Seed:1「怪盗の日常と少年探偵の日々」

1.霧の都ロンデル日常回顧録

「さあー! 今日も最新の話題満載のロンデルタイムズ! 新聞だって早い者勝ちだよ、さあー! 買って買って!」


 霧の都ロンデルの一日の始まりはとても早い。

 乳白色の霧が立ち込める中に、野太い新聞売りの声が響いている。石畳の道を行く馬車の姿はまだ少なく、朝特有の冷たい空気が通りを満たしていた。


 カツカツと靴音を鳴らしながら、少年は大股で道を歩く。ハンチング帽が頭の上で跳ね、癖のある赤毛が額に落ちかかってくる。


 うっとおしいなぁ。などと言いつつ、周囲を見渡すことしばし。霧の向こうに目を凝らした少年は、確固たる足取りで前へと進んでいく。


 このサンシェントヴィラ十番街は、労働者階級の人々が多く住む場所だ。古き良き時代の名残がある石造りの壁は、忙しく行きかう人々をじっと見守り続けている。


 すえたにおいの漂うロンデルの霧の中であっても、その姿に変わりはない。何気なく壁に手を置くと、湿ってひんやりとしていた。いつもと同じだという事実に安堵の笑みを浮かべて、少年は前方へと声を投げかけた。


