2.嵐の前の静寂と偽りの庭園

「……『9月14日午後11時、アンセル伯爵家所蔵のアーティファクト、“魂の長針”を頂きに参ります。――親愛なる警察官諸君へ。怪盗ミストヴァルトより』……って」


 夜も深まり、空は闇色に染め上げられた。頭上では白い月が淡い光を投げかけ、アンセル伯爵邸自慢の庭園が美しく浮かび上がっている。


 その一角。深紅のバラがアーチを作る下で、ジャック・エリオットは怒りで両手を震わせていた。


 徐々に寒さが深まるこの頃、コートの襟を立てたくらいで冷気は阻めない。深緑と枯葉色が混在し、秋めく庭園には似つかわしくない制服警官の姿がいくつも行きかっている。


 夜の静寂に沈んでいるはずだったグランドルコースト地区は、にわかに騒がしさに包まれていた。


 上流階級が多く住まう高貴な住宅街の中でも、アンセル伯爵邸はひときわ大きく、そして堅牢な塀に囲まれている。無粋な輩を軽蔑するように、庭の白い女神像が見下ろしてきていた。


 だからというわけではないが、青年警部補の機嫌は壮絶に悪かった。手にした白いカードを絶妙に握りつぶさないように持ちつつ、空に向かって恨みを吐き出す。


「ふざけんな! 変態仮面! いつの間に予告状貼り付けてんだよ! そんな小細工している暇があったら正々堂々と勝負しろーっ!」


 無駄な叫び。そんなジャックの傍らには、大小二つの人影がたたずんでいる。特に笑うでもなく、二人の制服警官はジャックの叫びにそれぞれの意見を述べた。


「そんなことしたら、警部補殿は負けるであります。警部補殿は極度の高所恐怖症ゆえ」

「そうだねー、ジャックっち頭は悪くないけど、救いようもなく不運だからねー。怪盗仮面と戦ったらきっと、ロンデル塔の頂上から落とされるよ、きっと」

「おーまーえーらーな……! 言いたい放題で誰の味方してんだ!」


 二人の制服警官は、ジャックの言葉に顔を見合わせた。誰の味方……ひそひそとささやきあったのち、少年のような顔をした警官が、小首をかしげて当然のように言い放つ。


「そりゃ、決まってるでしょ。我らが偉大なる眠れる竜の警部殿!」


 ジャックは無言であごを落とす。そんな警部補に向かって、警官二人は指を立てて見せた。


「そうでありますな。少なくともエリオット警部補殿の味方ではないであります」

「エゼル、ワイマール……お前ら、俺に何か恨みでもあるのか……?」


 じとっとした視線を向けながらも、ジャックはあきらめたように肩を落とす。

 エゼルと呼ばれた大男と、少年のようなワイマールは同時に首をかしげる。なんとなく、なぜ落ち込んでいるのかと言っているような気がした。


 扱いのひどさにジャックがかっと目を見開いた瞬間、どこからともなく咳払いが聞こえてきた。反射的に居住まいを正して、ジャックはゆっくりと振り返る。


「……少々よろしいですかな。警察の方々」


 屋敷に続く白い砂利道に、いつの間にか一人の男性が立っていた。かすかに、というには少し深すぎる眉間のしわを刻み、ジャックたちを強い視線でにらみつけてくる。


「これは執事殿。どうかなさいましたか」


 本当に一瞬だけ面倒そうな顔をして、ジャックはできるだけ丁寧に言葉を返す。

 丁寧に撫でつけられた白髪の下で、再び眉をひそめた男性――アンセル伯爵家の執事は、冷たい緑の瞳で警官たちを眺めやる。


 その視線にある種の軽蔑を感じ取ったジャックは、無言で額に手を当てた。


「どうもこうも。この状況はどういうことですかな」

「どう、とは? 我々はただ、怪盗からアーティファクトである“魂の長針”を守るために、屋敷の警護を……」

「それが問題だと言っているのです。おわかりになりませんか。過去に王妃を輩出した名門、アンセル伯爵邸をこのように踏み荒らすとは……言語道断」


 執事の表情は先ほどから何一つ変わっていない。だが、声音に含まれた嫌悪は隠しようもなく、踏みつけられた芝生に向けられた視線も同じく冷たい。


 名門貴族であるアンセル伯爵に仕える執事は、最初から警察の介入に否定的だった。


 そもそも執事の主人でである伯爵は、警察官たちの前に姿すら現そうとしない。先刻、実際問題として、ジャックたちは門前払いを食らいそうになっていた。


 そこに文字通りの助けを出したのは、執事の背後からゆったりと歩んでくる淑女の助けがあったからだ。


「いけませんわ。警察の方々は最善を尽くしてくれているのです。そのような言い方、してはなりませんよ」

「メイアーナ様……!」


 執事は困惑とともに振り返ると、丁寧に礼をとる。


 メイアーナと呼ばれた女性は、薄紅色のドレスの裾をつまむと、ジャックたちに微笑みを向けてきた。真相の令嬢の言葉を体現するような優雅な振る舞いに、ジャックだけでなく生意気な部下たちも自然と首を垂れる。


