3.事件の夜に

 真白の月光が、窓から静かに降り注いでいる。

 外の騒がしさとは裏腹に、人気のない廊下は静まり返っている。かつりと、わずかばかりの靴音さえも、ひどく明瞭に響き渡るほどだった。


 そっと窓枠を乗り越え、黒い影は廊下へと降り立つ。誰の気配もない。周囲を軽く警戒しつつも、わずかな違和感に『怪盗』は首を傾げた。


「……ふむ……?」


 かすかに、空気が揺らいでいる。本当に少しばかりの違和感だった。しかし、ミストヴァルトの口元は微妙にゆがんだ。


 ――何かがおかしい、などという感覚ではないね?


 黒いシルクハットのつばに手をかけ、ミストヴァルトはゆっくりと廊下を歩みだす。毛足の長いじゅうたんは、足音を殺すには好都合だった。


 アンセル伯爵邸宅を緩やかに歩みながら、怪盗は小さく息を吐き出す。それだけで違和感が遠ざかれば良い。だが、現実はそこまで甘くはなかった。


 美術狂として知られるアンセル伯爵の邸宅内は、ただの廊下でさえも一流の美術品が並ぶ。有名なミシュトヴァーン派の絵画が飾られていたかと思えば、近代絵画の巨匠の作とわかる抽象画が並んでいる。


 統一感のない飾り方に、さすがのミストヴァルトも困惑を表す。備え付けられた白磁の花瓶すらも一級品であるにも関わらず、咲いている白薔薇は色あせている。


 美しいが、どこかいびつな館。そんな印象を抱きながらも、怪盗は迷うことなくある場所を目指していく。


「さてさて、ジャック君は完全に閉め出しを食らったようだね……」


 影に溶け込むように歩みながら、怪盗は嘆息を漏らした。泥棒の本分からすると、警察官たちが存在しない状況は非常に好ましかった。ただ、ミストヴァルトという存在からすると、単純に喜ばしいとも言えない。


