第7話 蝶々と泥濘


 引き締まった腰を蠱惑的に揺らし、その女はゆっくりと近づいてくる。


 ウェーブのかかった薔薇色の髪を両側頭部で束ね、真紅のドレスに身を包んでいる。

 背丈はヒメキアやソネシエとそう変わらない。


 牡丹色ぼたんいろの双眸は蝶を模した、目元だけを隠すマスクの隙間から、デュロンたちを覗いている。

 顔見知りが相手なら大した意味もない、変装というよりは仮装用の代物だ。


 顔見知りではない。しかしデュロンは、彼女を最近どこかで見かけた気がした。

 体臭を記憶から検索しようとしたが……女自身の体臭とはまた別の、このやけに甘ったるい匂いが邪魔をして、できない。


 ぱたり、と異音。


 彼女とすれ違うたび、まばらな通行者が残らず倒れていく。

 窓や曲がり角の向こうから顔を出しただけの者ですら、一嗅ぎ二嗅ぎでノックアウトされている。


 だが気絶しているわけでも、まして死んでいるわけでもない。眠っているだけだ。


 数歩前に出たデュロンと対峙し、女は足を止め、しゃなりと髪を掻き上げて口を開いた。

 蜂蜜を含んだような、匂いと同じく甘ったるい声色だ。


「いい夕暮れね。午睡と呼ぶには少し遅い時間だけれど、あなたもいかがかしら?」

「お断りだと言いたいところだが……正直俺も今、相当


 普通に呼吸していたのがまずかったかもしれない。徐々に思考にもやがかかり、集中力が落ちつつあるのを、デュロンは自覚する。


 雪山での遭難時と同じで、停滞したら終わりだ。とにかく喋り続けるデュロン。


ねえさんよー、気合いの入ってるとこ悪いんだが、祝祭は明日からだし、教会の方針で仮装仮面の行列の類はやってねーんだ。あと誘拐犯もお呼びでない。帰ってくんねーかなー」


 女は誘拐犯の誹りを否定せず、無感情なアルカイックスマイルを崩さない。

「そうもいかないわ。知らないのでしょう? その子が……ヒメキアが何者なのかを」


 どさり、とデュロンの背後で崩れ落ちる音と気配。位置から言ってヒメキアではなくソネシエだ。ヤバい。無理にでも早めに決着をつけるしかない。


「ああ、知らんね。だがそれが彼女を、謎のエロいお姉さんに預ける理由にはよー……ならねーんだなこれが!」


 人狼を始めとする獣人族の能力の1つに、獣化じゅうか変貌がある。

 肉体組成を組み替え、魔族としての正体を現すのだが、純粋な生体機能に数えられる。


 こうした魔力を用いない生身の制御能力を、総じて肉体活性、または生体活性と呼ぶ。

 ほとんどの魔族は再生能力をも、この肉体活性によって行っている。


 そして全身一律のみならず、局所的に弄る部分変貌も可能とする。

 右腕だけを即座に変貌し、鉤爪による横薙ぎの一撃を放つデュロンだが、繰り出した瞬間、自分で「あ、これ無理だな」と直感してしまった。


 案の定、女の催眠能力で著しく動きが鈍っており、細腕に軽くあしらわれる人狼。


「……クソ……!」

 二撃、三撃と続けるも同様だ。女の膂力りょりょくは見た目通りだが、受け捌きの技術は相当なものだ。


 普段なら力で押し切ることも容易だったろうに、あいにく今のデュロンはヘロヘロの千鳥足。赤子の手を捻るように綺麗な足払いをかけられ、無様に腰を抜かす。いよいよ立てない、このまま眠りたい。


「ほらほら、頑張って。あんよが上手、あんよが上手♬」


 牡丹色の眼が放つ嗜虐的な視線にすら、なんだか快感のようなものを覚えてきた。だいぶ末期だ。


 リュージュに援護を頼みたいが、彼女を攻撃に回せばヒメキアの守りがガラ空きになる。

 それにたった今、リュージュが睡魔に負ける気配がした。これで護衛戦線は孤立無援だ。


 おそらく相手の能力は魔術ではなく純粋な生体物質だ。ゆえに肉体活性の強度か、あるいは体重の昇順で倒れていっている……気が、する……。


 気付きつけのために思い切り舌を噛んでいるのだが、意識の靄は一向に晴れない。

 それでもなんとかグロッキー状態で立ち上がるデュロンを女の冷たい拍手が迎えた。


「よく耐えたわね。予想以上だわ。でも残念、時間切れよ」

「……お?」


 足元に違和感を覚え、デュロンは下りそうになるまぶたで視線を落とす。


 泥濘スライムだった。

 色とりどりで曖昧な眼と口しか感覚器官のない、半液状の不定形生物。


 デュロンたちもよく訓練で入る、ミレインの東の森などにめちゃくちゃな数がどこからともなく現れる。

 小鬼ゴブリン邪魔インプ宝石獣カーバンクル一角兎アルミラージなどと同列の、代表的な下級の魔物である。


 その泥濘スライムが寄ってたかってへばりつき、デュロンの動きを封じようとしているのだ。


「ちょ、ま……」

 通常状態の彼なら一蹴できるが、寝落ち寸前の鈍重極まる体では、奴らの意外な粘性を貫けない。

 水嵩を増すように、あっという間に膝、腹、胸の高さまでを覆われる。


 そしてついに女の放つ生体物質の霧が、可視化される濃度に到達した。

 やけに毒々しい、紫色の鱗粉だ。女の背中から顕現した、蝶のようなはねから舞っている。


 いわば催眠鱗粉だ。一定以上の体重の動物に抗いがたい眠気を与え、一定以下の体重の動物にはさらなる意識の深層に働きかけて、その行動をある程度操れるというものだろうか。


「ほーら、お眠の時間よー。いい子でねんねしましょうねー」

「るせ……テメ……ふざ……!」


 正直、ナメていた。強力な攻撃魔術なら様々な属性・系統のものに耐えてきたデュロンだが、まさか今さらこんな搦め手を効かされるとは思わなかったのだ。

 瞬間火力が高いということは、裏を返せばその一瞬だけ耐えればいい。だからこうして遠回しに真綿で締めるような戦法を選択したのだろう。


 わかったところでもう遅い。泥濘スライムの群体はすでにデュロンの顔までを網羅し、振り向くことすらできない。

 他の3人、特にヒメキアの状況を確認したいが、彼自身が窒息死しつつある。


 落ちたら終わる、寝たら死ぬ。体が完全に言うことを聞かない。

「ヤバ……眠ッ、た、い……!」

 落ちる直前にデュロンが見たのは、蝶形仮面パピヨンマスクの女の、左眼の下の泣き黒子だった。


「おやすみ坊や、永遠に」


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