第35話 母親の名でも呼べばいい
「んじゃ、あと頼む。ギャディーヤの処理は任せた。あばよ!」
「と言いつつ、一歩も動けていないのですが。あなたすでに限界でしょう?」
デュロンは膝がプルプル震えるのが限界で、立っているのがやっとの状態だった。
疲弊は初めから織り込み済みだったが、思った以上ににっちもさっちもいかない。
先の交戦で判明したが、ウォルコの〈
そのあたりも理解しているイリャヒは、ため息とともに提案した。
「……仕方ない。秘蔵の霊薬をお披露目しましょう」
そう言って肩を組まれたので、デュロンは不気味に思って見返す。
眼帯の吸血鬼はニヤニヤ笑いつつ、赤い液体の入った小瓶を取り出した。
デュロンの理解を
「吸血鬼の血も再生の魔力を含んでおり、不死鳥人ほどではないにせよ他者回復の効果がある。知っているでしょう? さあ飲むのです、さあ早く、さあさあさあ! グイッと!」
「や、やめろ……! そんなことをして誰が得するってんだ……!?」
「勘違いしているようですが、それは私のではなく、ソネシエの血ですよ」
「なおのことこえーよ! いつ採取して、なんの目的で常備してんだよ!? お前それ飲んだら色々とアウトすぎるからな!?」
「うーんなにを言っているのかわかりませんね」
深く掘り下げると大火傷しそうなので、デュロンは仕方なく頂戴した。意外と普通に飲める。
「……そこそこ回復したのはいいが、俺もしかして今スゲー変態なんじゃ……?」
「ああー、うちの子が出したものを、どこの馬の骨とも知れぬチンピラが口にしている! これは由々しき事態ですよ」
「なにがしたいんだよ、どういう情緒なんだよそれは」
自分以上の変態がいるとなぜか安心する。ともかくイリャヒはヒラヒラと手を振った。
「ま、こういうときこそ気楽にやりなさい。もしどうしても怖くて怖くて漏らしそうなら、私を呼んでくれて構わないのですよ?」
「ぬかせ。テメーに縋るくらいなら、死んだ母親の名でも唱えた方が、多少なりとも
デュロンが軽口とともにイリャヒの腕を叩くと、その音が気付けになったようだ。
戦闘不能のギャディーヤの口だけが動き、しゃがれた濁声を搾り出した。
「……籠の鳥を救おうってんだァ……少なくともこの件に関して、俺らになんの非があるゥー……?」
儀式の生贄に捧げることが現世からの救いだというなら、そうなのだろう。少なくとも、彼らにとっては。
立場の違いは埋められず、言葉は振り払うしかない。
デュロンは構わず前へ進んだ。
この先を行くと、森の深奥に辿り着く。
木々が道を譲って森そのものが迎え入れるかのように、あってないような獣道の幅員が広がり、かつては辺境の人々がたむろしたであろう、祈りのための集会所が現れた。
神殿と呼ぶのもおこがましい、壁も天井もない吹きさらしの場所である。
ただ一段高く、石畳の床が大きな正方形に組まれているだけだ。
すでに悪魔召喚の、簡便な儀式場が完成していた。石床の中央には広いスペースが空き、奥に台座と水盆が詰められている。
その前には、生贄の乙女が一人佇む。
「デュロン!」
「ヒメキア! よかった、まだ無事だったか……」
「あたし、ぶじだよ!」
ふん! とできもしない力こぶを作ってみせる彼女は、おそらくここで言う無事の意味を知らない。
とうに気づいていたにもかかわらず、今さらながらかかる声があった。
「早かったじゃないか、デュロン」
彼女が無事かどうかは、本来なら悪魔召喚の儀式を完全に阻止し、この男を倒した後で論ずるべきことだった。
デュロンは例によって虚勢を張り、ヒメキアに注意を向けつつも答える。
「まるで俺が来るのがわかってたような口ぶりだな、ウォルコ・ウィラプス」
「妥当な線じゃないかと思ってな。別に時間は今じゃなくたっていいし、場所もここじゃなくたっていいんだから、あんまりヤバい奴が来てたら、俺は即トンズラしていたよ」
つまりデュロンが相手なら、仕切り直すなどの立ち回りは必要なく、正面から叩き潰せばいいだけの、楽な作業だということだ。
「ナメナメにナメきってくれて嬉しいね。踏み止まってくれたおかげで、アンタは俺の手柄になる。アンタに課せられる刑期を、俺たちのそれから引いてくれりゃいいんだが」
「大口叩くのは結構だが、せめて脚の震えは止めるべきじゃないか?」
言われ、デュロンが下を向くと、確かに膝が笑っていた。
ギャディーヤ戦のダメージはそこまで残っているわけではない。
ウォルコに眼を戻すと、その理由がわかった。
凛々しく、力強い立ち姿。憧れた強さ。
一対一の、訓練以外での初めての対峙。
「あ」
習慣として張った虚勢が、己の心理状態を覆い隠していたのだ。
心の底からビビり倒している。ヒメキアに顔向けできないくらいに。
「さて、それでは」
母親の名を唱える暇などなく、戦闘はすでに始まっていた。
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