第56話 新任司教アクエリカ・グランギニョル


 明け方までいい汗を掻き、程々に血の気が抜けた祓魔官エクソシストたちは、数時間の睡眠の後、本日の業務に従事する。


 朝、デュロンとソネシエは聖ドナティアロ教会に出勤し、直属の上司であるベルエフ・ダマシニコフに、昨夜のあらましを報告した。

 やはりというか、結局ギデオンは捕まらずじまいだったのだ。

 しかし一昨夜にも同様のことがあったため、ベルエフの反応は淡白なものだった。


「おー、お疲れ。またまたやられちまったみてえだな。まあ今回は実害が出たわけじゃねえし、良しとしようや」


 ジュナス教の祓魔官らを指揮する祓魔管理官エクソスマスターは、司祭相当の各種権限と、書斎のような一室を専用に貸し与えられる。

 ベルエフのオフィスは羊皮紙に記された資料類が山積していて、その隙間にデスクを置いているような形だ。他の管理官もこんなものらしいが。


 それらの隙間を縫ってスイスイ歩いているのは、半ばベルエフの秘書官のようになっているデュロンの姉・オノリーヌだ。


 今日もニット地の虐待に余念がなく、また、特に意味のない、おそらく雰囲気作りのためだけに伊達眼鏡をかけた彼女は、デュロンの視線に気づくと、ウィンクを飛ばしてくる。

 金髪美女という生き物の生態は実の姉であってもわからないなと、デュロンは若干鼻白んだ。


 二人の様子を特に気に留めず、報告書を書きながら、ベルエフが疑問を呈した。


「しかしなんだ、そいつ……その戦闘妖精の野郎は、お前らに執着してんのかね?」


 デュロンとソネシエは顔を見合わせ、正直な所感を口にする。


「わかんねーな……俺たち、あいつの気に障るようなことしたっけ?」

「なんらかの明確な基準があるのかもしれない。妖精族はとても気難しい」


 現時点ではよくわからない。ベルエフは書類束の端を揃え、おもむろに切り出した。


「そうか、しゃあねえな。……んで、おそらくそのあたりも絡めてなんだが、新任の教区司教様がお前らをお呼びなんだわ。直接報告してほしいってのと別にもう一件、新しい任務に就いてほしいそうな」

「げっ……!」

「おいデュロン、間違ってもその声音と態度、本人の前で出すんじゃねえぞ?」

「わかってるけどよ、苦手なんだよあの人……」

「まだ遠目から見ただけで、近くで話したこともねえだろうが。……まあ言いたいことはわかるが……とにかく、失礼なねえようにな。ワンミスで謀殺されちゃうかもよ、責任者の俺ごと」

「こえーよ、やめてくれよ!? まったく冗談になってねー……! ……気をつけるよ」


 姉に手を振られつつソネシエと一緒に退室し、滅多に行かない回廊の最奥へと向かいながら、デュロンは数日前のことを思い出していた……。



 時を遡り……ウォルコによって引き起こされた、〈恩赦祭〉二日目の事件、その翌日のこと。


 未曾有の大失態の責任を取らされ、ミレイン教区司教に罷免が言い渡された。


 後任の選定なのか引き継ぎなのか、あるいは他に時間を要する事情か意図があったのかは計り知れないが、とにかく聖ドナティアロ教会、教会都市ミレイン、ひいてはミレイン教区を新たに統べる司教が姿を現したのは、前任の罷免から一週間が経ったときだった。