「おっちゃん。オレにも新聞一部くれよ!」

「毎度! って、なんだ、アーサーじゃねえか。おめえ、まだ生きてたのかよ」


 新聞売りの男が、にかっと笑いかけてくる。少年――アーサーは辛らつな言葉に軽く手を振り、新聞が積まれたワゴンの前でにやりと笑う。


「おかげさまでね! というか、おっちゃん昨日も同じこと言ってたよな? ついにボケ始まったかい?」

「おお、そうだなあ。最近、目まで悪くなったみたいでね、ガキの顔はみんな同じように見えてなぁ」

「おいおい。いま、オレの名前呼んでただろ。おばちゃんに言いつけられたくなかったら、さっさと新聞売ってくれよ。遅くなるとオレが路頭に迷うんだからさ」


 そら大変だ。赤ら顔をほころばせた新聞売りは、ワゴンから新聞を一部放る。

 アーサーは新聞を片手で受け止め、男にコインを投げ返す。一連のやり取りはいつものことで、そのまま新聞に目を落とすのもいつも通りだった。


「――大怪盗ミストヴァルト! 今回も華麗に警察官を手玉に取る!」


 白黒で印刷された紙面に踊る文字に、アーサーは自然に眉間が寄るのを感じた。

 怪盗の事件が大事になるのはいつものこととはいえ、まるでゴシップか何かのように騒がれるのはいかがなものか。


「ミストヴァルトって奴もふざけた野郎だよな。我らがメーヴェ女王陛下のお膝元のこのロンデルで、盗みを働くなんてさ」


 鼻息荒く吐き捨てる姿は、本気で憤慨しているように見えた。


 イストグラント帝国を統べる、若き女王――その名をメーヴェという。ローレシア大陸沿岸に浮かぶ小国イストグランドを、世界有数の国力にまで押し上げた稀代の名君。


 我らが女王陛下のおひざ元で堂々と盗みを働くような輩は、煉獄の炎で焼かれてしまえと――物騒なことを言い始める新聞売りに、アーサーは苦笑いを向ける。


「確かに許しがたい部分もあるけどさ。盗むのは金持ちと貴族かからだけだし、オレたちには実害はないからいいんじゃないか?」

「害はなくても益もないだろ。どうせ盗むんなら、その分わしらに還元してくれっての」

「結局金かよ。まったく世知辛いなあ。じゃあな、おっちゃん! また!」

「おう、毎度! 次もよろしくな、アーサー」


 くしゃくしゃと笑みを作る新聞売りに手を振って、アーサーは元来た道を戻り始める。


 ――怪盗ミストヴァルト。

 それはロンデルを騒がす大怪盗。


 現在を騒がす怪人だが、この人物が登場したのはこれが初めてではない。


 今からさかのぼること百五十年前。イストグラントが二つの国に分かれ争っていたころ、初代ミストヴァルトは初めて舞台に登場した。


 当時のロンデルで美術品を盗み続けたミストヴァルトは、数年間活動を続けた後、忽然と姿を消した。捕まることもなく、怪盗は警察の汚点として歴史の闇に消えていく――。


 はずだったのだが。十数年後、なぜかミストヴァルトは再び姿を現したのだった。

 それからというもの、十数年おきに現れるミストヴァルトは、ロンデルのある種のイベントと化している。


 一人の人間が百五十年も生き続けるわけもなく、ミストヴァルトは継承されていく称号なのだと言われているが、正体はいまだつかめず。


 今の時代のロンデル市警はもとより、あらゆる人々が怪盗に振り回される結果となっているのだった。


「……というか、そこまで大げさに騒ぐようなことかな、これってさ」

「なにブツブツ言ってるんだい? 朝の準備を雇い主の僕に任せて君は何をしてるの?」


 アーサーが新聞から顔をあげると、ひょろっとした人物が目の前に立っていた。

 白いシャツに黒いスラックス、あとは黒いエプロンという出で立ちは、その辺のカフェのオーナーのようだった。事実そうなのだが、オレンジに近い茶色の髪を軽く揺らす姿に、アーサーは思わずめまいを覚える。


 ……この人、絶対面倒ごとを押し付ける気だな……!


 相手の整った顔に浮かぶ表情に、アーサーは思わず数歩後退した。


「なぜ逃げるんだい? 子猫のアーサー君?」

「に、逃げてないし。子猫でもないし! オレはただ、新聞を買いに行ってたんです~! 非難されるいわれはありませんよ~だ!」

「ふふふ、甘いな。僕を檻から放たれた猛獣の前に置き去りにして、のんきに新聞買いに行ってたのかい? はてさて、これは少年探偵アーサー君に依頼をしないといけないかな?」

「って、絶対面倒ごとだろそれ! やめろよ、アル! あんたの依頼なんか受けた日には、オレも一緒に監護行きだ!」


 ふふふ。相手の笑う声は性別不詳で、その上年齢さえもいまいち掴みづらい。アーサーからすると現在の雇い主であることは間違いなかったが、正直この人物の全貌は数年の付き合いを経てもいまだ謎の部分が多かった。


 性別不詳、年齢詐称。正体不明の霧の怪人(と、アーサーが陰で勝手に噂している)。その名も、アルセウス・D・クロウサー! などとおどけて考えるのが似合うほど、この人物はでたらめでふざけた存在だった。


「アーサー、一ついいことを教えてあげよう。僕はいまだに捕まったことはない!」

「声を大にして言うな、声を! だったら件の猛獣もさっさと追っ払えばいいだろ! 腐っても騙っても親友と名の付く相手なんだから」

「あのねえ。言葉で語る以上の力を、現実で発揮するのはものすごく難しいことなのだよ。できていたなら最初から僕が道の真ん中で待っているはずがないじゃないか」


 大げさに悲しみを表すアル――アルセウスは長いので大抵略する――に対して、アーサーが向けられるのは『自業自得』の言葉だけだった。


 ただ、このまま路上で不毛な言い合いを続けても意味はなかった。ひとまずアーサーは、怪人雇い主を放置する。そもそも早朝の、不特定多数が行きかう場所で語り合うには、二人とも訳ありが過ぎていた。


 ため息交じりにアーサーが歩み寄ったのは、目の前の建つ洒落たカフェだった。

 古びた木製の看板には『霧の森』の文字が刻まれている。表に面した出窓からこっそり中をのぞくと、カウンターに大きな姿が突っ伏しているのが見えた。


 ……なんだか本当に面倒そうだな。窓際に植えられた花を見るふりをして、アーサーはハンチング帽を被りなおす。アルが逃げ出すほどだから、どんな具合かと思えばある意味の末期症状のように見えた。


「ささ……若人よ。いざ、試練に向かって突き進むのだ! 勇敢なる少年の冥福を祈って!」

「殺された!? あーもー、このままにしておけるわけないだろ! さっさと戻るぞさっさと!」

「……えー、しごとしたくなぁい」


 『close』のプレートを表にひっくり返し、背後の怪人に顎をしゃくって見せる。だが、アーサーの態度にも怪人は動じない。うっすらと茶色の瞳に生暖かい笑みを浮かべ、ひらひらと手を振って見せる。


