第18話 甘い水
「ふう……あー、生き返るー……」
四肢の弛緩したデュロンは、茹った頭から益体もない声を垂れ流した。
警邏中の同僚たちによる検分を受け、尻拭いに来てくれたウォルコやベルエフにお礼を言い、ようやく帰寮した5人は揃って全身泥まみれ、地下特有の悪臭を放っていた。
またしても噂を耳にしたオノリーヌが玄関ロビーで待っていて、すぐに身を清めることを勧めてくれた。傷は全快だが疲労は溜まっているため、素直に従う。
人狼のスタミナは無尽蔵だとされるが、それはあくまで無傷のまま運動し続ける場合の話で、戦闘で消耗した場合はその限りでない。
寮の大浴場は石造りの湯船がいくつも併設され、色とりどりのお湯が湧いている。なんとなく体に良さそうという理由で、デュロンは緑色のお湯に浸かったのだった。
温かさが骨身に染み、自然と安堵の息が出る。しかし、厳密に言うとリラックスできてはいない。
『……、……?』
『………』
人狼は嗅覚ほどではないにせよ、聴覚もかなり鋭い。背中を預けた壁越しに、女湯での喋り声が反響し、微妙に聴こえてしまうのだ。
どのくらいかというと、もう少し集中すると聞き取れるどころか、反響定位で位置関係・姿勢・表情まで克明に、立体映像を脳内に投影できるレベルだ。さすがにまずい。
デュロンは邪念を払うために薬湯に全身を沈め、呼吸の限界で顔を上げて、犬のように頭を震わせる。
「元気そうでなによりだわ」
振り払った邪念が具現化したのかと思った。
隣の浴槽に浸かる、引き締まった、それでいて艶やかな肢体。
滑らかな肌を滑り落ちる湯の質感と、牡丹色の眼が持つ熱が、彼女を実在と確信させる。確認だがここは、間違いなく男湯だ。
「ッ、なん、だ、テメー……!?」
デュロンは思わず大声を上げかけたが、ギリギリのところで理性が踏み止める。
おそらくこの女、今ここへ入ってくるのに、なんの特殊能力も使っていない。今朝デュロンとヒメキアを軽く出し抜いたようにだ。
それを考えるとただ騒ぎにしたところで、いたずらに逃がすだけになる可能性が高い。
その判断を後追いするように女は悪戯めかして左眼を閉じ、立てた人差し指を口元に当てた。
「し〜っ……できるわね? いい子ね?」
完全に舐められているが、3度も取り逃がしているので仕方がない。
そして同時に湯船の縁から身を乗り出してきたので、その仕草で豊かな胸がぐっと強調された。
意志の力を総動員して引き剥がした視線を、その華やかな顔立ちに戻すデュロン。
閉じた眼の下に泣き黒子。薔薇色の髪を、今は頭のてっぺんで団子状にまとめている。
「かわいい反応ね。見かけによらず
その純粋な心を弄ぶかのように上体を引っ込め、湯船の縁に預けた腕に頭を乗せる女。
「なんでここにいる? どうしても俺の手で捕まりたくなったのか?」
「それは御免だけれど……今朝、言ったわね。また機会があったら、ゆっくりお話しさせてくださいって。もうわたしに悪意がないことは、自慢の
その通りではある。そして嗅覚がきちんと利くということは、催眠鱗粉を撒いていないという証拠でもある。
そしていくらなんでも
デュロンは理に絆され、利に徹することにした。
「……言っとくが、俺の心臓の繊細さナメんなよ。怪しい気配を感じたら即、キャーって叫ぶからな。仲間を呼ぶぞ。遠吠えですらねー、キャーだからな。聞きたいか? 聞きたくねーよな?」
「OK、了解したわ。ふふ……聞き分けのいい子は好きよ。このまま食べてしまいたい。実際あなた、結構わたしの好みな方よ。筋肉って最高よね。いい体してるわね……♫」
ねっとりと舌なめずりをする彼女に、制圧能力とはまた別種の恐怖を感じるデュロン。とりあえず取っ掛かりとして、わかるところから看破していく。
「百戦錬磨ぶってるがよ、齢はせいぜい俺より2つか3つ上なだけだろ?」
「人狼の
「悪かったな、アホで。おかげで今朝は見事にしてやられたぜ、
「自己紹介が遅れたわね。〈永久の産褥〉猫のガミブレウ派所属、レミレ・バヒューテよ。よその教派をウロウロしては、骨のある男性を見繕って
「自己申告の悪女ってなんなんだよ……で結局、なにしに来た?」
「悪足掻き」
言うなり勢いよく立ち上がり、惜しげもなく裸身を晒すレミレ。柔らかな腿が動いて、デュロンの方の湯船に移ってきた。人狼の心臓が早鐘を打ち、脳に浮遊感を得る。