「し、しかしメイアーナ様。これでは旦那さまだけでなく、お嬢様……メイアーナ様がゆっくりお休みになることもできません」


 さすがに執事だけは、気配に飲まれることはしなかった。


 けれど、メイアーナも告げられた内容に納得することはない。細い首にかけられた、銀の棒の先に青い石がはめ込まれたペンダント――貴族の令嬢がつけるには、少し武骨に見えたが――を指先でいじりながら、柔らかな微笑みのままに反論する。


「だけど、このまま何もしないわけにはいけないでしょう? このままにしておいたら、お父様の大切なコレクションは盗まれてしまうわ。あなたはそれでも良いというの」

「お言葉ですが、無能な警察が怪盗を捕まえられるとは到底思えません!」


 ジャックは顔をひきつらせた。成り行きを見守っていたエゼルとワイマールは、上司のわかりやすい反応に肩をすくませる。


 本当に腹芸に向いていないなぁ。などと視線で語られていることは、ジャックも気づいている。それでもこの地位にいる以上、無能だからすみません、とは言えるわけもなく。


「執事殿、我々も最善を尽くします。どうかこの場だけでも任せてはいただけませんか」

「信用しろと? はっ、今までの経緯を考えて、どうすればそんな言葉が出てくるのか。貴方では話にならない。責任者はどうしたのですか。どこにも姿がないようですが」

「あー……それは、つまり、その」


 眠れる竜たる上司の姿がないことを、どう説明するべきか。ジャックがわかりやすく動揺していると、控えていた部下たちが何でもないことのように言い放つ。


「警部殿は現在、自ら警備体制を確認中であります!」

「そうですー! うちは責任者でも現場を大切にするのです!」


 どこかに消えた。事実を告げるわけにもいかない。臨機応変の塊のような部下たちに、ジャックは感謝……というには微妙に暗い視線を向けた。


 メイアーナ令嬢は柔らかい視線を向ける。何となく見透かされている気がしたが、ジャックもわざわざ墓穴を掘ることはしない。


「と、いうことだそうですわ。あなたはもう、元の配置に戻りなさいな。本来の仕事をおろそかにしては当家の執事として失格です」

「わ、わかりました……。では、メイアーナ様。屋敷までご一緒に……」

「いいえ、わたくしはしばらくここにいますわ。ずっと中にいると、息がつまりそうなの」


 メイアーナ様。たしなめるような視線にも、メイアーナは笑みを返すばかりだった。


 意外に強いものを含んだ視線に、執事は迷いながらも頭を下げて立ち去る。瞬間、ジャックたちに向けられた視線には、明確な殺気がこもっていた。


「……さて、邪魔者がいなくなったところで」


 金にも見える茶色の瞳を輝かせ、メイアーナは両手を広げる。意図が掴めず、ジャックたちが首をかしげることしばし。メイアーナははしゃいだように声を張り上げた・


「教えていただけないかしら、刑事さん。ミストヴァルト様はいついらっしゃるのかしら!?」

「ミストヴァルト、さま~?」


 ワイマールがあんぐりと口を半開きにした。令嬢はきらきらと目を輝かせ、ジャックに詰め寄ってくる。ジャックはといえば、あまりの勢いにのまれたまま、無言で立ち尽くしていた。


