夢の終わりに

瑪々子

第一話

私、何だか長い長い夢を見ていたような気がいたします。

少し、私の身の上話にお付き合いいただいても、よろしいでしょうか?


私、オヴェリア・ダルストンは、ダルストン侯爵家の長女として、まだ幼い時分にドゥール王国皇太子の婚約者に定められました。皇太子のクリフォード様は、金髪碧眼で端正な顔立ちの、その切れ長の瞳に聡明さを宿した、思慮深い方でした。初めて彼にお会いしたのは、まだ彼が8歳、私が6歳だった頃でしょうか。その美しいお顔に優しい微笑みを浮かべ、私に手を差し伸べてくださった彼を見て、顔にかあっと熱が集まったことを、今でもよく覚えています。幼いながらも、私の一目惚れでした。


三方を海に囲まれたドゥール王国は、豊かな海洋資源に恵まれた国で、また近隣諸国でも随一と言われる海軍を有していました。クリフォード様は、学業面でも剣の腕においても優秀な成績で王立学園を卒業すると、国王の指揮の元、実地で海軍にて軍艦や海について学ばれました。たちまち彼は頭角を現し、船長も舌を巻くほどに、壮大な軍艦を易々と扱い、船員たちを見事に指揮していたと聞いています。一度海に出てしまえば、長い間、彼が陸に戻られないこともあり、そんな時には、1日でも早く彼にお会いしたいと、彼の帰りを焦がれるように待ちわびたものです。色白だった肌が陽に焼けて、逞しくなった彼が船の上から私に手を振ってくださる姿に、私の胸はどれほど跳ねたことでしょう。


彼は物静かな方で、普段から、彼は婚約者である私の手を取る程度で、あまり大胆に私に触れようとはしませんでした。確かに互いに気持ちを通い合わせているという、その実感はあったものですから、そんな彼の態度をもどかしく感じることもありました。私は、通りいっぺんの言葉では表せないほどに、彼のことを、深く愛していたのです。


少しでも彼の役に立ちたいと、私も受けていた王妃教育には力が入りました。王妃教育は厳しいものではありましたが、それを乗り越えた先に、彼の隣に立てると思えば、ちっとも辛いとは思いませんでした。あの時の私は、まさかあのようなことが自分の未来に待っていようとは、想像だにしていませんでしたが。


私が王立学園の卒業を間近に控えた、ある日のことでした。私の卒業を待って、クリフォード様と私の婚姻が正式に調うこととなり、私たちの結婚の発表を兼ねた王家の夜会が開かれることになっていました。どこか浮かない顔をしたクリフォード様に、嫌な予感がしなかったと言えば嘘になりますが、それでも、私は待ちに待った日がようやく訪れることに、興奮を隠し切れませんでした。

前日から王宮に泊まり込み、最上級のシルク生地であつらえた美しいドレスを身に纏って、私は高鳴る胸を抑えながら、静かに、クリフォード様が私との結婚を発表するその時を待っていました。けれど、大広間の舞台に上った彼の口から飛び出したのは、思いがけない言葉だったのです。


「オヴェリア・ダルストン、……すまないが、君との婚約は破棄させてもらう。僕は、テティスと生涯を共にすることにした。王位は弟に譲る」


そう淡々と言った彼は、静かに舞台から降りました。


一瞬、場がしんと水を打ったように静まり返り、それから、ざわざわと困惑に満ちた喧騒がその場を覆いました。国王と王妃も、その表情を見る限り、想定外のことに混乱している様子でした。『テティス』とは、彼がつい最近まで乗り込んでいた、ドゥール王国でも最大規模を誇る、誰もが知る軍艦の名です。つまり、彼は、私と結婚して王位を継ぐ代わりに、今後テティス号と運命を共にすると、そう言ったのです。


突然の出来事に、私は訳がわからず、全身からすうっと血の気が引いていくのを感じていました。人々のざわめきの合間に、好奇の視線が私に絡み付いてくるのを、否が応にも感じます。足元からふらりとよろめきかけた時、私を支えてくれた腕がありました。


