第8話 霧中の退却
闇、静寂。全身のぬめった不快感。
やがてそれさえ消え、心地よい落下感。
夢見心地のデュロンを現実に引き戻したのは、ガラスの粒のような光の幻影だった。
「お……?」
一瞬の午睡から浮上したデュロンは、柔らかな魔力の波動が背後から伸びていることを知覚し、そこに立っているのがヒメキアだと理解した。
なぜ彼女自身は昏倒を回避できたのか? 光の効果は、能力は、種族は?
デュロンはそういった疑問を後回しにし、まずは現状の打開を図る。
といっても、それ自体は簡単だ。
「ふん!」
裂帛の気合いとともに全身の筋肉を膨張させ、川から上がった犬のように身震いを1つ。
それだけで大半の
人狼は不敵に眼光を据え、狙いを定めるように右手を
「おはよう
女が冷汗とともに浮かべた苦笑は自嘲、諦念、そして被虐趣味のそれに似ていた。
デュロンは右手を伸ばし、喉元を掴みに行った。女は反って逃れようとするが、視線を集めた死角で、デュロンの左拳が女の腹に
「ぐっ……!」
血を吐きつつも執念で繰り出される右手の白魚のような指たちが、デュロンの眼を潰しに襲った。
デュロンは嫌って斜め後ろに避け、軸足を入れ替えて中段横蹴り。
背に生えた
薔薇色の髪と白い肌に鮮血を散らし、虚勢を張るその姿は、なんとも美しい。
「……女の腹を狙うとは、なんとも粗暴なオオカミさんね」
「そうか、悪かった。次から顔から胸か股間を蹴るとしよう」
と、デュロンの方も
格闘の最中も催眠鱗粉の散布は続いており、むしろ暴れて派手に飛び散ったくらいだ。
先程はヒメキアのおかげで立ち直れたが、これではいたちごっこに終始する。
……そのとき、不意に眠気が止まった。デュロンは敵から目線を切らず、背後へと話しかける。
「ようやく効いてきたみてーだな」
「しかり。眠っている自分に働かせるという、不労者を目指すわたしの奥義である」
リュージュの固有能力である
催眠鱗粉を食らい、睡魔に勝てないと悟った彼女は、ただ口を開けて寝た。
彼女の睡眠中も深緑の芳香は肺から勝手に吐き出され続け、やがて大気中で支配領域を拡大し始め、匂いは鱗粉の甘さに紛れて、誰にも気づかれないまま土中へと到達する。
石畳で舗装される前の地面で化石化した植物の種子たちを強制的に喚起し、即席の生体兵器として動員。叩き起こされた普通の
その蔓先をちょんとつつき、リュージュは獰猛に笑む。戦闘民族の
「さて、わたしの子供たちが根を張っている間に、この女を畳んでしまおうか」
道のど真ん中を緑のお化けが占拠したことで、植物の空気清浄作用がこの一定空間内を席巻し、今しばらく催眠鱗粉を無効化とまではいかないまでも、拮抗し押し留める役目を果たす。
苦々しげに歪む女の顔に、極彩色の飛沫が叩きつけられた。
これには彼女も狼狽露わに、投擲の方向を呆然と見やる。
「な、なにを……わぷっ!」
応えるのはさらなる粘液の塊。すなわち
なにがそんなに癪に触ったのか知らないが、ソネシエの仕業だった。
振り払った哀れなドロドロたち、その最後の数匹分を固有魔術でまとめて凍らせ、氷の剣を精製するというえげつないことをやっている。
涙目の浮かぶ刃同士を研ぎ合わせるギョリンギョリンという耳障りな音が鳴った。
「…………」
ゆっくりと歩み寄る彼女は、デュロンとリュージュの隣に並ぶ。ひたすら無言なのが怖い。吸血鬼の本気の証に、黒曜の瞳が
「万事休すってとこだな、姐さんよー」
形成逆転。じりじりと追い詰められる女は、急に胸の谷間を見せてきた。
……というのは錯覚で、懐に手を入れ、なにかを取り出し、放ったのだ。
しまった、と思った瞬間、デュロンの体は動いていた。
最初の数歩をダッシュで後退。あとはもう形振り構わず振り返り、疾走する。
巨大な植物の側に佇んでいるびっくり顔のヒメキアを視認するも束の間、紫の濃霧が視界一帯を覆う。
デュロンは直前の記憶だけを頼りにヒメキアに抱きつき、組み敷いて、彼女の体と口を庇った。
蝶女の散布する催眠鱗粉は、純粋な生体物質だ。魔術や息吹のようにその場限りの現象を発生させているわけではないため、精製したものを即座に使用する必要はない。
つまり適当な容器で貯蔵したり、圧縮団子を作って投げつけたりできるということだ。
切り札だけあって濃度が桁違いだ。先程は数十秒耐えたデュロンも、今度は数秒で落ちる。
……しばらく後。
眠っている間誰かに蹴られていた感覚はあるが、腕の中のヒメキアのゆくもりは変わらない。
ようやく睡魔が過ぎ去り、どよめきが耳に入り、完全に目が覚めた。
どうやら蝶女は諦めて退却してくれたようだ。周囲では眠っていた市民たちが起き出す気配がある。
「デュロン……いつまでそうしているつもりなの」
頭上から降ってきた冷たい声を振り仰ぐと、ソネシエの氷の視線があった。首の向きを戻すと、デュロンはようやく自分の現状に思い至った。
悪人面で筋肉質の金髪男が、小柄で華奢な少女を押し倒し、のしかかっている。
そればかりか、右手で口を塞いで、左手を腰に回し、股間をロングスカートの
どう考えてもアレだ。アレをやらかすときの姿勢にしか見えない。
人狼の鋭敏な聴覚が聞きたくもないのに、野次馬の呟きを勝手に拾ってくる。
「うわ、あれって……」「まだそんな時間ではないんじゃ……」「いやそういう問題でも……」「ていうかあれ
言いたい放題にもほどがある。加えて仲間たちも呆れ顔で、容赦なく事実を指摘した。
「最後の一手は煙幕が主眼だった模様。あの女はヒメキアを諦め、一目散に逃げていった。あなたを蹴っていたのはわたしとリュージュ」
「なんというか関係各位に対し責任を取るべきであるな、デュロン」
返す言葉もない。デュロンはゆっくりと立ち上がり、改めて周囲を見回した。
女を壁に叩きつけた民家から老婆が出てきて、ありがたいお説教を始める。
育ちすぎた巨大な
ソネシエが作り投げた気持ち悪いスライムソードは石畳の隙間に突き刺さり、無意味に不穏な輝きを放っている。
たった1回、1人きりによる襲撃を凌ぐだけでこのザマなのだ。先が思いやられる。
へへ、と無邪気に笑うヒメキアだけが、デュロンの味方だった。
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