第57話 新任司教アクエリカ・グランギニョル②


「げぇえっ……ダメだ、まだ気分わりー……」


 ピカピカに磨かれた男子トイレの洗面所を、デュロンは吐瀉物で汚していた。


 胃の中を空っぽにしても、まだ吐き気が治まらない。

 先ほどまでずっとヒメキアが背中をさすってくれていたのだが、イリャヒに交代されて手持ち無沙汰になったため、その辺をうろちょろし始めた。

 彼女があまり心配していないということは、症状的には大したことはないということなので、安心ではある。


「わー、男子トイレってこんななんだー。あたし初めて入ったよ」

「こらヒメキア、ばっちいですよ。それは不浄の器です、触っちゃダメ」


 ひとしきり彼女を注意した後、イリャヒはデュロンに、半ば憐れむ口調で言った。


「しかし、また『感情酔い』ですか。難儀な体質ですね」


 人狼は嗅覚により、他者の感情を鋭敏に感じ取る。そのためあまりに鮮烈な感情を向けられると、強いストレスを受けるだけでなく感覚を直接狂わされ、悪心などの不調に見舞われることがあるのだ。


 あの密集状態の中、あの距離から届くというのは相当なものだ。デュロンの態度にブチ切れていたのだとしたら、むしろ与しやすいのだが……どうも逆のようだった。


 あの女……これから部下になろうというあの場の全員を、完全に自分の新しい駒の集まりとしか見ていなかった。

 まるでモノにでも向けるような、透明で冷血な無感情……そしてそれに混じった昏い期待と愉悦を検知し、デュロンの胃の腑は底冷えしてしまったのだ。


 男子トイレの探検に飽きた様子のヒメキアが戻ってきて、またデュロンを心配してくれる。

 ヒメキアの治癒能力も万全というわけではなく、たとえば心因性のものには対症療法にしかならず、それが慢性化したものなどには、あまり効果が見られないだろう。


「デュロン、大丈夫? あのね、前にパパが、あか、しろ、あおには気をつけなさいって言ってた。あの聖女さん、あおだよね?」

「ほう、彼がそんなことを……確かに、具体的になにがどうというわけでもなく、警戒しておいて損はない相手ですから、賢明ですね。

 というか、我々リャルリャドネのことは例外扱い、つまり信用してくださっていたようで、光栄です」

「それ、って……ラスタード四名家ってやつの……」

「ええ。赤がホストハイド家、白がヴィトゲンライツ家、黒がリャルリャドネ家……そして青はグランギニョル家を指します。

 しかし、あの家は確か20年以上前に……」


「……ちょっといいかな?」


 言いかけたイリャヒを遮り、開け放した扉を儀礼的にノックして、廊下から男子トイレの中を控えめに覗き込み、凛とした声がかかった。


 長い銀髪を横分けに整え、吊り上がった碧眼を擁する女性が、まったく隙のない立ち姿を見せている。


 年齢も美貌も、そして品位もアクエリカと同格という感じで、そんなただならぬ女がミレインに二人もいること自体が尋常ではないが……同時にそれは必然の帰結でもあるようだった。


 なぜなら彼女が身に纏っているのは、祓魔官エクソシストの中でも最高位に相当する、限られた者にしか名乗ることを許されない聖騎士パラディンの証である、純白の制服だからだ。

 考えてみれば枢機卿にまでのし上がり、〈青の聖女〉の二つ名を持つ真性の傑物に、専属護衛官の一人もいない方がおかしい。


「こんな形で失礼する。君らが退出した後で紹介されたので、いちおう挨拶しておこうと思ってね。


 グランギニョル猊下のお目付け役として赴任した聖騎士、メリクリーゼ・ヴィトゲンライツだ。以後お見知り置きを……と言っても残念ながら、君ら一般の祓魔官と関わることはあまりないだろうがね。


 なにせ司教座の最奥に籠り、ただでさえ滅多に存在を見せないことになるだろう彼女の、さらにその影が私なのだから。


 こんな機会でもなければ、かわいい後輩たちと、ろくにお喋りもできやしないとは、困ったものだ」


 一方的に喋りすぎたと思ったのか、気まずそうな咳払いで仕切り直し、メリクリーゼは別の用件を切り出した。


「それで、その司教猊下からの通達なのだが……ヒメキアくんというのは君だね?」

「は、はい!」


 目上の人物に名指しされるのは初めてだったようで、ヒメキアが素っ頓狂な声を上げて跳び上がった。

 その反応に若干鼻白みつつ、メリクリーゼは言いにくそうに言伝を口にする。


「申し訳ないのだけど、君の猫たち、返すのはあと一週間弱の間、延期ということになるそうだ」

「ええっ! そんな……!」


 絶望に打ちひしがれる最弱のひよこを哀れに思ったようで、メリクリーゼはあたふたとフォローを入れてくれる。


「ま、まあそう落ち込まずに。あの女……じゃなかった、猊下は慎重な方でね。前任司教下の管理・検査態勢は信用できないと、改めてすべての項目にチェックを入れたいそうだ。めんどくさ……煩わしいだろうが、もう少し我慢してくれないか」

「うう、あたしのねこたち……わかりました、あたし待ちます……」


 うなだれつつも承服するヒメキアを見て、メリクリーゼはホッとした様子で額を拭った。


 ずいぶんフランクな態度を取っているなと思っていると、デュロンの疑問をイリャヒが代弁してくれた。


「お話を聞いていると、ただの専任護衛官という間柄ではなさそうですね」

「ああ。なんというかね、同い年でもあるし、色々因縁があって、早い話が腐れ縁なわけだ。

 私も別に、好きであいつに付き従っているわけじゃないからね。君らもなんというか、その……気をつけた方がいい。言われるまでもなくわかっているかもしれないけどね。

 では、私はこれで。今後ともよろしくね」


 立場上あまり踏み込んだことは言えないようで、メリクリーゼはヒメキアの頭を撫でた後、デュロンに向かって優しく微笑み、「お大事に」と言い置いて立ち去った。

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