「大丈夫か?」


青ざめた顔のまま見上げると、そこにはクリフォード様と同じ金髪碧眼の、精悍な顔をした美しい男性が立っていました。纏っている空気からは、上に立つ者の威厳が感じられます。この国の高位貴族は一通り頭に入っているはずなのに、彼はいったいどなたなのかしらと、ぼんやりとした頭のまま彼をしばらく見つめていると、彼がふっと口角を上げ、私の手を力強く握り締めました。


「美しいオヴェリア、私のデスティア王国においで?私が、彼の代わりに君を妻に迎えよう。ーー私の正妃として」


デスティア王国。それは、ドゥール王国の隣国であり、そして大陸の覇者と言われる大国です。彼の言葉を聞いて初めて、私の手を取っているこの方が、デスティア王国皇太子のギデオン様であるとわかり、私の身体は緊張にふるりと震えました。


ギデオン様の言葉に、私たちを包んでいたざわめきがより一層大きくなったのと、クリフォード様がこちらを振り返ったのが同時でした。私は、必死にクリフォード様を見つめましたが、彼の瞳の中に見えたのは、深い、深い闇を映すような色だけで、私が探していたような愛情のかけらは、どこにも見当たりませんでした。


ギデオン様に手を取られるままに、私はデスティア王国に渡り、彼に嫁ぐことになりました。

……私に、それ以外何ができたというのでしょう?多くの貴族たちの面前で、クリフォード様から婚約破棄され、立つ瀬のなくなった私に、文字通り手を差し伸べてくださったのが、ギデオン様だったのですから。私の両親も、急な話に戸惑いながらも、思いがけず転がり込んで来た良縁に、胸を撫で下ろしていたようです。


はじめ、ギデオン様の気紛れで国に連れ帰っただけではないのかと訝しんでいた私でしたが、ギデオン様は、ドゥール王国を訪れていた時、別の夜会でクリフォード様といた私を見掛け、ずっと横恋慕していたと仰るのです。少年のように頬を染めた彼が、嬉しそうに私との結婚式を急ぐ様子に、私も彼の言葉を信じない訳にはいきませんでした。


ギデオン様は、クリフォード様と同じ金髪碧眼でしたし、お二人とも王族らしい威厳を備えた美しい方でしたが、お二人から受ける印象は、まるで正反対でした。動と静、太陽と月とでも言えば良いのでしょうか。そして、もう一つ、彼らの間には大きな違いがあるように、私には思われました。

ーーそれは、穏やかで戦を好まなかったクリフォード様に対して、次々と近隣諸国を支配下に収めていた、百戦錬磨と謳われるギデオン様の瞳には、時に好戦的な、そして残酷な色が見えたからです。


ギデオン様に対する恐怖心を拭えぬままに、結婚式の晩を迎えた時のことでした。ギデオン様を部屋に迎えながらも、私は夜着の前を固く掛け合わせて、やがて来るその時を少しでも先延ばしにしようと、微かに震える手で彼にチェスを勧めました。彼は鋭く目を細めましたが、いいだろうと笑うと、チェスの盤を挟んで私と向き合いました。まるで、肉食獣を前に身を竦める獲物のようだと思いながら、私は盤上の駒を動かしました。


「ほう……。オヴェリアは、なかなか良い腕をしているな。これほど対等に渡り合えた相手は、しばらくぶりだ」


ギデオン様の瞳が、私を見つめて嬉しそうに輝きます。


「そうでしょうか?……貴方様の方が、明らかに押していらっしゃいますけれど」


実のところ、私はチェスの腕にはかなりの自信があったのです。母国でも、クリフォード様との対局を除けば負け知らずでした。だから、時間を引き延ばせるであろうチェスを彼に提案したのです。けれど、ギデオン様は私の予想を遥かに上回って強かった。さすがは、頭が切れると有名な、デスティア王国の皇太子だと、私も認めない訳にはいきませんでした。


掌でチェスの駒を弄ぶようにしながら、彼は私を射抜くような強い瞳で見つめました。


「俺は、頭の悪い女は嫌いだ。君は、非常に優秀だとは噂に聞いていたが、想像以上だな。いずれこの国の王妃になる者として相応しい」


満足気にそう言った彼は、そのままにっと笑いました。


「だが、チェックメイトだ。……ドゥール王国と、同じだよ。君も、命拾いしたな」


私は思わず顔を上げ、ギデオン様の顔を覗き込みました。


「それは、どういう……?」

「言葉通りだ。もう、開戦の準備は整っている。この大陸は、あとは君の母国を制圧しさえすれば、ほぼ俺の手中に収まる。クリフォードと言ったか……あの王子の、君との婚約破棄を告げた時の言葉。あれは、俺への牽制のつもりだったんだろうか?……はっ、いくら彼が軍艦テティスと運命を共にしたところで、沈むことに変わりはないがな」


