第63話 二石を投じる


「おいおい、名前まで知られちまってるとは思わなかったぜ。だが、情報漏れってほどでもねえな。俺って有名だし」


 馬のたてがみのようなソフトモヒカンにした長い黒髪を揺らし、特に構えも取らず、長身で筋骨隆々の男が、どこか気だるげに立っている。


 言葉にするとそれだけだが、実際に前にしていると、とんでもない威圧感がある。

 近接戦闘においてかなりの覚えのある、ギデオンをもってしてもだ。


 まして今から本気で戦わなければならないとなると、喉も渇いてくる。


 ギデオンの気分を文字通りに嗅ぎ取ったようで、ベルエフは陽気に肩をすくめてみせる。


「まあそう警戒すんな。俺としてはちょっとした散策に来ただけだ。聖女様に縁のある場所を回っているわけだから、巡礼と呼ぶ方が正しいか。……もしかしたら、お前さんも同じなんじゃないかと思ってな」

「……さあな。答える義務があるか?」

「いんや? 他者ひと様のデリケートな内面を土足で踏み荒すほど、おじさん無粋じゃないつもりだよ。ただ仕事に支障が出るようなら、その限りじゃねえが」

「見かけによらず回りくどい男だな……なにが言いたい?」

「あ、それ訊いちゃうか……じゃあおじさんも言っちゃうね? もう一連のあれやこれやでこれ以上掻き回されるのも面倒くせえからよ、お前、ここで俺に取っ捕まってくんねえ?」


 答えを待たず、ベルエフは緩く平手で構えた。


 実際には腕を数センチ動かしただけなのに、ギデオンはまるで彼のリーチが数メートル伸びたかのように錯覚した。

 もし本当にそうだとしても関係なく、種族能力で距離を詰めればいいだけなのだが……どうもそれができそうにない。


 この男の至近に到達するというのがどういうことなのか、ギデオンの経験でなく、本能の部分が教えてくれる。

 具体的な攻撃手段は絞り込めないが、濃密な死の気配が、ベルエフの立ち姿からダイレクトに漂ってくるのだ。


 爪か、牙か、拳かはわからないが、ベルエフの懐に潜り込むと同時に、ギデオンは殺される。これが確定的な未来であることだけはわかる。

 ならばこの足で徐々に詰めるか?


「ボーッとしてんなよ」


 その『死の塊』とでも呼ぶべき存在が、長い脚で無造作に前蹴りを寄越した。ギデオンは回避を選択する。

 なまじ鍛えているゆえに、ギデオンは頰を掠めた風音一つで、威力の程を理解してしまった。


 数秒前まで「どう近づくか」を思案していたギデオンの脳が、すでに「どう距離を取るか」にシフトさせられている。

 圧倒的な実力差というやつがある。今この場で頑張ってどうこうなるレベルの問題ではない。


 ギデオンは近接戦闘を即座に諦めた。

 暴風のように繰り出されるベルエフの連続蹴りを一発だけ見極めて正面から受け切り、その威力に押される形で後方へ跳んだ。


 着地と同時に狙いを定め、両手を構えて、ベルエフを射る。

 クロスボウの類ではない。ヴィクターが卸している銃も肌に合わない。


 ただ人差し指を導線のように標的に向け、親指でつぶてを放った。

 二発とも対象に見事命中。ただし、完全に防御されている。


 ベルエフの両眼を潰すはずだった二つの小さな金属球は、ただ閉じられたまぶたによって、中身の水晶体に衝撃を伝えることなく、地に落ちて転がったのだ。


「投石……いや、指弾か。なかなか渋いもんを使うじゃねえか。狙いも精確だが……残念、相手が悪かったな」


 他にたとえば正中線上のどこを狙っても、結果は同じだったろう。


 人狼はとにかく体組織の密度が高いと、ギデオンは故郷で妖精族の長老に教わったのを思い出す。

 連中の皮膚は厚く張った氷、筋肉は粘りの強い岩、骨格は鍛錬された鋼だと思え、と言っていたが、今にしてみると、あながち誇張とは思えない。


 ……いや、正確には少し違う。ギデオンは今までデュロンを含めて何人もの人狼とやり合ってきた。ベルエフの練度が格別異常なだけだ。


 眼を潰しても耳と鼻があるので、迂闊に近づけないことに変わりはないが、さすがに一瞬怯むはず。

 その隙を突いて手斧で一撃を食らわせ、それを胸郭に食い込ませるというのが、今この場におけるギデオンの唯一の勝機だった。


 それがあっさり潰えたため、ギデオンは即座に撤収する。


「あっ! てめ、待ちやがれ!」


 空間転移でパッと逃げられればいいのだが、生憎ギデオンはそういうことはできない。

 無様に背を見せ、尻尾があったら巻いている……形振り構わぬ敗走だ。

 やはり自分はまだまだだと、ギデオンは再度気を引き締め直した。

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