霧の町ロンデル怪盗事件簿 ~子猫の少年探偵、怪盗殺人事件の真相を探る~

雨色銀水

0.ロンデル怪盗協奏曲第一章「天鵞絨の夜」

 光あるところに影はある。それならば僕は甘んじて影となろう。


 ただ一度のこの命。せめて君を浮かび上がらせる影となれるよう。

 僕は霧の都の影になる。


  ――ウィーンサー・D・クロウサー著『怪盗の決意』より。


 ◆


 とある世紀末、不滅帝国イストグラントの首都。

 ――通称、霧の都ロンデルにて。


 今日もロンデルに夜がやってきた。

 漆黒のビロードを貼ったような空の下、繰り広げられているのは紛うことなき『喜劇』だった。


 本日の舞台はロンデル帝国美術館。赤毛の子猫は、屋根の上からその『喜劇』を無言で見守っている。


「さあ、賢明なる警察官諸君! 僕がここにいるのはわかっているのだろう? ならば空を翔けてでも捕まえて見せたまえよ!」

「ふざけんじゃねえ! この怪盗仮面! この周辺は完全に包囲した。つべこべ言わずに大人しく捕まりやがれ!」


 帝国美術館の屋根に影がひるがえる。煌々とライトが照らし出す中心に、黒いマントの人物が浮かび上がった。踊るような足取りで礼をとり、眼下の人々の声に手を振る。


 それだけでも十分の不審人物だった。しかし、再びライトに浮かび上がった姿は、不審人物の枠を軽く越えていた。


 風が揺らすのは、どこぞの物語から現れたかのような黒いマントだ。


 黒のタキシードを細身の体にまとわせ、両手にはめられた手袋も完全な漆黒だった。

 黒ずくめの姿だけでも異様だったが、頭には大きなシルクハット。しかもその下の顔は真っ白の仮面に覆われている。


 異様な姿の人物が手を振れば、美術の館の前庭から怒声が上がた。精緻な彫刻を蹴散らしそうな勢いで、ロンデル市警の警官たちが警棒を振り上げる。


 そんな眼下の様子に肩をすくめて、漆黒の怪人はシルクハットに手を当てた。


「ふむ、ここで大人しくとはね? ならばジャック・エリオット警部補殿。答えは簡単だ。君がここまで登ってきたまえ。そうすれば、大人しくお縄につこうではないか!」

「そ、そこまでどうやって登れって言うんだよ! お前が降りてくれば済む話だろうが!」

「ほほう、見事に話をすり替えたね。なるほど、そうか、ジャック・エリオット。そういえば君は極度の高所きょうふしょ――」

「だーまーれー! この怪人奇人変人が! とっとと降りてきやがれ!」


 地上で仁王立ちする青年が、青い瞳に怒りの炎を燃え上がらせる。短い金髪が逆立たんばかりの勢いで叫ぶ姿は、さながら巨大な狼のようだった。


 あまりの語気の強さに、怪人ははた、と手を打つ。そして何が楽しいのか、口元だけで笑みを作ると両腕を大きく広げた。


「言葉ではなんとでも言える。君たち、本当に僕を捕まえられると思っているのかい?」


 そっと仮面の怪人は右手を開いた。ライトの光を受けて、薄紅色のガラス瓶が輝きを放つ。

 星明りを閉じ込めたような光に、怪人は再び笑みをこぼした。中に残った液体が揺れるたび、華やかなバラの香りが広がっていく。


「夭折の天才芸術家『ディアス』作のアーティファクト、“メルローズの散花”。本日確かに頂戴した。これにて我が道は定まり、元ある場所へと帰結するものなり」


 淡々と吐き出された声は、男性にしては高く、女性にしては低かった。存在の不安定さを表すような声とともに、怪人の左手が上がる。指揮棒を振るうような端正な動きで、すっと、指先は天上を指し示した。


「な、まさか」


 ジャック警部補が目を見開く。同時に、厳粛な鐘の音が空気を震わせた。低く高く響き渡るロンデル塔の鐘は、訪れた刻限を知らしめていた。


「どうやら時間切れだ。どうやら今回の勝負も僕の勝ちのようだな?」

「逃がすか! 総員、網を張れ! 怪盗を逃がすな!」

「ふふふふ……そうでなくては面白くない! では、皆々様方!」


 警官たちが逃すまいと周囲を取り囲む。怪人が飛び降りようものなら、一息の間に捕らえられてしまっただろう。だが、現実はそこまで簡単に終わってくれない。


 怪人は軽く指を打ち鳴らす。刹那、設置されていたライトが激しく明滅を繰り返し、かっと、闇を焼き尽くさんばかりの輝きを地上に放つ。


「ごきげんよう、また次の勝負でお目にかかろう!」


 目くらまし。それだけならまだしも、どこからか流れてきた灰色の煙が地上を覆い尽くした。


 慌てふためく警官たちの間で、ジャック警部補は必死に屋根へと手を伸ばす。


「逃がすか! まて――」


 煙幕が晴れていく。けれど当然のことながら、すでに奇怪な姿はどこにもになく。


「……くっそっ!」


 まるで幻か何かのように掻き消えていた。


 ふははははははは――! 響く声にジャック警部補は空を見上げた。いっそ清々しいほどの笑い声が地上へと降り注いでいる。周囲を見渡したところで、あの怪人の姿を見つけることはできなかった。


 あまりの屈辱に、ジャック警部補は両手を振り上げ叫びをあげた。


「覚えてろぉおお! 怪盗ミストヴァルト!」



 ――そのセリフは完全に悪役じゃないかなぁ?

 赤毛の子猫は大きくあくびして、屋根からそっと飛び降りた。



 こうして、本日の喜劇は幕を閉じる。


 この劇の主役は、霧の都ロンデルの夜を騒がす、正体不明の黒紳士。

 その名は――世紀の大怪盗、怪盗ミストヴァルト――!


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