私は、ギデオン様の言葉に、はっと息を飲みました。頭の中で、かちりと、パズルのピースがはまった音がしたような気がしました。……それは、婚約破棄のあの場面だけでなく、その前日の夜のクリフォード様の態度からも、私がずっと疑問に思っていたことがあったからです。


私たちの結婚を発表する予定になっていた、実際には私が婚約破棄をされることとなった前日、クリフォード様は、私がお借りしていた王宮の一室を訪れていました。普段お酒など飲まない彼が、酷く酔っ払って。どうして、祝いの席の前日に、これまで羽目を外すことのなかった彼がこのような姿にと、私は困惑しましたが、そんな彼の姿をほかの人に見られぬようにと、匿うように部屋に迎え入れました。


彼は、ソファーに仰向けに倒れ込むと、そのままうとうとと眠りに落ちました。


目を閉じた彼の長い睫毛が、彼の呼吸に合わせて軽く上下する様子を見ながら、私は愛しさが胸に満ちるのを感じていました。ようやく、私も彼のものになることができる、あともう少しだと、そう思いながら。


しばらく彼を見つめていると、彼は徐に瞳を薄く開け、まだぼんやりとした視線をしばし彷徨わせてから、私を視界に捉えてぽつりと呟きました。


「……これは、夢かな?……オヴェリア、君は、夢の中でなら、また僕に会いに来てくれるかい?」


そして、急に、私のことを強く両腕で抱き締めたのです。今までにない激しさで。


彼が何を言っているのか、私にはわかりませんでした。これは夢などではありません、これから、ずっと一緒ではありませんかと、そう口に出そうとしましたが、もしそうしたならば、この両腕の温もりがあっという間に離れてしまいそうで、どうしても言えませんでした。悲しそうに、縋るような瞳を向ける彼の腕の中で、その日、私はそのまま彼に抱かれました。



なぜ、クリフォード様はあの時、そんな言葉を呟いたのだろう。

どうして、そのすぐ翌日に、彼は私との婚約破棄を?



そんな疑問で渦巻いていた私の頭の中に、ようやく一枚の絵が見えて来ました。クリフォード様はきっと、デスティア王国にドゥール王国が近い将来攻められるだろうことに、勘づいていた。だから、私を敗戦国の妃にすることのないよう、あえて私との婚約を破棄したのだろう、と。


それを理解した瞬間、私の心も固まりました。決意が固まったら、驚く程に心が静かになり、それまで止まらなかった手の震えも、嘘のように消えました。


目の前のチェスの盤を眺めながら、私は思いました。これから始まるゲームに、私はどうしても勝たなければならない、と。


女の勘とでも言いましょうか、その時、私は身体の中に、新しい命が宿っている予感がありました。私がどうなろうとも、この命は守らねばと、そして、出来ることならドゥール王国も、愛しいクリフォード様も守りたいと、そう考えたのです。


私はそれから、ギデオン様を細かく観察しました。何を好み、何を嫌い、どのようなことに怒りを感じるか。私は、彼の理想の女性を演じることに決めました。賢く、政治経済や戦術も語ることができ、外交に連れ出せば要人との潤滑油の役目を果たす。普段は一歩下がって夫を立てるが、完全に夫に掌握はされず、どこか掴みどころがない。惚れた弱みというのもあったのでしょう、私が少しそっぽを向けば、彼が慌てて、私の機嫌を直すため宝石を用意するような、私の掌の上で彼を転がせるような関係を作るまでに、それほど長い時間は掛かりませんでした。皮肉なことに、これにはドゥール王国の王妃教育で得た、外国語や政治経済、外交といった知識も、非常に役に立ったのです。……そして、私がこのように演じることができたのは、クリフォード様の婚約者だった頃のように、全力で彼を愛していたために余裕のなかった時とは違い、ギデオン様を冷静に、客観的に観察することができているからこそなのだろうと、これもまた皮肉に思ったのでした。



