第37話 三度唱えろ
「デュロン!」
ともすれば戯れているように見えた場面から一転、凄惨な流血を目撃したヒメキアが叫んでいる。
ウォルコは構わず、冷徹な刃を見舞った。
「ぐっお!」
「デュロン、お前には失望したよ」
人狼の右腕を刈り取り、同時に言葉の刃をも叩き込む。肉体と精神を併行で削る方針だ。
「ウウウ!」
「ここぞというときにやる奴だと思ってたのに」
両眼を一文字に切り裂かれ、転がる後輩。
銀の玉は無意味どころか、まったくの逆効果だったようだ。
狙いがあったとはいえ、最悪の弱点物質を取り込んだのはまずかったようで、デュロンは全身に妙な
基礎代謝の圧倒的な高さも、こういうときは考えものである。毒の巡りがあまりに早すぎる。
「ぬぐっ!」
「こんな下策に走るなんて、ただの自滅だよ」
闇に閉ざされた
ただし直後にデュロンが聞いたのは、希望の声と足音だったことだろう。
「パ、パパ、もうやめてよ! デュロンは悪くないよ! あたし、あたしが治すから」
「ヒメキア、やめなさい」
ウォルコが一言やんわり制しただけで、ヒメキアの歩みはぱたりと止まった。
その純粋さに心を痛めつつも、ウォルコは必要な嘘を紡いでゆく。
「その力はデュロンでなく、儀式場の水盆に向けるといい。そうすれば、かわいい猫の悪魔ガミブレウが元気になって、ヒメキアにお礼を言ってくれるよ。ちょっとでっかい猫だけど、びっくりしたら駄目だぞ。怖がったりしたら、ガミブレウがかわいそうだからな」
「ほ、ほんと? でも、デュロンが……」
「ガミブレウを復活させることができたら、デュロンはガミブレウが治してくれるよ。さあ、とにかく今は猫を救おう」
「……うん……ごめんなさい。パパがそう言うならあたし、ねこを……先に、治すよ……」
しょんぼり承服する彼女の頭を、ウォルコは優しく撫でる。本当に彼女は聞き分けが良くて助かる。
「よし、いい子だ。ヒメキア、お前の血の力は強力だからな。いつもはキラキラする回復魔術を使っているけれど、血を相手に直接飲ませると、もっと急速に癒せるんだよ」
「そうなの? あたし痛いのやだけど、ねこのためなら我慢するよ!」
「強い子だね。さあ、この綺麗なナイフを使うといい。自分でやるんだぞ。
お前は普通の再生能力がないから、切るのは肘の内側なんかがいいかな。曲げると陰になって、傷痕が目立たないからね」
「わかったよパパ。……でも、デュロンが治ったら、デュロンにもパパのシチューをあげてね。ソネシエちゃんたちにもだよ」
「オッケー、約束する」
治ればの話なので嘘は吐いていないと、ウォルコは自分に言い聞かせた。
それにしてもこのたった二日間で、ずいぶん優先度を肉薄されているな、とウォルコは若干危惧する。やはり同年代の仲間や友達というのは、良くも悪くも影響を与えやすいのだろう。
それでもやはり、たとえば絶対的な戦闘能力などでもない限り、覆ることはないのだと、それはそれでウォルコは確信を深めた。
なんの話かというと、おそらくそれが不死鳥人という種族が選んだ、いや、選ばざるを得なかった生存戦略なのだろう、という推測だ。
彼女は凄絶に弱い。残虐な魔族に敵として捕まったら、何百回と惨殺されかねない。
なので備える必要があった素養ばかりなのだ。
死んで甦り、最初に見た相手に刷り込みをかけられ、親として盲従してしまうことも。
バカバカしいほど簡単に騙され、絆されてしまうあまりにも素直な性根も。
幼く愛らしい顔立ちや、美しく珍しい髪や眼の色もそうだろう。
ここまで純粋だと、逆にある種の悪意の介在すら勘繰ってしまうほどだ。
と言いつつも、ウォルコはヒメキアを無条件に愛してやまない。
とはいえ、ものごとには優先順位というものがある。彼女の心を理解していても、ときにはそれを無視しなければならない。
「…………」
勝手に自爆して力尽き、獣化変貌まで解けたデュロンの体を、ウォルコは神殿から下の
いちおう後で治すという設定なので、切断した手足も一緒にだ。もはや断面を癒着するほどの再生力も残っていないので、問題はない。
直接殺すとヒメキアが錯乱して計画に支障が出る恐れがあるため、ちょうどいいので銀毒による衰弱で、このまま文字通り草葉の陰に退場してもらおうと思う。
そして仮に奇跡が起きて今立ち上がることができたとして、もはや手遅れである。
ヒメキアはデュロンの末路を見て驚愕した様子だったが、命じられた作業はやめない。……というより、習性のレベルでやめることができない。
彼女の肘の内側から垂れた尊い血は水盆に落ち、一定の量に達すると、それが蒸発するように、茫洋とした暗黒物質を吐き出し始める。
ウォルコは味も素っ気もない、ただ相手を指定するだけの文言を唱えた。
「形象は猫、属性は闇! 第三十三の悪魔ガミブレウよ、我が元に顕出せよ!」
暗黒物質が収束し、猫らしき形を取り始める。
いつだったかウォルコが資料で垣間見たのと同じ、胡乱な姿が顕出を果たす。
ガミブレウは尾が三又に分かれた、
後ろ足で歩き、異界から反響する高音を発する。
【にゃーっはっは! 良きかにゃ良きかにゃ! 我を呼び給うは、そこの栗毛の俗物ぞ? お前が術者だにゃ。
で、生贄はそちらの……ほう、これまたなんとも珍しい! 上物、いやさ特上物ぞ。期待するにゃー、否が応でも高まるにゃー!」
荘厳さはあまりなく、よく喋る。ひとまずウォルコは儀式の成功に満足した。
一番の接近遭遇を果たしたヒメキアはというと、口をぱかりと開けて見入っている。
普段の彼女なら、それがかわいいかどうか、本当に猫かどうかをまず論じただろう。
「さて、それで憑依対象は」
【うむ! 誰ぞ……】
「デュロン・ハザーク!」
突如、ウォルコとガミブレウを無視して、彼女はいきなり叫んだ。
「…………えっ? ちょ、ヒメキア……?」
ウォルコはとっさに理解が追いつかない。
なんらかの意図がある様子ではない。まるで死に際に恐怖を覚え、母親の名を連呼するように、ほとんど反射で出たかのような、必死の
しかも一回では済まず、聞き逃しや聞き間違いの余地すら許されない。
「デュロン・ハザーク! デュロ……もが!」
慌ててウォルコが口を押さえたが、もう遅い。
【良きかにゃ良きかにゃ、期待通りにゃ!】
すでになにかが決定した様子で、ガミブレウは小躍りしている。
ウォルコの顔が一気に青ざめた。まずい、なんだこれは。なぜこんな形で狂った?
