第71話 王の暴虐、そして前へ進むこと
「あなたがすでにそうだけれど……わたくし、こんな性分なので、いまだにまったく信用されず、余所者扱いされています。
どうしたら歴戦の猛者である
悩ましげな口調と嫋やかな表情に騙されそうになるが、明らかに想定済みの答えを吐き出すことを期待されているのがわかる。
オノリーヌは口八丁手八丁……と言いたいところだが、結局どちらも無難に動かすことになる。
いずれにせよ奇策を打つにはまだ早く、地道にポーンを進める他にない。
「前任の教区司教猊下は、とにかく良くも悪くも保身に長けた方だった。戦術的にも守りを固める手腕は高く、実際それが〈恩赦祭〉の事件では結果的に最悪の事態を防いだのだろうけれど、ウォルコに散々翻弄される羽目になったのもまた事実で、その悪印象が残りすぎた。
なので、前任者とは違うというところを見せるべく、わかりやすい成果物の残る類の功績を出されればよいのでは?
たとえば長年滞っている建設途中の聖堂を、この際一気に竣工まで持っていくだとか」
アクエリカはポーンをのんびりと動かす様子すら、一幅の絵画のようによく映える。しかし彼女もまだ、想定問答通りに喋っているだけだろう。
「そうしたいのは山々だけれど、希望からお金が湧くわけではないのよね。どこかの脚の長い紳士が、いきなり大口の寄進を思い立ってくれるといいのですけど」
「あなたならそれが可能なのでは?」
「どうしてそう思うの?」
自滅覚悟で白のナイトを大胆に駆り、オノリーヌは一歩、青い僧服の豊かな胸元へ踏み込んだ。
「猊下はこの魔族時代にはありえない、『奇跡』を用いられると聞き及んだのだけれど」
「ふ、ふふ……あははははは!」
いきなり子供じみた笑い声を上げるアクエリカに、子猫とじゃれていたヒメキアが振り返る。
しかし子猫が遊びに誘うので、ひよこの興味はすぐに魅惑の獣へと戻っていった。
その様子を涙を拭う眼の端で捉えつつ、アクエリカは盤面に向き直った。
まだ細い腹を震わせつつも、手はすでにビショップへそつのない対応を指揮している。
「誰に聞いたのか知らないけれど、あなたの耳もずいぶんと敏いようね。
そう、確かにわたくしは奇跡とでも呼べるものを司る、いわば天運を持っているわ。
ただし〈恩赦の宣告〉以前、神に
いずれ話すわ。たぶん、あなたには理解と共感を得られると思う」
可笑しそうな口ぶりとは裏腹に、アクエリカの口元はわずかに歪み、手入れの行き届いた髪や肌から流れる柔らかな匂いが、ほんの少しだけ苦みを含んだことを、オノリーヌは感じ取った。
別に、実力を侮られることに対する苛立ちというわけではないだろう。かつての人間に対する侮蔑のようで、少し違う気がする。
隙と呼べるほど明確なものではなかったため、またの機会を待つしかなさそうだ。
そして実際、オノリーヌは転換を強いられていた。攻めあぐねた一手が契機となり、アクエリカの調子を上げさせる呼び水と化してしまったようで、枢機卿まで上り詰めた辣腕がほんの一端であれど炸裂し、黒の軍勢が猛然と畳み掛けてくる。
そうこうしている間に盤面は早くも終局に差し掛かり、アクエリカによる白のキング攻略の道筋は、ほぼ整ったも同然の状態となった。
次にチェックをかけられたら終わりだと思った方がいい。ゲームに敗けるのは構わないが、設けられたこの席が終わるのは困る。