私の嫁いで間もない懐妊に、ギデオン様は歓喜しました。私は何かと理由をつけて、ギデオン様に側についていてもらえるように、ドゥール王国侵攻を先延ばしにするようにと誘導しました。その甲斐あってか、ドゥール王国がギデオン様から攻められることのないままに、私は玉のような男の子を授かりました。

目に入れても痛くないほど、ギデオン様は息子を溺愛しました。私から見ると、成長するにつれ、耳から顎にかけてのラインや、切れ長の瞳など、息子はクリフォード様にそっくりになっていき、ひやひやとしたものですが、ギデオン様はそんなことは少しも疑わないままに、愛息に徹底的に帝王学を仕込みました。息子もギデオン様に心酔しながら立派に育っていきましたが、その間も、私はありとあらゆる手を使って、ドゥール王国を戦から遠ざけました。


その後、ギデオン様は皇太子から王になり、私も長い月日の間に、さらに2人の王子と3人の王女を授かりました。


血は争えないということなのでしょうか、長男もとりわけ海を、船を愛するようになりましたし、軍艦は幼い頃から彼の遊び場でした。

長男が成人を迎えた直後、彼はドゥール王国との国境に当たる海峡まで、軍艦で行きたいと言い出しました。海に囲まれたドゥール王国の様子を見たいのだと。そして、なぜかその時、ギデオン様だけでなく、私のことも誘ったのです。私は、ふと気が向いて、彼と一緒に軍艦に乗ることを承諾しました。……それが、運命を変えるきっかけになるとは、思いもせずに。


女性が軍艦に乗ることは、通常、あまり歓迎されるものではありませんが、私は王妃ということで、例外の扱いでした。初めて軍艦に乗り込み、私も年甲斐なく、少しはしゃいでいたのかもしれません。あまりに国境に近付いた私たちの軍艦に、警告を発するために次第に近付いて来たドゥール王国の軍艦に気付くのが、大分遅くなりました。そのせいで、私は目前まで迫ったドゥール王国の軍艦の上に、未だ胸の中で色鮮やかに残る、彼ーークリフォード様の姿を目にすることになりました。


私は、懐かしさに息を飲みました。歳を重ね、深みを増した彼の顔からは、今でも美しさが失われていませんでした。けれど、次の瞬間、私の目に飛び込んで来たのは、彼の横に歩み寄って来た1人の女性の姿でした。


美しい衣服を身に付けた彼女は、私と同様に、時に軍艦に乗ることも許されるような、身分の高い方なのでしょう。クリフォード様と親しく笑顔を交わし、左手薬指に指輪が輝く様子に、……そして、私自身でも驚くほどに、私によく似た彼女の姿に、私は、彼女がクリフォード様の妻なのだと理解しました。


その時、私の手の中から乾いた音がしました。


ぱきり


思いがけず力の籠った私の掌の中で、手にしていた扇が折れた音でした。


それは、私の心が折れた音だったのかもしれません。


どうして、クリフォード様の隣にいるのが、私ではないのでしょうか。

あなたのために、これほど心を砕いて、ようやくここまで辿り着いたのに。あなたは、テティス号と運命を共にしていたのではなかったのですか。


私がわなわなと身体を震わせていたのとちょうど同じ頃合いで、長男が目を輝かせて私に近付いて来ました。


「ねえ、母上。僕、ドゥール王国が欲しくなったよ」


美しいドゥール王国の港を見て、長男は物欲しそうに目を細めていました。外見はクリフォード様と瓜二つですが、内面は、好戦的なギデオン様にそっくりです。


いつもは彼を諌める役割の私でしたが、その時は、遠くドゥール王国を眺めながら、思わず呟いていました。


「……それも、いいかもしれないわね」


ギデオン様と息子は、少し意外そうに、私の言葉に顔を見合わせていました。


その後、すぐにドゥール王国はデスティア王国の手に落ちました。長男は、あえてドゥール王国の最も得意とする海戦に挑み、完膚なきまでに叩きのめしたそうです。それを受けて、ドゥール王国の国王はすぐに白旗を上げました。結果的には、ドゥール王国内でさほど大きな被害を出すことなく、王国を掌握できたのですから、最もよい戦法だったのかもしれません。けれど、長男が戦いの先陣を切って、ドゥール王国で最も強力なテティス号を海に沈め、乗組員も全滅させたと聞いて、私は言葉が出ませんでした。今頃、クリフォード様は、あの海の底に眠っているのでしょう。


