第38話 こちらミレイン、未曾有の混沌


 ところでミレイン市の〈猫の眼〉を一手に掌握しているのは、〈聖都〉ゾーラに在籍する、とある高位聖職者の高位吸血鬼だ。


「……ヒメキア」


 この任に就いて30年ほどになり、ミレイン在住の祓魔官エクソシストら、その中でも特に〈しろがねのベナンダンテ〉を監視してきたが、今回は未曾有の大騒動が起きている。


「呼んだか? 俺の名を」


 ちなみに街中だけでなく東の森にも一定数配置しているため、こうして今、1匹の〈猫〉が樹上から、デュロン・ハザークとウォルコ・ウィラプスの戦いを見守っている。


「……にゃーんつって! にゃははははは! ビビったビビった? この偉大な我が、依代に主導権握られたと思っちゃった? ざーんにゃん、我でしたー! ぷっふー! 俗物ビビってるー! にゃー今どんな気持ち? 我に教えて? にゃーってば!?」


 猫の悪魔ガミブレウはデュロンの乗っ取りに成功し、その声帯を使って本人の物真似をしただけだったようだ。それにしてもめちゃくちゃ喋っていてちょっとうるさいし煽りすぎだ。

 駆動への支障を考慮して悪魔が自前の回復魔術で治したようで、デュロンの肉体は完全修復されている。

 明らかな異常事態だが、遠地から干渉できるほどの権能は持たないため、〈監視者〉は顛末を見届けるしかない。


「デュロン、なの……? でも、中にねこが入ってるよね? デュロンなの? ねこなの? あたし、おまじないまちがえた……? パパ、どうしたらいいの!?」


 この少女は特異点である不死鳥人ワーフェニックスだ。今回の件のすべての発端と言える存在である。

 どうやら生体を霊的なレベルで見通す素質があるようで、混乱しつつもガミブレウの存在をしっかりと捕捉している。


 一方のウォルコは呆気に取られていたが、立ち直るまでが早かった。

 どうやら、自らが想定できない事態そのものを想定し、さらなる対応策を用意していたようだ。


「ヒメキア、もう一度だ! もう一度水盆に血を落とすんだ!」

「ま、また新しいねこを呼ぶの? かわいいの?」

「いや、。いいかヒメキア、出てきたら今度はデュロンの名前を呼んじゃ駄目だぞ。いくらあいつでも二体同時はさすがに即死コースだ、器にも容量ってものがある」

「よ、よくわかんないけどあたし、血を出すよ!」

「ああ、頼んだ!」


 水盆が再び不死鳥の血に染まるのを確認し、ウォルコは簡潔に唱えた。


「形象はいぬ、属性はほのお! 第十六の悪魔ドグレギトよ、我が元に〈顕出〉せよ!」


 水盆から漏れた黒い炎が迅速に実体化し、眼鏡をかけた巨大なダックスフントが現れた。体高はガミブレウと同じくらいだ。

 まったく、こうもホイホイと異界からの来訪者を招かれたのではたまらない。現に〈監視者〉自身、実物を見た経験はこれを含めて片手で足りる。

 ともあれ、またしても異界からの深遠なる声が響いた。


吾輩わがはいをお喚びかな? えーと、こういうときはあれだ。喚ばれて飛び出て……】

「いや今そういうのいいから! 端的に言う。依代は俺だ、憑依しろ!」

【ほう、体を貸して寄越すという申し出か? 話が早くて助かるな】

「こっちの台詞だよ! さあ、いいから早く!」


 憑依されて意識の深層に潜る寸前、ウォルコは放心状態の養女へ声をかけた。


「ヒメキア、危ないから隅っこでじっとしてなさい。〈結界石〉があるなら使ってもいい。それと、出血を止めるんだぞ?」

「は、はい! あたし、大人しくしてるね!」


 この間デュロンに入ったガミブレウはなにをしているのかと〈監視者〉が〈眼〉を向けると、慣らし運転なのか、周囲の適当な木に跳び移り、壮絶な勢いで登り降りしている。見た目は悪人面の少年なので、ちょっと不審というか怖いし気持ち悪い。