……しかし、どうしても突破口が見つからない。わかってはいたことだが、地力に圧倒的な差があるためだ。
幸い制限時間などは設けられていないため、オノリーヌは長考状態に入った。
昔、彼女にチェスの手ほどきをしてくれたベルエフが、「困ったときこそポーンを頼れ」と言っていたのを思い出す。
一番近くに置いてある一番ありふれた駒をじっと見つめていると、ふと視線を感じる。
オノリーヌが顔を上げると、アクエリカが彼女をじっと見つめていた。
「……なにか?」
「いいえ、どうしたのかなと思って。駒がなにか気になりまして?」
攻めあぐねて悩んでいます、と素直に言うのも癪なので、オノリーヌは持ち前のひねくれぶりを発揮してみた。
「木製の安物に慣れたわたしにとっては、悪趣味な高級品が珍しくてね。もっとも、クリスタルよりはマシだと思うけれど」
「ああ、それに関しては同感だわ」なんだか懐かしそうに笑い、アクエリカはポンと手を打つ。「実家にいたときはまさに水晶製の駒を一式持っていたのだけど……あれって白が透明で、黒が半透明なわけでしょう? なんだか旗幟不鮮明なようで格好悪く思えて、結局置いてきてしまったの。
今使っているこれは、数年前に〈聖都〉ゾーラで、自分の給料で買ったものよ。やっぱり盤の上くらいは、白黒はっきりついていた方がいいものね」
「……それはつまり、白と黒の戦争であるという意味で?」
「あら、別にそういうふうに示唆したわけではないのだけど」
アクエリカは意味深長に微笑み、はぐらかす。
もしかしたら本当にオノリーヌの深読みのしすぎで、アクエリカは単に底を見せないために玉虫色の返事をしているだけかもしれないが……いや、いずれにせよ、今考えるべきは……。
「しろとくろかー」
突然すぐ側から声がしたので、オノの肩がビクリと跳ねた。
頭に灰色子猫を乗っけたヒメキアが卓に両手の指先をかけ、戦況を見守っていた。
彼女の匂いには悪意がないことも多いので、いつの間にか近づかれていて、気づかないことも結構あったりする。
アクエリカは彼女のことが視界に入っていたようで、鷹揚に迎えている。
「しろがヴィクターで、くろがイリャヒさんだったら、あたし、しろを応援できないや」
「そういうわけではないのよ。ヒメキア、もし良かったら、オノリーヌに加勢してあげてもいいのですよ?」
「えっ? でもあたし、こまの種類と動かし方を、パパに習ったことあるけど、あんまりやったことはないです……」
「ぼんやりとイメージが掴めているのなら、それで構わないわ。ほら、オノリーヌの上に乗っかってしまいなさいな」
ヒメキアは少しの間ためらっていたが、オノが両手を伸ばすと、彼女の膝の上に座ってきた。
一度だけ彼女を振り返り、へへ、と笑ってから、正面に向き直る。
このひよこ、体温が高くて心地いいし、髪からいい匂いがするなと、考え疲れた頭でオノは思った。
灰色の子猫はヒメキアの頭から降りて、どちらの味方でもない中立の位置に着地し、不器用に香箱を作った。……正確に言うとアクエリカの意思を受けて、そういうふうに動いたのだろう。
ともあれ、このほぼ煮詰まった盤面は、たとえグランドマスタークラスの実力があったとしても、容易に覆すことはできそうにないが……。
「ヒメキア、こう考えてはどうかしら?