息子は、血の繋がった父のことを、このまま一生知ることはないのでしょうけれど、何と残酷な戦の舞台を、私は彼に用意してしまったのでしょうか。


私はその後、背負ってしまったこの重荷から目を背けたくて、制圧後のドゥール王国の復興や、その他の支配下の国々の統治体制の改善に力を入れました。ギデオン様すら実質的に頭の上がらない私は、いつしか女帝と呼ばれるようになり、ギデオン様と、子供たちの中でも図抜けて優秀な長男と共に、デスティア王国の基盤を揺るぎないものにしていました。


……ある時、言われたことがあります。あなたの最大の幸運は、ドゥール王国の王子に婚約破棄をされたことですね、そのお蔭で、今のあなたがあるのですから、と。

ドゥール王国でたまたま出会した遠縁の貴族に、私の地位を持ち上げるかのように冗談混じりで言われた言葉に、私もいつものように、表情を隠した笑みで応えましたが、心の中では叫んでいました。


あなたに、何がわかるの。私が望んだのは、こんなことじゃなかった。愛する人に愛される人生を、ただ送りたかっただけだったのに。

私の心は一度、あの時に死んだというのに。



その後長い年月が流れ、ギデオン様は、私よりも先に旅立ちました。

最期に、私の顔を目に焼き付けるかのようにじっと見つめて、「ありがとう、オヴェリア……俺の最愛」と呟いてから、静かに息を引き取りました。


私はその時初めて、ギデオン様の手を取って涙を流しました。彼は生涯でただ私だけを愛し、側妃を娶ることもありませんでした。皺の刻まれたその顔には、デスティアの英雄と呼ばれたかつての面影が残り、老いてなお、彫刻のような美しさがありました。

戦に身体が耐えられる最後まで、好戦的なところは変わらなかったギデオン様でしたが、彼は彼で、大陸を統一した方が安定的な国の発展に繋がるという、強い信念があったようです。君が嫌がるような、民を苦しめるようなことはしたくはないと、彼は次第にそう口にするようになっていました。


ギデオン様からいかに大きな愛が与えられていたのかに、私は彼を失って初めて気付いたのです。心からの愛を、彼に一片も返さなかった私を、これほどに愛してくださって。もし、私が彼の愛に素直に応じることができていたならば、彼をもっと幸せにすることができたのでしょうか。



私は、時折、ギデオン様と初めてチェスをした晩を思い出します。

私は、チェスの盤を眺めながら、目の前のゲームに勝とうと決めました。……けれど、結局、このゲームの勝者は誰なのでしょうか?

双方のキングーー当時の皇太子は既に世を去り、私も砂を噛むような人生を送りました。ドゥール王国を攻め落とした、クリフォード様の血を引く長男が、今はデスティア王国を支配しています。これは誰の勝利と呼べばよいのでしょう?


そして、死期が目前に迫って、クリフォード様が昔、私に呟いた言葉も耳に蘇るのです。


『……これは、夢かな?』


クリフォード様に婚約破棄をされるまでは、私も、両足が地に着いていた感覚がありました。けれど、その後は、大きな海のうねりに流されるうちに、知らず知らずのうちにここまで来てしまったような、まるで暗く長い夢を見ていたような、そんな気がしています。瞳を閉じて、また開いたら、目が覚めて、あの若かりし日に戻っていても、不思議ではないような気がするのです。



これが現実ならば、これは悲劇?それとも、喜劇なのでしょうか。


私も、だんだん瞼が重くなってきました。もう、あの世に旅立つ時も、そう遠くはないようです。


ああ、でも、私が永遠に瞳を閉じた後、もしもギデオン様の元に行くことができたなら。

今度こそ、私はあなたの胸に飛び込みたいのです。その時、あなたは私のことを、笑顔で抱きとめてくださるでしょうか。

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