その原因の一部が、散布され始めた催眠鱗粉の効果なのはわかる。デュロンは思い違いをしていた。撒かれた時点で判断力を奪われるため、「まだ撒いていない」という判断に意味はなかったのだ。
「ちょ、待っ……やめ……」
下級の魔物と違い、デュロンの体重では能力で洗脳操作されるには到底至らない。だが甘い匂いで眠くなり、濡れそぼった全裸の美女に密着されたのでは、ほとんど似たようなものだ。
「これが最後だから、聞かせて。ヒメキアを渡してくれる気はない?」
ねっとりとまとわりつき、猫撫で声で囁くレミレ。しかし昨日から何度か訊かれた上、答えのわかりきった質問ゆえ、デュロンはほぼ無意識で口が動く。
「しつ、こいぞ……何度言われても、同じだよ……渡す意味がわからん」
「でしょうね。では、もう1つだけ」
なんでもいいが早くしてほしい。そろそろ無条件に頷いてしまいそうだ。
「あなた、こちらへ来る気はない?」
……なにかと思えば、そんなことか。
意識の霧が一気に晴れる。デュロンが腕の一振りで払うと、レミレは湯船の中で転んだ。
「……悪い話じゃ、ないはずよ。特に、あなたのような者にとっては」
それができれば、最初から苦労していない。冷静を通り越し、デュロンの脳は充血した。
「ありがたい気遣いだが、同時に余計なお世話だぜ、姐さん。俺はもう10年も前に教会側に立ち、根を張っちまってる。俺が振るえるのはこっち側の道理と正義だけだ」
「……そう。なら仕方ないわね」
今度は静かに湯船から上がり、一度だけ振り返った横顔に、寂しげな笑みを残すレミレ。
迅速に立ち去る彼女を見送り、デュロンは深いため息を吐いた。
デュロンが服を着て脱衣所から出ると、ほかほかと湯気の出るひよこが佇んでいた。
ヒメキアだ。レミレとは間一髪で鉢合わせしなかったようで、デュロンは内心、ひやりとする。寮内だからといって油断しすぎている気がする。
いや、あるいはもう本当に狙う気をなくしており、素通りしたのかもしれない。
「デュロン! お風呂広くて、気持ちよかったね!」
「あ、ああ、そうだな。他の3人はどうした? 一緒じゃないのか?」
「あのね、オノとリュージュさんが謎の勝負を始めちゃったから、巻き込まれないようにって、ソネシエちゃんがあたしを逃がしてくれたんだー」
そう言ったヒメキアは眉尻が少しだけ下がっていて、寂しそうな匂いがした。
「そ、そうか。ヒメキア、喉渇いたろ。そこでちょっと休んでいこうぜ」
近くにある談話スペースに腰を下ろして、ミニテーブルに据え付けられた飲用の噴水にグラスを
「デュロン、今日もあたしを助けてくれて、ありがとうね」
「いやいや、昨日も今日も、助けてくれたのはお前だろ。つくづく俺は未熟だよ」
「ううん、デュロンすごく強いよ! ソネシエちゃんも、リュージュさんも……」
小さな喉がこくんと動き、つい漏らしたように言葉が出てくる。
「……あたしも、みんなみたいに強かったらなって思うよ。わーって戦ってやっつけて、役に立ちたいよ……」
確かに一連の襲撃はヒメキアを狙ったものだ。自分で退けられないことに責任を感じているのかもしれない。しかしそれは無用な心配なのだ。
「そう考える気持ちもわかるが……護衛対象の役目ってのは、守られることなんだ。
俺らにはその手の任務がよく舞い込んでくるからわかるんだが、一見楽に思えるそれが存外できねー『役立たず』ってのも多くてな。
ギャンギャン騒いだ挙げ句勝手に行動なんていう、困った奴らもけっこういるのさ」
不安そうに青ざめるヒメキアに、デュロンは優しく笑いかける。
「それに引きかえ、お前はどうよ。やりやすいことこの上ない。
それどころかみんなとすぐ仲良くなるし、一緒にいると楽しいし、優しいし、かわいいし……あ、いや、その、えーっとだな」
いつの間にかヒメキアの顔は真っ赤になり、はにかんでうつむいてしまっていた。
デュロンも顔が熱いのを自覚するが、うっかり全力で口説いてしまったからには、ここが格好のつけどころだと踏んだ。
親指で自分の胸を指し、精一杯の虚勢を張る。
「つまり……俺から離れんなよってことだ」
ヒメキアの表情が目に見えて、驚きから喜びへと変化した。
「うん! 明日も、お願いね!」
本来なら無償での護衛など割に合わない。
だがこの笑みを見られるなら、報酬としては十分だと、デュロンは思った。
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