「どうなんですの? ミストヴァルト様はどのような姿をされているのかしら? ああ、麗しい大怪盗様! まさかわたくしのところに来てくださるなんて!」

「あ、あの、失礼ですが、メイアーナ嬢。何を言って……」

「よくぞ聞いてくれましたわ! わたくしは……」


 やけに力強い語調で、メイアーナはジャックたちに言葉を投げかける。令嬢の異様な雰囲気に、ジャックだけでなく部下たちも思わず引いた。


「わたくし、メイアーナ・フォン・アンセルは! ミストヴァルト様同好会、ロンデル本部会長ですわ!」

「ミストヴァルト様同好会ぃ~?」


 なんだそれは。ジャックたちは理解を超えた言葉に顎を落とす。


 ミストヴァルトを愛好する会とは? いったい何が行われているのか、知りたいようで知りたくはない。ジャックの表情は引きつるを通り越して、完全な無へと還った。


「さ、さ、答えてくださいな。エリオット警部補さん。ミストヴァルト様はどのような方なのかしら? やはり美しい声をされているのでしょうね。ああ、お会いしたいわ!」

「いや、あの、それはだからその、ミストヴァルトは泥棒であってその」


 詰め寄られながらも、ジャックが逃げ場を探した――その時だった。


「え?」


 ピリピリと、空気が振動する。明らかに何かがおかしい。異様な事態に、ジャックは警戒した視線を向ける。


「状況確認! エゼル、ワイマール!」

「ジャック警部補殿!」


 エゼルたちが動き始めると同時に、一人の制服警官が駆け寄ってくる。

 荒い息を整えることもせず律儀に敬礼した警察官は、緊張感を含んだ声で報告を行う。


「報告します! 裏門付近にミストヴァルトが出現! 警備をかいくぐりながら、屋敷に向かっています!」


 言葉を裏付けるように、再び空気が振動する。ジャックは決然と顔をあげた。今度こそ逃がさない。その意思を込めて、屋敷をにらみつける。


「ついに出たか! よし――」

「ああっ、来ていただけたのね。ミストヴァルト様! お姿を拝見したいわ!」

「って、あなたは戻ってください! あーもー、エゼル、お前はお嬢様をお屋敷にお連れしろ! ワイマールは封鎖場所の確認! 俺は“魂の長針”へのルートで奴を待ち構える! 行動開始だ!」


「了解であります」「りょーかいです!」


 口うるさいが実は有能な部下たちは、素早く指示に従って行動を開始する。ジャックもまた、足早に屋敷への道をたどり始めた。


「なんで俺の周りって、面倒な奴ばかりなんだ」

「心中お察ししますが、今はそれどころではないのでは? 警部殿もいまだに行方知れずですし」

「あー、それがあったか。でもあの人見つかったためしないんだよな……」


 影のように付き従っていた警察官が、ふふと笑いを漏らす。ジャックはわずかに困惑した表情を浮かべたが、すぐに首を振って前を見る。


「それならば私が探しておきましょうか? これでも探し物は得意なので」


 控え目な申し出に、ジャックはさらに深い困惑を浮かべた。はっきり言って、眠れる竜警部を探しだしたとしても状況に変化は望めない。だが、いざという時にトップがいなのでは、体面的にも示しがつかない。


「仕方ないか。なら、頼めるか?」

「お任せください。――ジャック警部補殿」


 その一瞬、ジャックは心からの戸惑いを表した。少しだけ足を緩めたジャックに、警察官は口元だけで微笑んだ。


「私が言うことではありませんが、急いだ方がいいのでは? ミストヴァルトは午前0時までしか待ってくれないのですから」

「そう、か……じゃあ、頼んだ」

「はい、お任せを」


 どこかで轟音が響き渡る。状況の変化にに舌打ちすると、ジャックは小道を走りだす。


 最後にジャックが小道を振り返ると、月明かりの下で制服警官が微笑んでた。


 ※


「ふふ、さすが『親友』。なかなかごまかしがきかないと見える」


 遠ざかる広い背中を見送って、制服警官は帽子を脱ぐ。その下から現れた髪色は、オレンジに近い茶色だった。アルカイックスマイルを浮かべた警察官(?)は、ふっと視線を下に向ける。


「だったら、わざわざ接触しなければいいんだろ。あんたってホント大嘘つきだな」


 低木の隙間から、するりと赤茶けた毛並みの子猫が現れる。子猫は一度伸びをすると、佇んだままの警察官の足元に歩み寄る。賢げな一対の青い瞳は、月明かりの下に浮かび上がった相手の正体を暴きだす。


「怪盗ミストヴァルト。指示通りかく乱はしておいたよ。あとはあんた次第だ」

「そうか、では、この後も頼む。僕は華麗に至宝を頂くとしよう!」

「あんたって、ホントひどすぎるな。最初から知ってたけどさ」


 子猫は呆れたように尻尾を一振りする。白い砂利道を駆けていく姿に、警察官――正体を現したミストヴァルトは小さく手を振った。


「アーサー少年」


 子猫は足を止め、心底いやそうに眉間にしわを寄せる。

 怪盗は子猫の姿をした少年探偵に手を振ると、本心からの笑みを浮かべた。


「気をつけていくんだよ」

「あのなぁ。そう言うなら巻き込むな。……あんたも気をつけろよ」


 ふて腐れたような言葉だけを置き去りに、子猫姿のアーサーは去っていく。

 僅かだけ静寂が戻った月の下、怪盗はまっすぐに空を見上げた。


 真白の光は地上とあまねく照らし出し、怪盗の姿は影に溶けて消えた。

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