたいというのなら、参加いただいても構わないのであるからして」
「あたしが困るよ!!? なんであたしを聖女さんの妹にしようとするの?!」
「妹、ね……悪くないわね」
本当に乗り気なのか、アクエリカが薄く笑んでそんなことを言うので、ヒメキアはパニックに陥った挙げ句、オノに抱きついてきて、必死に主張した。
「あ、あたし、お姉ちゃんにするなら、オノがいいです! オノの妹になりたい!!」
「お、おおう……自分で言わせておいてなんだが、なかなかの破壊力なのだね……」
その様子を楽しそうに見ながら、アクエリカがデスクに頬杖をついて尋ねる。
「そんなことになっているのに、あなたとイリャヒ、普通に仲が良さそうでしてよ?」
「法廷では敵同士でも、一歩外へ出れば同胞同士であるからして、互いにおくびにも出さない。奴とはいずれ決着をつける運命にあるのだよ……」
ようやくざっくばらんに話すことができ、オノリーヌとアクエリカは、互いに微笑んだ。
上司にタメ口を利く条件の代表例としては、よほど親しい身内であるか、相手の人格が尊敬に値しない場合が挙げられる。
前者は今のところ難しいため、アクエリカは腹に抱えた一物をあからさまに見せ、後者の範疇に納めさせるためのポーズを取ったのだ。
本音で話しましょう、という体裁が整ったところで、アクエリカは一旦オノリーヌから視線を外し、入室前とは別の意味で怯えているひよこちゃんに、涼やかな声をかけた。
「先に用件を終わらせておきましょうか。
ヒメキア、今も持っているでしょう? あれを提出しなさいな」
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