第60話 ミレイン市長アゴリゾ・オグマ
アクエリカのオフィスを退室して数十分後。
デュロンはミレイン市の中心街にある、ミレイン市庁舎を訪れていた。
といっても聖ドナティアロ教会とは同じ広場のすぐ隣にあるため、かかった時間は移動ではなく、事前の準備が主だった。
出勤のたびに見る白石造りの建物ではあるが、実はデュロンはほとんど市庁舎に入ったことがなかった。まして1人では初めてだ。
身分を名乗って案内を受け、市長のオフィスに通される。
「やあやあ、よく来てくれたね。とりあえずそこへ掛けてくれ」
顔を知ってはいたが、迎え入れたのは落ち着いた中年の男だった。
体格のいい、精悍な顔立ちの紳士だ。地味な暗色の背広に身を包み、磨き上げられた革靴を履いている。黒髪を丁寧に撫でつけ、太めの眉もきっちり整えてある。
しかし完璧な身なりとは裏腹に、あまり神経質そうな印象はなく、柔和な微笑みには親しみを感じた。政治屋としての仮面というわけでもないようで、デュロンの嗅覚は実際に温厚な、リラックスした感情を検出していた。
秘書らしき女性が淹れてくれたお茶からも、特に怪しい臭いはしない。
人狼同士でその手の単純な騙しは通用しないことはわかっているため、最初から仕掛けてくるわけもないのだが、いちおうは警戒しているというその状態も、上質な紅茶の香りに紛れず、アゴリゾの方にも伝わっているのだろう。
果たして市長は満足そうに微笑み、そのあたりの共通理解に恐れず触れてきた。
「まあそう構えないでくれ。確かにこちらも、いきなり護衛を寄越しますと言われて、いささか困惑はしている。しかし、教会が強引で一方的で自分勝手なのも、別段今に始まったことじゃないからね」
当て擦りではなくお道化で言っているというニュアンスも、デュロンの方に正確に伝わってくる。
少年の首肯を受けて紳士はますます笑みを深め、さらに胸襟を開いた。
「それに正直に言ってしまうと、願ったり叶ったりな部分もなきにしもあらずというか、大いにあるわけでね。最近出回る通り魔の情報、普通に怖いし。人狼だって全員実戦レベルで鍛えているわけじゃなし、返り討ちというのも到底望めないからね。
もっとも、私のようないい歳をしたオッサンの、浅ましい保身の感情なんて、君のような若くて強い同胞にはわからないかもしれないけど。まあ、仕事だからということで諦めてほしいね」
「……そんなことはねーよ。アンタほどの立場になれば、保身も仕事の一部だろう」
「やれやれだ、分別臭い建前はやめてくれないか? 私と君の仲だろう?」
初対面だが、と言おうとして、勝手知ったる同族同士という意味で言っているのだと気づき、デュロンは開きかけた口を噤む。まったく、これだからやりにくい。
という一連の感情の動きも当然伝わっており、アゴリゾはいかにも興味本位といった感じで、ウキウキと尋ねてくる。なんだか早くも気に入られてしまったようだ。
「デュロンくん、君は私のことをどれくらい知っているかな?」
「いや、あんまり詳しくは……ただ、いまだ根強く残る種族間の差別感情を、少しでも緩和しようと、市長就任前から活動されてきたとは聞いてる」
「おっ、一番嬉しいところを知ってくれてるんじゃないか」
茶化すようなことを言いつつ、アゴリゾの笑みは憂いを帯びて緩んだ。
「……といっても、大したことはできてないんだけとね。知っての通り、
古い血族や共同体の中には、いまだそれら不倶戴天の敵とされている相手を、広い意味での同胞……つまり魔族ってやつとして認識していない集団も多くある。
そういうけっして小さくない綻びからこの社会が瓦解することを防ぐため、草の根にドブ板で色々とやっているのだが、正直あまり上手くいっているとは言えないね」
いきなり真剣に喋りすぎたと感じたのか、殊更に陽気な顔を見せるアゴリゾ。
「その点、君らのような若い世代はさすがに柔軟だ。口では好敵手視して反発し合いながら、いざとなったら緊密な連携が可能なのだから」
「おい、やめてくれ、そのあたりのデリケートな部分にはっきり言及するのは。俺らがめちゃくちゃ馴れ合ってるみたいに聞こえるだろ」
「はは、すまんすまん。でも、いいことだからね。仲なんて悪いより、いい方がいいに決まってるじゃないか。というわけで、君も私とよしなに頼むよ」
求められた握手に応じるデュロンは、アゴリゾがほとんど囁くように問うのを聞いた。
「それで、肝心の刺客だが……君はすでに二度遭遇していると聞いたよ。どうだった? ヤツは、強いのかな?」
他に答えようもなく、デュロンは率直な所感を話した。
「ああ、強い。少なくとも現時点では、間違いなく俺より上だ」
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