 どうやら先に行くのは嫌らしい。不毛すぎるやり取りに深くため息をこぼし、アーサーはドアのノブに手をかけ、店内へと足を踏み入れる。


「遅い! いつまで客を待たせれば気が済むってんだ! このものぐさ店主!」


 ドアベルの澄んだ音にかぶさり、若干のあきらめを含んだ罵声が響く。


 いつものこととはいえ、この人も変わらないよな……。アルの行動パターンなどお見通しのはずだが、それでもこの男の言葉はいつも似たり寄ったりだった。


「オレはアルじゃないんだけど。本命は背後だよ。えーっと、ジャックさん?」


 別に自分がののしられているわけではないので、アーサーが怯むことはない。


 少しずつ霧が晴れ、窓から日差しが差し込んでくる。落ち着いたクリーム色のテーブルとイスが並ぶ店内に、コーヒーの香ばしさがゆったりと広がっていく。カウンターに置かれた白磁のカップが日差しを弾き、眩しそうに男――ジャック・エリオット警部補が目を細めた。


「客を放置したまま店を開ける店員なんて、全員連帯責任だ。職場放棄だ、職務怠慢だ!」

「ほー? こちらは開店前なんだがね?そこに毎度毎度押し掛けては、こっちの都合も考えずに愚痴を吐きだす。それは紛れもない営業妨害ではないかな。ジャック・エリオット警部補殿?」


 アーサーの背後から、猫のようにするりとアルが顔を出した。相変わらず矢面に立ちたくないのか、アーサーを盾にしつつジャックに辛らつな言葉を投げかける。


 だが、相手もさることながら。カウンターから身を起こすと、ジャック警部補は青い目を細めて薄く笑った。


「……出るとこ出るか?」

「ヤメテクダサイ。ジャック、君ってホント友達甲斐がないよな。こんなに親身になって話を聞いてやるのって、僕ぐらいのものだとは思わないのかい。なあ、親友?」

「お前を親友だと思ったことは一度もねーよ。それよりアル、コーヒーもう一杯。いつものドロドロに濃いヤツ」

「そのレベルはすでにコーヒーペーストだが。相変わらずカオスな味覚をしているな、ジャック」


 お決まりのセリフで、カフェ『霧の森』の営業は始まる。

 アーサーは新聞を置くと、いつも通りテーブルを拭き始める。アルはコーヒーを淹れるため、カウンターの内側へと入る。


 問題の人騒がせな常連客、ジャック・エリオット警部補は再びテーブルに突っ伏し、ぶつぶつと怨嗟を吐き出し始めた。


 彼はアルの幼馴染にして、ロンデル市警怪盗犯罪特別課所属の――なんというか、特殊な立ち位置にいるお人であるわけだ。


 悪い人ではない。のだが、正直アーサーには彼がここに出入りする理由がいまだよく見えてこない。それはまた後述するとして。


「ジャックさんがここにいるってことは、怪盗は捕まらなかったんだな」

「言うまでもない。変人上司に全部押し付けられただけのジャックが、成果を上げられるはずもない。なにせ運というものが致命的に欠落してるからなー、ジャック君って」


 怪盗を逃がしてしまったことをネタにからかう。はっきり言って皮肉にもほどがあるとアーサーは思うわけだが。そんなことには構わず、ジャックの怒声が今日も轟く。


「お前らなあ! わざわざ本人が聞いてる前で好き勝手言うんじゃねえよっ!」


 ジャックは勢いよく立ち上がり、すぐさま力なく元の位置に戻る。それもいつもの光景で、アーサーもアルも特に気にせず自分たちの仕事をこなしていく。


「しかし」


 サイフォンが空気を吐き出し、上部のガラスに向かって熱湯がのぼっていく。コーヒーの粉と湯と混じりあい、焦げ茶の液体が下へと落ちていく音だけが響いていた。


 珍しい静寂。ふと思い出したように、アルが指先をジャックに向ける。


「君もなかなか難儀な性質だな、ジャック。いくら代々ミストヴァルトと対決してきた刑事の家系だからと言って、同じように背負うこともないだろうに」

「わかってないな、アルセウス。俺があの怪盗に挑むのは、確かめたいことがあるからだ」

「確かめる? なにを」


 茶色い液体がサイフォンにたまっていく。奇妙な沈黙の合間を縫って、アルセウスは感情の混じらない瞳で相手を見つめた。


 大人たちのやり取りは、双方の事情を知るアーサーにとってはかなり痛い光景だった。


 親友と書いて腐れ縁と読む、何とも微妙な関係性が今もなお成り立つ理由が、『知られてはいけない』にあるということ。痛々しくも欺瞞に満ちている関係であるものの、アーサーが口を出す筋合いのことではないのも事実だった。