ともかく彼は常にない懸命さで、よりによって悪魔に向かって懇願した。
「ま、待ってくれ!? 今のはナシだ!」
【ざ〜んにゃん、先約確定、お客様一名、罪の子デュロンをご案内にゃっふ〜ん。いえ〜い!
いや、まさか喚んでおいて、ルールを知らんわけでもあるまいに。
それともお前が我に、この生贄と依代以上のものを寄越すとでも? お前のような器も雫も中途半端な、小器用にまとまっただけの俗物がにゃ?】
器は肉体、雫は魔力の質を表しているのだろう。図星を突かれ、ウォルコは押し黙る。
悪魔の前で不用意に誰かの名前を呼ぶと、そいつに取り憑いてしまう。
かつ、悪魔がなにより好むのは、強靭な肉体を持つ依代だ。
片方だけならいざ知らず、両方の兼ね合いで先制されてしまうと、もはや覆りようがない。
ひよこの一声を侮った結果がこれだ。
【決まりにゃ、決まりにゃ! 憑依ぞ、憑依ぞ! 何十年ぶりかにゃあ〜? 長く
ムフフ……では、いざ!】
「ちょ、待っ……!」
ウォルコの抗議はついぞ聞き入れられず、悪魔は下草の闇の中へと下りていった。
事態が取り返しがつかないことを悟り、なにが起きたか、ウォルコはようやく輪郭が掴めてきた。
おそらく、オノリーヌあたりがヒメキアに入れ知恵したのだろう。ウォルコがヒメキアの、なにも命令されていないときの自由意志を軽視するだろうと正確に読まれ、そこに一点張りされていたのだ。
銀の玉という下策はウォルコの油断を誘うための道化の愚挙に過ぎず、デュロンがウォルコを邪魔できない無力状態まで追い込まれ、悪魔召喚の場に居合わせることが主眼だった。そこまで織り込んでの自滅だったのだ。
「……いや、待てよ……それでは辻褄が合わない」
銀は悪魔にとっても弱点物質のはずだ。悪魔が猛毒に侵された依代に、素直に入るとは思えない。むしろ弾かれて入れないはずだ。自前の回復魔術を行使したとしても、悪魔は銀を処理できない。なにか前提を錯覚させられている気がする……。
その疑問に答えを示すように下草から、ぺいっ、となにかが飛んできて、祭壇の石畳の上に転がった。
賦活したデュロンが、飲み込んでいたものを吐き出したのだ。慌てて確認するウォルコ。
「……これは」
色がずいぶんと鈍い。つまり……銀箔だ。
ほぼ無害な鉛かなにかの玉に薄く塗り込み、それが胃液で溶けて暴露したのだろう。これなら再生能力が自力で戻るには至らないが、少なくとも放っておいても死ぬことはほぼない。
捨て身の特攻自体が完全に「見せ用」の仕込みで、ウォルコを引っかけるためのスカスカのハッタリに過ぎなかったのだ。
結果、ウォルコは別にやらなくてもいいのに、自分で自分を決定的不利に追い込んだ。
ウォルコは鉛玉を思い切り踏み潰すしかない。
「くそっ……狼どもめ、やってくれる!」
過ぎたことはもういい。今は頭を切り替えるべきだ。
憑依への抵抗力は、そのまま肉体と精神の強さだ。今の心身ともにズタボロのデュロンでは、乗っ取られることを防ぐべくもない……はずだ。
だがもし仮に、制御して悪魔の力を引き出され、手がつけられなくなったら……?
「……ヒメキア」
そんな想像をしていたせいだろうか。
地の底から響くような低音を耳にし、ウォルコは思わず縮み上がった。
バカな。乗っ取り返したというのか? しかし彼なら、あるいは。
口で言うほど、ウォルコはこの後輩を舐めてはいない。いや、むしろ……。
「呼んだか? 俺の名を」
叢からゆっくりと体を起こした人狼は、猫の嗜虐を瞳に湛え、満面で笑んだ。
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