4.『殺人』怪盗ミストヴァルト?
「……で?」
今日は朝焼けがよく見えた。通り過ぎて行った光に目を凝らしてから、アーサーはゆっくりと振り返った。
夜の残滓は、カフェ『霧の森』の店内で淀みきった空気に変わっていた。窓から差し込む光さえ、カウンターには届かない。ジトっとした視線を向けつつ、アーサーはため息を一つこぼす。
すると、カウンターに顎を乗せたまま動かない大人の背中が『びくり』と震えた。
「……で?」
アーサーは繰り返す。問いかけるたび、オレンジ髪の怪盗店主の背中が震える。答えたくない。無言の抵抗はしかし、アーサーが足を踏み鳴らすことによって終わりを告げた。
「いやあ、だからあれはだね? ありえない妄想の産物というか。何をおっしゃっているのかわからないが、ミストヴァルトがそんなことするはずないデスヨネ! うはははは!」
「意味が全くわからない。言い訳ならいっぺん死んでからにしろこのへぼ怪盗!」
笑みの形に口角を釣り上げても、到底笑えもしない。アーサーは腕組みして、長いため息をつく。この面倒な現実を変えられるなら、大抵のことはできそうな気がする。
何度目かの嘆息が響いたあと、アルはのろのろと身を起こす。カウンターに肩ひじをついた怪盗は、目を細めながら笑う。
「アーサー、まるでジャック君のような人格が変わっているよ」
「どうでもいいだろそんなの! 一体どういうことだよ! こ・れ・は!」
――アンセル伯爵、殺害される!? 容疑者は怪盗ミストヴァルト!
振り返りざまに、アーサーは新聞に指を突き付ける。今朝がた配布された号外には、殺人事件の容疑者として、怪盗ミストヴァルトの名が躍っている。
あまりにもセンセーショナルな見出しに、今朝の新聞売り場はたいそうな賑わいだった。なんとか新聞を手に入れてきたものの、アーサーの目から見ても今日の状況は異様に感じられた。
「あんた、アンセル伯爵に何したんだよ!?」
殺人怪盗――誰が言い出したのか、そんな単語が周囲でささやかれていた。
まだ容疑は疑惑の段階であり、アンセル伯爵を誰が殺したのかはっきりしていない。しかし、タイミング的に一番のクロは怪盗ミストヴァルトであることは確かな事実である。
新聞はそう報じていた。ミストヴァルト自体が正体不明な存在の泥棒である以上、疑われるのはやむなしといえる。けれど、実物を知るアーサーとしては、ミストヴァルトと殺人がどうやっても結びつかない。
ゆえに冒頭に戻り、アーサーは怪盗ことアルセウス・D・クロウサーを問い詰めていたわけだ。だが、当のアルといえば、遠い目でため息をつくばかりだった。
「怪盗の約定。ひとつ、怪盗はどんな状況であろうと人を傷つけてはならない」
「だったら」
「はずなんだけどねぇ。どうしてこうなったか」
煮え切らない言葉とともに、アルは大きく伸びをした。やっていない。その一言だけでアーサーは納得するのに、どうしてアルはそれをしないのだろう?
夜。アーサーが途中で離脱したあと、何があったというのか。
「まさか、本当に殺したのか」
「……違う。ただその一言で信じてくれるかい?」
アルセウスの茶色の瞳は、いつもと変わらず明るく輝いている。この人はいつだってそうだ。本心の多くは語らないくせに、この瞳だけはどの言葉より真実を語っていた。
信じる。信じない。そんなどうでもいい言葉よりも、アーサーは自分の思いに従って行動した。
アルの背を軽く叩いて、にやりと笑みを一つ。それだけでアルの表情はぱっと輝いた。
「愚問だ。怪盗ミストヴァルト」
「うん、ありがとう。さすが子猫の少年探偵。目の付け所が違う」
「子猫言うな!」
アーサーが手を振り上げても、対象はすでにカウンターから逃げ出していた。
腕を組みなおしながら、アーサーは頭の中を整理し始める。昨夜の出来事は、怪盗としても異常事態だったはずだ。
ミストヴァルトが殺人を犯すはずがない。その前提が間違いだとは思わない。ただ、それだけで真実が現れるわけもなかった。
殺人事件の犯人は『ミストヴァルト』以外。だとしたら、アンセル伯爵を殺したのはだれなのか。
アーサーは視線で問いかける。少なくとも、ミストヴァルトだけしか知らない情報があるはずだった。
アルの瞳は、静かに宙を見つめていた。まるでそこに答えがあるとでもいうかのように。しばしの沈黙ののち、怪盗はゆっくりと口を開いた。
「僕は……ミストヴァルトは、アンセル伯爵を殺していない。けれど多分、というか、確実にそのきっかけを作ったのは……他ならぬミストヴァルトだ」
「どういうことだ? もしかして殺した人物を知って――」
途端、ドアベルの音が響いた。アーサーは弾かれたように扉を見る。
「なんだ、珍しく静かだな」
長身の男が、何のためらいもなく踏み込んでくる。短い金髪をぼさぼさにして、青い瞳を死体のように濁らせたその人物の姿に、アーサーは嫌な予感を募らせる。
まさか、アルを捕まえに――? 考えすぎだとは思いながらも、アーサーは視線をさまよわせた。
どん、と。いつも通りカウンターの前に腰かけたジャックは、軽く手を振って見せる。
「どうしたんだよ。ついにこの店が潰れるときが来たのか」
「何を言うか。店の経営は順調さ。というか、ジャック・エリオット警部補。君こそ今にも死にそうじゃないか」
何でもない風で言葉を返したアルは、軽く片目をつぶって見せる。安心しろ、とでも言っているのか。
アーサーは普段通り、テーブル拭きを始める。変わらないルーティンをこなしていると、ざわめいていた心が落ち着いた。
「ふん。そう簡単に死ねますかってんだ。お前こそ、目が充血してるじゃねえか。なんだよ、柄にもなく徹夜か?」
「だとしたらかなり有意義なんだけどねぇ。現実はもっと残酷さ」
適当に言葉を濁して、アルはサイフォンを手に取る。何となく言葉が続かなかったのか、ジャックもそれ以上は追及しない。
「アーサー」
代わりに、ジャックはこちらに声をかけてきた。何事か。アーサーが首をかしげると、ジャックは疲れたような笑みを浮かべた。
「新聞を持ってきてくれ」
「いいけど。ジャックさんが知りたいような情報はないと思うよ」
「知ってる。胸糞悪いことにな。俺が知りたいのは別のことだ」
アーサーは瞬きを繰り返す。どういうことだろう? 疑問を問いかけるより先に、ジャックは静かに首を振って見せた。
「怪盗ミストヴァルトが犯人とされる殺人事件について。お前たちの意見を聞きたい。アーサー、それに……特にアルセウス。お前にもな」
ジャックの発した言葉に、アーサーだけでなくアルも目を見開いた。
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