「ひとつ、ミストヴァルトは午後11時から12時までの間に対象を盗み、時間内は警察との攻防に力を尽くすこと……」


 何気なく暗唱して、ミストヴァルトは肩をすくめた。まだ時刻は十一時を少し回ったくらい。さほど時間は流れていなかった。


 もし簡単に対象を盗めたとしても、ミストヴァルトの制約のせいですぐには逃げ出せない。


 ――そんなこと無視してしまえばいいだって? いやいや、それができるくらいなら、ミストヴァルトがここにいる必要もないわけで――。


 幾度となく繰り返された怪盗と警察の戦いは、今回で何回目か。追う者と追われる者。何度やりあったとしても、関係性は百五十年前から変わっていない。


 最初の怪盗と、始まりの警察官。二人が始めた争いは、何代を経てもいまだ決着がついていない。とはいえ、決着がつくときは、ミストヴァルトが捕まるときだろうが――。


「そんな日が来るのだろうかね? ジャックを見ていると、永遠に訪れない気がするのはなぜだろう」


 大袈裟に手足を振りかぶり、怪盗は黒マントをなびかせた。目の前には一枚の豪奢な扉がある。どうやら目的地はここらしい。


 何でもない風に手をかけようとして、ミストヴァルトは首をかしげる。違和感。どこからか鉄錆くさいにおいが漂ってきていた。


「はてさて、先に進むべきか否か? 信念と約束を曲げることはできないが、明らかに面倒ごとの気配がするのに、進むのは墓穴ではないかね?」


 ぐるりとその場で一回転して、ミストヴァルトは再び扉を見つめる。


 なんの変哲もない、というには豪華すぎる扉だった。その先に待ち受けているものが、ただの『面倒ごと』であればよいのだが。


 再び一回転。瞬間、怪盗は動きを止めた。ガラスを砕くような儚い音が、周囲に響き渡る。明らかに異様な、けれどうつくしい『音』に耳を澄まし、怪盗は静かに笑みを作った。


「なるほど、どうやら逃げ道はないらしい。ならば、先に進むしか無かろう?」


 不可解な状況に、ミストヴァルトは扉に手を伸ばす。ノブは簡単に動いた。この段階に至っても、この部屋の主は警戒を怠っていたのだろうか。


 息をのむ。などということはしなかった。ただ、目の前に広がっていた色彩に、ミストヴァルトはどこか間抜けな声を漏らしていた。


「――おおっ?」


 ◆


「ミストヴァルト! 今度は逃がすか!」

「お待ちください! この先は旦那様の私室になります! これ以上は……!」


 音に踊らされた。文字通りの展開に、ジャックは奥歯をかみしめる。


 音をたどっても、怪盗の姿はどこにもなかった。そもそもそれ自体が陽動だったと気付き、伝えに来た警官こそがミストヴァルト――! その事実に勘づいたところで、かなりの時間が経過していた。


 ミストヴァルトは12時まで逃げない。しかし、それで安心できる状況ではなかった。焦りとともにジャックは屋敷に突撃し、当然ながら使用人に阻まれる。


 使用人を蹴散らしながら、ジャックは邸内図を思い起こす。メイアーナからの情報によれば、“魂の長針”があるのは二階の当主私室のはずだ。


 迷うことなく走り抜ける警部補に、並走する部下たちが呟きをこぼす。


「警部補殿は、いつもながらに無鉄砲でありますな」

「あれは無鉄砲って言うより、ただの暴走列車だねぇ。ブレーキがないっていうか」


 エゼルとワイマールに愚痴られながらも、ジャックはまっすぐに廊下を駆け抜けていく。目的の私室まではあと少し。しかし目の前を遮る人影に、ジャックは勢いよく停止した。


「お待ちください。これより先は当主の私室。土足で踏み荒らさないでいただきたい」


 執事が両手を広げて道を遮っていた。絶対に通さない。言葉以上に強い意志が込められた瞳が、ジャックをにらみつけている。


 ジャックは息を整えることもなく、道を遮る執事に指を突き付けた。緊急事態。それがわからないわけもないだろうに――。


「執事殿、これは緊急事態です。ご理解ください」

「なにが緊急事態なものですか。これは、そちらの不手際の結果でしょう。なぜそんなものに旦那様を巻き込まねばならないのですか」

「しかし、現にミストヴァルトはここに来ているはず。せめて安全の確認だけでも」

「いいえ、なりません。すぐにお引き取りを。でなければ」


 どうするというのか。ジャックの脳裏に嫌な想像がよぎった。うまく切り返せればいいのだが、そんな芸当ができるくらいなら、こんなところで問答はしていない。


 目の前の執事さえ越えれば、目的の場所はすぐそこなのだ。目の前に立つ執事に。ジャックは強い視線を向けた。これは最後の手段。禁じ手だ――。


「あっ! ミストヴァルト!」

「はっ?」


 あまりの唐突さに、執事は思わずといった感じであらぬ方向を見る。ジャックは素早く床をけると、一気に傍らを駆け抜けていく。


「よし!」

「な、待ちなさい!」


 馬鹿らしい手口にも程がある。まさか警察官がそんなことをするとは思わなかったのだろう。


 軽く舌を出したジャックは、ジャックは一呼吸で扉の前に立った。あまりにも豪華で、開くのをためらうほどの扉だった。だが、ためらっている時間はない。


 我に返った執事がすぐそこに迫っている。大きく息を吐き、ジャック・エリオットはノックもそこそこに扉に手をかけた。


「失礼します。アンセル伯爵――!」


 扉の先に広がった闇には、人の気配というものが何もなかった。わずかに淀んだ空気の中に流れる、鉄錆のようなにおい。何かがおかしかった。ジャックはためらいつつも、ゆっくりと室内に足を踏み入れる。


「アンセル伯爵? いらっしゃらないのですか?」


 ひどく、嫌な予感がした。ジャックは勘というものを信じない。けれど、ここに流れている空気を異常だと感じることだけは、否定できなかった。


「アンセル伯爵――?」


 呼びかけながら踏み込んだ刹那、ジャックの瞳に光が映り込む。閉ざされたカーテンの隙間から差し込む、弱々しい月明かり。白いばかりの光の中で、床の上に描き出された色彩は――。


「な……」


 ジャックは絶句する。あまりにも鮮やかなそれは、真っ赤なバラのような色をしていた。


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