第65話 ガールズ・キッチン・トーク


 寮の玄関に入る前から……いや、オノリーヌの人狼としての嗅覚はかなり手前から、美味しそうな食材の匂いを感知していた。

 矢も盾もたまらない。ロビーを兼ねた談話室を通り、昼食めがけて、二人は食堂へ直行だ。


「とにかく腹が減ったのだよ。そういえば今日から、ヒメキアが厨房に入っているのだったね」

「ああ。やはり向いているということで、比較的品数も量も少ない昼食を、まずは一人で任されるのだとか。どうやら我らが同盟の再樹立は遠そうであるなあ」

「それまだ諦めてなかったのかね……おーい、ヒメキアー」

「あっ! オノ! リュージュさん! おかえりなさい!」


 食堂に踏み入った二人を認識し、頭にバンダナを巻いたひよこちゃんが振り返った。

 普通にエプロンを着けて髪をまとめているだけなのに、とてもかわいい。

 そしてなにより、大汗をかいて頑張っている姿が、キラキラしていて美しいと、オノは感じた。


「おかえりなさいなの! ヒメキア、すごく手際が良くて、助かってるの!」


 もう一人、厨房から出てきて二人を迎えたのは、普段食堂を仕切っている若女将わかおかみの一人だ。


 ネモネモ・ノケノケというこの少女は、愛らしい童顔も、ふわふわの茶色い髪に巻いたバンダナの柄も、150センチほどの背丈も、ニコニコ笑う物腰も、16歳という年齢すら、ヒメキアとよく似ているとオノは思う。


 大きく異なる点はといえば、服の上からはあまりわからないが、ほどよい脂肪に包まれた、太い筋骨だろうか。肌はすべすべ、髭もないため、一見普通に小柄な女の子としか思えない。


 種族は小鉱精ドワーフで、パワーとスタミナ、手先の器用さと鋭い感性という、およそ料理人に必要な素養をすべて備えている、しっかり者の少女なのだった。


 普段は彼女の母と妹もいるのだが、今日の昼間は彼女一人のようで、ヒメキアの働きぶりを監督し、ときどき手を貸したりしているようだった。

 ちなみに戦っても相当強いという彼女は、小さな体でパタパタ走り、オノリーヌとリュージュを見上げて報告してくる。

 同性でも、いや同性だからこそ、かわいい以外の感想が出てこない。


「今はちょうど下拵えが一通り終わったところなの! 初めて一人で任せたにしてはいいペースなので、もうちょっとだけ待っててあげてほしいの!」

「すまないねネモネモ、急に無理を言って捩じ込む形になってしまって」

「問題ないの! むしろこっちも助かってるの! それに万が一失敗しても、あたしが錬成し直せば済む話なの!」

小鉱精ドワーフってそういうところちょっと乱暴であるよな……料理と錬金術には通底する部分があると、本で読んだことはあるが……」

「一理あるの! とにかく、見ててあげてほしいの!」


 ということなので、オノリーヌはリュージュとともに厨房の端から顔を出し、じっと見ていることにした。


「よーし、いっくよー! それー!」


 実際にヒメキアの働きぶりは目覚ましいもので、手先の器用さもそうだが、それ以上に時間と手順の管理効率が高い。

 複数の料理の工程を同時に把握し、無理なく並行して進めていく。


 オノリーヌもこの手の効率的な作業は得意なので、違いは分野による知識量だけで、自分と頭のつくりが似ているのだろうなと思った。

 逆にリュージュは複数のことを同時並行でやらせると飽きて諦める反面、一つのことに凄まじい集中力を発揮するタイプだ。

 他に卑近な仲間内で言うとイリャヒが前者、デュロンやソネシエが後者のタイプだろう。


「んー……!」


 しかしやはり得意なことの中にも苦手な部分というのはあるわけで、ヒメキアは大人数の食事を用意するゆえの、大きな鍋をかき混ぜるのにやや難儀していた。それも複数ある様子だ。


