第42話 おやすみヒメキア


 だがデュロンはウォルコの手を、やんわりと振り払った。

 ウォルコが本気でショックを受けた顔をしたので、デュロンは胸が痛んだ。


 真心が感じ取れるので、できれば無下にはしたくない。できれば、なのだが。

 そして断るにしても、本当なら言うべきことは他にあった。ウォルコを真摯に説得するための言葉を、デュロンはすでに持っていた。


 だが、この本音はまたいつか今度に持ち越し、下手すれば墓場まで持っていくことになるだろう。

 いずれにせよこの場では、デュロンは先ほどのウォルコと同じように、利と理を説くしかない。


「わりーな、どーも勘違いさせちまったみてーだ。ウォルコの旦那、アンタ教会の本気をナメてるぜ。実際に極限まで追い立てられたことがないからだろうな。だからそう呑気でいられる。


 いいか、結局は同じことなんだ。悪魔召喚の贄に生き血を使われた程度なら、まだギリギリ純粋な被害者で通る。

 だが悪魔の加護で〈産褥〉やら公国やらを強化し、ひとたびミレインに打撃を与えちまったら、ヒメキアも完全に前科者扱いになる。


 俺らみてーな労役刑ってレベルじゃねーぞ。うちの親や今のアンタと同じ、即刻処刑コースの最重要指名手配犯だ。かつての人間様よろしく、死ぬまで狩り立てられる。

 俺らが気づいちまうくらいだ、当然、上層部も不死鳥人ワーフェニックスの滅却方法くらい心得てるだろう。


 本当に、逃げ切れるのか? アンタの逸脱行為は、結局ヒメキアをこの世から旅立たせることになるんじゃねーか?

 アンタは本当にたった一人で、いわば世界の悪意そのものから、ヒメキアを守り切れるのか?」


「……それ、は……」

 希望を見ていたのだろうウォルコの浅葱色の眼が、徐々に曇り、現実という絶望に染まっていく。

 そんな顔を、デュロンだって見たくはなかった。まったく、説教など垂れていると気分が悪くなる。


 しかし残念ながら、最初から無理な計画だったのだ。いつ終わるとも知れぬ逃亡生活など、ヒメキアにとっては死とどちらかむごいか知れない。


「……っぁ、……」

 落胆を隠し切れないウォルコの様子がいたたまれず、デュロンはつい口を突いて言葉が出そうになるが、すんでのところで踏み止まる。危ない。


 この件を上手く収拾できるかどうかは、ジャゴビラ公国軍がミレインに攻め入るかどうかの契機になりかねない。

 またこの非常事態にウォルコのような異端と濃密に接触し、口車に乗せられて、裏切るのではないかという教会側の猜疑も、今この瞬間もデュロン自身招いていることだろう。


 ほぼ壊滅状態の上に証言が信憑性を持たない〈産褥〉はいいとして、公国や教会、その他体制側の各種共同体や組織が方法でこの場を監視・盗聴していたとしたら(というかほぼ100%そうだろうが)、不用意な発言や行動は禁物だ。