「別に。お前に言うようなことじゃねえよ」


 ジャックの呟きが、どこか空虚に響いたのはなぜだろう。


 すべての液体が下に流れ落ち、コーヒーが出来上がる。アルは不可思議な微笑みを浮かべただけだった。サイフォンの上部を取り外すと、液体を白磁のカップに注ぎこむ。途端に濃いコーヒーの香りが広がり、『霧の森』特製ブレンドコーヒー……ならぬ、ドロドロカオスコーヒーが完成した。


 危険な液体を差し出しながら、アルは唇の端を持ち上げ笑う。すでに元の表情を取り戻した『霧の森』の店主に、アーサーは少しの困惑を感じながらテーブルを拭く。

 この二人の関係性は、どうしてもわからない。考えても仕方ないのだけど、このままでいいのか。


「ところでジャック。常日頃のパターンだと、そろそろ警部殿の呼び出し時間ではないのかい?」

「ん……あ!」


 ジャックは慌てたように声をあげる。壁に掛けられた時計を見て、唐突にアルの手からコーヒーをひったくる。熱さにも構わず一気に飲み干し、当然の結果ながら。


「――あっつ――――!」

「なにやってるんだい。本当に相変わらず迂闊だな、君は。ほら、水」


 アルは熱さに悶える警部補に水を渡して、背中をさすってやる。一見すると幼馴染の優しさのようだが現実はそんなに甘くない。


 大人たちの化かしあいに生ぬるい視線を送りつつ、アーサーはきっちり自らの仕事をこなしていく。


「大人って馬鹿だよな」


 アーサー少年、齢十三歳。馬鹿な大人にだけはなりたくないと思う年頃だった。


「……死ぬかと思った」

「可能であれば、ここ以外で死んでくれ。死人の出るカフェなんて言われたら商売にならないし。いや、逆に命知らずの人間に有名な店になれるか?」

「お前の経営方針など知ったことか! あー、俺はもう行くから、代金はいつも通り」

「はいはい、ちゃんとつけておくよ。では、元気よくいってらっしゃい」


 ジャックはよろよろとしながら、手を振って去っていく。何気なく広い背に目を向けたアーサーは、あまりにも堂々と張り付いているそれに顔をひきつらせた。


 ジャック・エリオット警部補。なぜ気づかない。背中に張り付いている一枚の白いカードに……!


 アーサーの視線に気づかず、ジャックは扉の向こうへと姿を消す。その状況があまりにも心臓に悪すぎて、アーサーは引きつった顔のまま、アルに視線を向けた。


「いいのか、あれ。どう考えても普通に気づくだろ。バカなの?」

「大丈夫さ。ジャックって昔から肝心なところが抜けてるからね。指摘されるまで張り付いていることさえ気づかないよ。なんて言ったってそういう家系だからさ」

「なるほど……って言うかよ。まるで何かの設定上の都合みたいじゃないか。なあ――」


 アーサーが見つめる先で、アルは小さく声をたてて笑う。それはなぜか、アルの声とは質が違うように聞こえた。別の存在のように、くぐもった笑いは他のだれかを連想させる。


 そう、アーサーは知っている。この声の持ち主の名を。長き夜を渡り、幾千もの美しき輝きを盗み出してきた世紀の大怪盗。それは――。


「怪盗ミストヴァルト。あんたって本当に救いようのない大嘘つきだな」

「怪盗は、常に華麗に嘘をつく! そうでなければ面白くない。君は同意しないだろうがね、少年探偵アーサー君?」


 不敵な笑いと奥底に存在する怪盗としての矜持。そんなものを向けられて、アーサーごときが否定の言葉を吐けるはずもなかった。


 アルセウス・D・クロウサー。またの名を怪盗ミストヴァルト。

 性別不詳、年齢詐称の怪盗は――今日もまた、ジャックの気に障る方法で予告状を送りつけて楽しむのだった。

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