あなたが率いる白の軍勢は、尊い猫の王国で、今、わたくしが率いる邪悪な黒犬の帝国に攻め込まれている。
白い駒は猫の兵よ、普通より遥かに卓越した動きをする。それはこの場であなたが決めていいわ」
なんという破格の提案だ。オノの方からは見えないが、ヒメキアの瞳が輝いているのがわかる。
「ほんとですか……!? あたし、ねこたちを勝たせたいです!!」
ヒメキアは純然たる思いつきによって、次々と臨時の追加ルールを発表し始めた。猫がもたらす閃きは鮮烈なようで、彼女の椅子になっているオノリーヌは驚くしかない。
「しろのポーンはねこなのですばやくて、一度に三マス進めるよ!」
「なんと」
「しろのナイトはねこの騎士だから、もっとすばやくて、敵の頭の上以外なら、どこでもワープで移動できるよ!」
「マジかね」
「しろのルークはつよいねこの戦士だから、絶対倒れないよ!」
「それありなのかね?」
「しろのビショップはねこの魔法使いだから、前の三マスを攻撃できるよ!」
「おいおいおい……」
ヒメキアは暴君もいいところ、とんでもない圧政を敷いている。
もちろんこれらの特典ルールはアクエリカ側には適用されないのだが、聖女は口を挟まない。
「しろのクイーンにはあたしの力を授けてあるから、死んでも一回だけ復活するよ!」
「あ、そもそもそういう設定なのだね」
「……でも、しろのキングはふつうだよ。だって、しろのキングはあたしだから。よわよわで、一回やられたら終わりで、まけだよ」
さすがの絶対王ヒメキアも、キングを無敵にすることはしなかったらしい。勝利条件を動かさないあたりゲームの妙味をわかっている。これはかしこいひよこ。
「ではこのゲームはそういう感じで続けましょう。ヒメキア、オノリーヌの代打ちとして、わたくしと勝負してくださるわね?」
「勝負します! オノ、あたし勝つよ!」
「あ、ああ。頼んだよ、ヒメキア」
ここままオノリーヌが普通に続けるよりは、ヒメキアが振るう王の暴虐に任せる方が、勝ちの目があるのは明らかだった。
しかし、案の定ではあるのだが、ヒメキアは特殊ルール任せのゴリ押しで思いついた手を端から打っていくという、良く言えば天衣無縫の自由闊達、悪く言えば素人丸出しの最悪手ばかりを連発した。
結果、やはり盤面を覆すには至らなかったようで、ヒメキアの猫の軍勢はなかなかの粘りを見せたが、アクエリカの手で丁寧に刈り取られ、逃げ惑う王の首が落とされた。
なにを賭けているわけでもないが、ヒメキアは落ち込むついでにオノの膝の上から滑り降りて、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「オノ、ごめんね。あたしじゃどうしようもなかったよ……」
「いいや、ありがとうヒメキア。君の助力は忘れないのだよ」
「ほんと? よかったー。あたし、やっぱりこねこと遊んでくるね」
それなりに楽しかったようで、にっこり笑った彼女は、子猫と一緒にソファへ戻っていった。
自然と第二局へ移行する流れとなり、アクエリカと二人で駒を初期位置へ戻しながら、オノリーヌは思考が晴れるような感覚を得ていた。
ヒメキアがいいヒントをくれた。そうだ、弱いまま勝とうなどという考えの、なんと傲慢で甘っちょろいことか。
強い相手に一対一で勝つためには、強くなる以外の選択肢はないのだ。奇策を打つにしても、まず地力の高さが前提となる。
第二局も、序盤の流れは第一局とそう変わりはなかった。アクエリカは相変わらずそつのない駒捌きを見せ、鮮やかな手つきでキャスリングをしてみせながら、中盤戦に差し掛かり、覆轍を踏みそうになっているオノリーヌを叱咤する。
「さあ、今回はどんな手練手管を見せてくれるのかしら? 欲張りなスキュアやフォーク? 華麗なディスカバードアタックや、ワクワクするようなバッテリー? それともツークツワンクや、あるいは勝ちは捨ててパーペチュアルチェックでも狙ってみる?」
いいや、どれも違う。
今は前へ、ただ前へ進むのだ。
弱くて勝てないなら機会を設けて、戦いの中で強くすればいい。
相手の最終列へ到達したポーンが、ゲーム全体をすら左右しうる劇的な変化を遂げる。
「プロモーションだ。勝負はこれからなのだよ」
その手を受けて、アクエリカは満足そうな笑みを浮かべた。
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