 というのは、〈猫の眼〉の件からもわかるように、基本どんな道具や能力も錬成・発現すればアリというなんでもありなのだ。


 遠隔で効く読心系とかいう理不尽の塊が存在しないことを祈るしかない。

 その上で、表に出さずに要求を示す必要がある。


 デュロンは殊更に偽悪的な笑みを浮かべて、いまだ手首から先のない両腕を伸ばし、ヒメキアを半ば強引に抱き寄せた。

「いーや、アンタには無理だね。悪いがヒメキアは俺が預かり受ける。

 そして、アンタもお縄だ。アンタの確保はヒメキアの保護よりが、生け捕りが望ましいはずだ。その小綺麗なツラは、さぞかし処刑台に似合うだろうぜ?」


 頭の回る男だ。ウォルコはすぐに、デュロンの言いたいことを察したようだった。


 公国に手を引かせ、教会に矛を収めさせ、ヒメキアを悲しませないという、夢のように絶妙の落としどころを実現させなければ、この件は解決とは言えない。

 ヒメキアを預かりウォルコを逃すというのが、デュロンが……正確にはデュロンたちが描いたシナリオだった。


しろがねのベナンダンテ〉のみでウォルコ一味を追い詰めたという事実は、逸る公国に対する一定の牽制となるだろう。

 教会が示した第一の必要条件であるヒメキアは当然連れ帰るとして、ウォルコを逃がした埋め合わせ分の交渉材料なら


 そしてなによりウォルコが元気で生きていてさえくれれば、ヒメキアといつか再会できる確率はゼロにはならない。

 ヒメキアもデュロンの意図を悟ったようで、譫言うわごとのように呼ぶ。


「……パ、パパ……?」


 ウォルコは寂しげに微笑み、一つ息を吸って、引き際の芝居を始めた。

 覚悟は決まったようだ。ならデュロンの方も、それに報いなければならない。


 デュロンはヒメキアを背に庇い、いつでも蹴りを繰り出せる姿勢で構える。


「仕方ない……デュロン、お前の言う通りだ。ここはいったん退くとしよう。ヒメキアを頼むよ」

「あ? 待て待て、なに言ってやがる? なんでここから逃げ切れるつもりで喋ってやがる? もう一発頭を蹴られなきゃわかんねーなら、そうしてやるぜ?」

「嫌だね。いいか、俺は必ずこの街に戻ってくる。そして何度でもお前たちの敵として立ちはだかるだろう」

「寝言は寝て言え。テメーの新居である、教会地下の独房でな!」

「それはますます御免こうむるね!!」


 ウォルコは残った力を振り絞り、獅子頭人ナラシンハの鉤爪を発現して、一文字に斬りつけた。

 演技でもなんでもなく回避できず、胸板に食らったデュロンは仰向けに倒れた。


「デュロン!?」


 もう本気で危うい段階の負傷なのだろう、こちらも演技抜きでヒメキアが叫んだ。

 足早に去りゆくウォルコの背中を呼び止めそうになるが、ぐっと堪えるデュロン。


 それでもその気配を読み取ったかのように、ウォルコが振り返った。

 ただし対面するのはデュロンではない。

 敏感に反応した、彼のたった一人の養女だ。


「俺のかわいい娘よ、少しの間だけお別れだ。

 俺は猫のように姿を消し、今度こそお前を迎えに来る。

 だからできれば、それまで待っていてくれ。

 情けないパパで、ごめんね。


 おやすみヒメキア。あったかくして寝なさい」


 彼はいつもと同じように優しい笑みを浮かべて、それが崩れる前にきびすを返した。

 ヒメキアがなにかを言おうとしたが、途中で声が詰まり、嗚咽おえつだけが漏れる。


 彼女の返事を聞けば、足が止まるだろう。

 ウォルコは二度は振り返らず、木立ちの中へ姿を消した。

 ヒメキアの腕がなにかを求めて、虚ろな闇を掻き抱く。


「パ、パ……行っちゃっ、た……」



 ヒメキアはしばらく放心していたが、デュロンの状態を思い出してくれたようで、慌てて覆い被さった。

 甘い匂いに包まれ、デュロンは実家に帰ったような安心感を得る。


「…………!」

 だが逆にヒメキアは瞠目し、翡翠ひすいの眼は色合いが変化したような気がした。


 ウォルコが姿を消し、事実上ヒメキアの保護を放棄したことで、彼女が新生したときの彼への刷り込みが、半ばその効力を失ったのだろう。

 あるいは、一部がデュロンに移譲された形かもしれない。


 それが証拠に、かはわからないが、ヒメキアは聖者の名でも呼ぶように口ずさんだ。

 幼い唇は月の光に照らされ、柔らかく濡れているのがわかる。


「デュロン……パパじゃなくて、デュロンの名前は、デュロン・ハザーク……」

「ヒメキア……? どうした? もう悪魔はいないぞ。おまじないは必要ないんだ。大丈夫だぞ」

「うん……わかるよ。デュロン……」


 これを憑き物が落ちたとか洗脳が解けたと呼ぶのはあまりに冷淡かつアンフェアだが、理不尽な指示による認識の塗り潰しという縛鎖は確かにあった。

 放たれたのはウォルコへの盲信と引き換えに封じ込められていた、たった二日間で醸成された、新しい親愛に他ならない。


「……デュロン! みんなは……ソネシエちゃんたちは、ぶじだよね?」

「ああ。ソネシエのやつ、お前を攫われてブチギレてたぞ。久々に見たわ、あいつのマジモード。同情するなら敵にしろ。みんなもうすぐ、ここに来るからな」

「そっか……よかった。よかったよ……」


 癒しの力は血に宿る。大まかに体液と言い換えても、そう間違いではない。

 不死鳥が涙を流せば、それが狼の傷を癒しただろう。


 しかし彼女は、この戦いで失っていたかもしれないものを想像したのか、少し震えただけで持ち直し、冷静に自分の肘の内側をナイフで傷つける。

 そのなんでもない品が彼の忘れ形見のようになってしまったな、と感傷に浸るデュロンの口へと滴る血を、そして優しい言葉を耳に、ヒメキアはそれぞれゆっくりと注いでくれた。


「デュロン、ありがとう。あたしのこと、助けに来てくれたんだね……」

「おいおい、ようやく気づいたのかよ。これに懲りたら、他所の猫に浮気するのは程々にしろよ。猫の悪魔なんか見に来なくたって、お前ん家の猫たちが帰りを待ってるんだからな」

「あたし、もう他のねこにうわきしないよ! ……あっ、あそこ! 木の上にねこがいる! こっち見てるよ! きっとあたしのことが好きなんだ!」

「二秒で破れてんじゃねーか!? なんだそのゆるふわな誓いは!?」


 こんなところまで似たもの義父娘おやこだ。ヒメキアはウォルコと同じように平常心を装い、いつものようににこにこ笑っている。

 しかしデュロンが再生しかけの両腕で寝転んだまま抱き寄せると、ヒメキアは素直にされるがままとなり、ほんの少しずつ本音を漏らしてくれた。


「パパ、行っちゃったね。あたしびっくりしてて、さよならも言えなかったよ……」


「……すまん、ヒメキア。俺にもっと力があれば、正しいのはウォルコの方だったんだ」


「ううん、そんなこと言わないで。デュロン、ものすっごく強いのに……デュロンはあたしのために、パパを倒して、くれた、のに……」


「ヒメキア、もういいんだ。我慢なんかしなくたっていい。お前は気を遣いすぎなんだ」


「う、うん。あたし……あたしね、パパが……パパがあたしにね、いろんなことをしてくれて……」


 その声が涙で上擦ったとき、ようやく形を取り戻した両の掌で、デュロンはヒメキアの頭を抱えた。

 ついに耐えきれなくなった様子で、ヒメキアが慟哭どうこくを吐き出した。


「パパ……パパ……! ずっと、ずっと一緒にいたかったのに……!」


 デュロンはただ彼女の頭を優しく撫で、背中をさすり、下手くそな相槌を打ち続けて、彼女が泣き止むのを待つことしかできなかった。

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