 一番広い第一礼拝堂で行われる就任式に、まだ謹慎の最中だったデュロンも出席させられた。

 並び順は適当だったが、左右をヒメキアとイリャヒに挟まれているので、始まるまでの雑談の相手に事欠かないのは幸いであった。

 気安さゆえか、デュロンはつい欠伸を漏らした。


「くぁふ……」

「疲れていますね。やはり外へ出ないと堪えますか?」

「そりゃな。なんつっても謹慎にかこつけて、勉強という名の拷問を受ける身分なんだ。ヒメキアと一緒じゃなかったら、初日で精神が干からびて死んでたぜ」

「あたしも、デュロンと一緒で楽しいよ! ……でも……」


 ほんわか笑っていたヒメキアのオーラが、下がる眉尻とともにしょぼくれる。

 彼女がなにを懸念しているのかは、デュロンにはよくわかっていた。


「ヒメキア、お前の猫たちはじきに検査が終わる。今日あたり帰ってくるんじゃねーかな? なんなら俺が式典の後、新任の司教猊下にガツンと言ってやるぜ。ガツンとな!」


 ヒメキアが翡翠の眼を見開き、オーラと眉尻がちょっとだけ上がった。


「ほんと? あたしのねこたち、元気にしてるか心配なんだー」

「ああ。どんな奴かは知らねーが、捕まえて直談判だ。そりゃもう……」


 そのとき、ちょうど説教壇に上がる影があった。羽毛を思わせるゆったりとしたシルエット。どこか幻想的なその存在を認識した途端、デュロンの啖呵は語尾が消え入った。


 長身の若い女性だ。やや跳ね癖のある長い青髪に、変則的な青い僧服を合わせ、澄んだ眼も同色。柔和に微笑み、優雅に一礼する。


 その彩りを眼にした時点で、一堂に会した歴戦の猛者たちが色めき立っていた。

 しかしそれも彼女の控えめな身振り一つで鎮められ、静かに響く声が堂内に浸透した。


「お初にお眼にかかります。プレヘレデ王国はゼファイル教区司教を務めておりました、アクエリカ・グランギニョルと申します。

 本日付けでミレイン教区司教、及び教皇聖下麾下の枢機卿の一人として、畏れ多くも拝命いたしました。

 土地勘もなくしばらくは不慣れかと存じますが、どうかお手柔らかにお願い申し上げます」


 彼女がもう一度お辞儀を見せると、誰からともなく拍手の渦が巻き起こる。


 次第にまばらになるその音が消える間際に紛れ、デュロンはイリャヒに尋ねた。


「なんか有名な人なのか? そういう雰囲気だが」


 簡単な就任演説を始めるアクエリカに視線を据えつつ、イリャヒはほとんど口を動かさず、デュロンにだけ聞き取れる音量で説明してくれる。


「ゼファイル教区といえば、あなたの故郷であるプレヘレデ王国の中でも、しがらみが強いと言われる古い土地ですね。馬車で数日離れたこの街にも、彼女の噂は音に聞こえていますよ。


 通称を〈青の聖女〉。これは生前列聖を受けた正式な呼称でもありますが……ただ清らかだというニュアンスでもなさそうですよ。


〈聖都〉ゾーラを擁し、教皇聖下の膝元であるプレヘレデの苛烈な教会内政争を勝ち抜き、司教座どころか枢機卿の座にまで、あのお若さでのし上がっておられるのですから。


 泉の精霊じみた……いや、実際近い存在なのかもしれませんが……お顔立ちは高貴、神秘、神々しきと種々の形容で讃えられますが、絶世の美貌を言い換えた点で共通していると言えるでしょう。


 つまりですね、見た目や表面上の物腰に騙されないようにということです」

「誰に言ってやがる。俺は人狼の中でも一際ビビリで繊細だ。悪意には超敏感なんだぜ」

「自慢なのか微妙ですが……まあ実際長所ではありますね」

「だろ? 俺ぐらいになると、もうこの距離からでも正確に……」


 ふとアクエリカと目が合い……デュロンは強烈な眩暈めまいに襲われた。


「……!?」


 深い青い眼に魅力でもされたように、視線を外すことができない。


 視界が歪み、頭と腹に痛みが生じて、その合流点で生理的爆発が起きた。


「ごぉぉおええええぇぇぇぁっ!!」


 すなわちデュロンは心因性の急性胃炎を起こし、耐えきれずその場で盛大に嘔吐したのだ。


 幸いにも直前で兆候を感じたイリャヒが固有魔術〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉を発動し、吐瀉物としゃぶつを出た端から完全焼却してくれたため、床に溢れたのは呻き声の残響だけで済んだ。


 先ほどとは別の意味でざわつく一堂の真ん中で、デュロンは口と胸を押さえてうずくまるしかない。


 ヒメキアが背中にそっと手を添えてくれるのを感じ、生じた温かみから少し楽になった。

 イリャヒが冷静に申し出る声を、実際より遠くに感じる。


「すみません。彼、体調が悪いようなので、二人付き添いに出てもいいでしょうか?」


 アクエリカは鷹揚に微笑んだ。


「ええ、構わなくてよ。お大事にね」

「ありがとうございます。ほらデュロン、行きますよ。ヒメキア、一緒に来てくださいね」

「うん! デュロン、安心して。あたしもいるからね」

「……わ、わりー……助かる……」


 イリャヒとヒメキアに両脇から支えてもらう形となり、なんとか半分は自分の足で歩いて、デュロンは礼拝堂を退出した。


 アクエリカがなにかやったわけではない。ただ、彼女はあまりにも……。


 とにかく、彼女が格別気にしていないにしても、最悪の第一印象を与える出会いであったことだけは疑いの余地がなかった。

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