 そこでネモネモが声を張り上げたので、二人は揃って飛び上がった。


「二人とも、あれを手伝ってあげてほしいの!」

「わたしたちは見ているだけなのでは?」

「空いている手を借りることも、この仕事には必要な技能なの!」

「納得である。では、失礼して」

「うむ。さあひよこちゃん、その木べらをこちらへ寄越したまえよ」

「あっ、オノ、リュージュさん、ありがとう! でもひよこじゃないよ!!」

「またまた。ところでこの豆はなに豆かね?」

「ひよこだよ! ……ひよこじゃないよ!!?」


 ヒメキアをからかうのは楽しいが、彼女の手を止めるのは悪いので、ぐるぐるかき混ぜるのに専念する二人。

 ちょこまか動き回るヒメキアを見ているうちに(矛盾する表現だが)手だけを動かすのは手持ち無沙汰となり、頭が勝手に回ったオノは、考えたことをそのまま口に出した。


「しかし、気になるね……あのヴィクターとかいう男のことだが」

「「…………」」


 急に静かになったので振り向くと、リュージュが胡乱うろんな顔で手を止め、ヒメキアが見たことのない無表情となり、二人してオノを心配そうに見つめ返していた。


「おいおい……お前に限って、恋に恋するお年頃☆っというわけでもなかろうに、どうした?」

「オノ、ごめんね。今度ヴィクターがやってきたら、ぐいぐい押して追い出すって、あたし決めてるんだー」

「大した嫌われっぷりだが、二人して勘違いするでないのだよ。そういう意味ではない。

 彼からはわたしに近いものを感じた。あまりいい意味ではないがね。間接的にかもしれないが、今後対決するような予感がする」

「なんだそうか」「よかったー」


 この、あんまり好きじゃない男子の話になったときの女子のテンション、18年女子をやっているオノリーヌからしても身が縮む。こわい。


 その気まずい雰囲気を外側から打破するように、寮の玄関扉が開く音が聞こえた。


「あっ、ソネシエちゃんだ!」

「こらヒメキア、まだ途中なの!」


 ヒメキアがパッと放り出して脱走したので、ネモネモが慌てて交代に入った。

 オノリーヌとリュージュは持ち場から離れず、手を動かすが、ふと疑問が生じる。


「なんでヒメキアは扉を開ける音だけで、ソネシエだとわかったのかね?」

「日常動作の生活音だけで相手を特定することは、長く一緒に暮らしていれば、可能であるだろうな。特に足音は顕著だ」

「うーん……あるいは魔力か生体かは知らないが、特定波長を感知したのかも」

「お前にとってのヴィクターのようにか?」

「やめたまえ、わたしの弱みを握った気になるのは。君はいいねリュージュ、生活態度すべてが弱点のようなものだから、逆に隙を突きようがない」

「いくらなんでも言いすぎではないか!? わたしだってシャンとしている瞬間くらいあるぞ!?」

「秒、分、時間にまで押し上げたまえ」


 そうこう言っているうちにヒメキアが厨房に戻ってきて、ネモネモに叱られている。


「もう、ヒメキア、放置はダメなの! 次やったらクビ! クビなの!」

「ネモネモちゃんごめんなさい! あたしクビは嫌です! ちゃんとやります!」

「わかればいいの! 続けるといいの!」

「はい! やります!」


 その様子を覗き込んでいたソネシエが、ヒメキアが調理を再開したのを確認し、もそもそと厨房に入ってきた。

 他の三人に眼で挨拶した後、ヒメキアの仕事ぶりを、最後までじっと見届ける。

 その視線を感じていたようで、ヒメキアは快活に汗を拭った。


「できたよ、ソネシエちゃん! あたし今日の夜も、明日の朝もがんばるからね!」

「ヒメキア、ごめんなさい。実は今日から、泊まり込みで護衛の仕事」


 今度こそ驚愕したヒメキアはお玉を取り落とし、青い顔でわなわなと親友を問い詰めた。


「うそ……あたしてっきり……そ……そういうことはもっと早く言ってよ!」

「ごめんなさい。急に決まった。というか、すでに先方に出向いた後」

「えっ……? なんで? だれ? どんな人のおうちなの?」

「わたしの二つ年上の、金髪縦ロールお嬢様」

「ソネシエちゃんの浮気者! あたしよりそういうタイプのお姉さんが好きなんだ!?」


 いきなり修羅場が発生している。この二人のこの感じに慣れていないネモネモが一転、傍目にも怯えていた。

 しかしソネシエは冷静なもので、ヒメキアの手を握り、真摯な説得にかかる。


「安心して。彼女とはあくまで、ビジネスの関係に過ぎない。今も話が長引きそうだったので、先に荷物を取りに来たという次第。彼女か兄さんのどちらかがずっと喋っているので、わたしは疲れる」

「そ、そうなんだ……。ごめんねソネシエちゃん、おしごとだよね。あたし待つよ。ソネシエちゃんが帰ってくるまで、料理の腕を磨いておくね!」

「そうしてくれると助かる。確かに、先方が緊密な護衛を望んでいるので、食事も向こうで摂ることになる。……しかし」


 ソネシエはふと周りを見回し、完成していた一皿のスープを手に取り、自身の猫舌と格闘しつつも、ゆっくりと口にする。

 幼少期から凍ったままの頰は溶けないが、ほう、と熱い息を吐いて、彼女は少しだけ顔を上気させて言った。


「……おいしい。この昼食だけは、少しだけになるけれど、食べていく。兄さんの分も荷物を作るのが遅れたと、先方には言い訳をする」


 ヒメキアはもはやなにも言わず、ただ満面の笑みで応えた。


 それを見て、オノリーヌはおぼろげに理解する。

 アクエリカの配慮はデュロンへのものかと思ったが、彼だけでも夕食時に寮へ帰すというのは、実はヒメキアへの配慮なのかもしれない。


 もちろん、それ一つ取って心を許すことはできない。あの腹黒聖女の魂胆は依然として読めない。

 それでも、身内への配慮は配慮だ。相応の敬意を示すべきだろうと、彼女は一部考えを改めるに至ったのだった。

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