「にゃっふー! 久々の依代最高! ……あっ、これほんとに良いやつにゃん……すっごい動く!!」


〈猫〉の存在に気づいていないわけはないのだが、放置してくれているのだろう。その方が〈監視者〉としては助かる。


 ようやくガミブレウが地上へ戻ると、ウォルコが調出迎えた。

 肉体・精神ともに強靭な男なのは確かだが、悪魔の屈服は彼にとって前提条件なのだろう。


「……俺が落ち着くまで待っていてくれるとは、ずいぶん紳士的じゃないか」

「ああーん? レギトの愚物め、主導権を握られちまったにゃ? 情けない限りぞ」


 悪魔にも異界における交友関係があるようだが、〈監視者〉にもウォルコにも関係がない。


「……なんだ。待っててくれたわけじゃなかったのか」

「そういうことにゃが、まあいい、遊びの時間ぞ。なにやら主に北の方で小競り合いが起きとるようにゃが、こちとら小さな箱庭の情勢など知ったこっちゃにゃーい。

 ここに悪魔の入った魔族が二体いる。我らで殴り合った方が楽しいと思うんだがにゃあ?」

「なにを今さら。もとよりそのつもりで、この危険な札を切ってる」


 交戦という合意に至り、両者はじりじりと対峙した。

 悪魔憑依には時間制限があるが、だからといって痺れを切らし、下手な先手を打てば後手必殺は必定だ。

 タイミングを計るための会話が行われる。


「にゃあ俗物。この依代は我に乗っ取られるまで、どれほど抵抗したと思う?」

「そりゃまあ、デュロンのことだ。あのボロボロの状態でも、尋常じゃなかったことは……」

「いや、皆無ぞ」

「……マジか?」

「慌てず騒がず、我をその身に受け入れおった。よわい十六の赤子のくせに、感心ぞ……」


 合理的判断というよりは、単純に抵抗する余力が残っていなかったのだろう。


「最後ににゃんと言って意識の闇へ消えたと思う?『俺の体を好きに使え、ウォルコを無力化してくれりゃ』にゃって。……ん? 今なんでもいいって言った??

 まあほら、他ならぬ依代の頼みぞ? 聞いてやらんこともないが……にゃひひ。

 俗物を即刻殺す! そして取って返して、眼帯と木偶でく蜥蜴とかげと蝶々、剣士と牧羊犬、みなごろしにゃ!!」


 誰の味方も関係なく、近くに来ている者は全員玩具らしい。

 やはり悪魔はどこまでいっても悪魔なのだ。

 一縷いちるの望みを賭けたのかもしれないが、ハザーク姉弟の策は不成立か……?


「……ふん。うちの子は避けてくれるような言い草だし、看過してもいいんだが……」

「どうかにゃあ? それも我の気まぐれ次第あごがはぼがっ!!?」


 ガミブレウの様子が変わった。毒でも孕んだように苦しんでいる。

 いや、たかが純銀程度の猛毒なら、まだマシだったかもしれない。


「なぱ……! よ、依代っ!? 貴っ様、諦めて預けたんじゃなかったんぞにゃ!?」


〈猫の眼〉が……〈監視者〉の戦術眼が真相を看破した。

 デュロンはガミブレウに肉体を明け渡したのではない。本格的に戦闘が始まる頃合いを見計らい、また摩耗した肉体と精神の回復を待って、最高潮の状況と状態下で操縦桿を奪うべく、甘言を吹いて雌伏していただけだったのだ。

 そもそもウォルコに派手にやられてみせたことからして、罠でもあったのかもしれない。


「く、くそにゃろめが……! 考えてみればたかが銀箔一枚胃の腑に溶けた程度で、頭の悪さの結晶みたーにゃアホ筋肉種族の人狼の、スタミナが切れるとかいう見込みが甘すぎた、にゃ……ぎぎぎぐがあが! 駄目にゃ、我もう限界!」


「……悪いな。お前と違って、俺は紳士にはなれそうにないよ、ガミブレウ」


 精神世界での闘争・臨戦形態への変身・長い名乗りなどを待ってやるのは王道の悪役だけだ。

 ウォルコの固有魔術〈爆風刃傷ブラストリッパー〉が発動。内包する犬の悪魔の膨大な火の魔力を喰って、通常の彼ではありえない巨大な爆裂の刃を繰り出した。

 石畳が側溝のように抉れ、人狼の姿が掻き消える。


 砂埃が舞い散り、その中にデュロンの肉体が立っている。

 主導権の奪い合いは終わったようで、構える姿は泰然自若だ。

 今どちらが操縦桿を握っているかは、ヒメキアの眼でさえ見破れはしないだろう。

 現にウォルコも、苦笑を浮かべて尋ねる。


「ちっ、避けたか。

 ……おい、どうした? なんとか言えよ。

 どっちだ? デュロン、なのか?」


 だが、〈監視者〉は気づいた。ここ数日、デュロンの戦いをすべて目撃し、彼の啖呵を聞き届けたのは、ヒメキアと、ついでに毎度窃視と盗聴を働いてきた〈監視者〉の二人だけなのだ。


 人格は経験記憶と密接に結びついている。証明するには、本人たちにしかわからないことを口にすれば事足りる。


 はみんな眠っていて、〈監視者〉は鱗粉の効果範囲外にある屋上の〈眼〉を借りていた。

 そしては、溝鼠の通り道で待ち伏せする横穴を通して、一匹だけが暗渠の底にいた。


 つまりはこうだ。人狼はいつものように、虚勢の笑みを浮かべて吠えてみせた。


「おはよう旦那、また会えたな。

 ……さてウォルコ・ウィラプス、ここからが本番だぜ?」

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