四、湯治の神

 湯あたりしたのか、温泉から上がった後に意識が朦朧として、その夜は厭な夢を見た。


 墨を浸した真っ黒な紙に赤い筆を一筋佩いたように、夜空を流星が駆けていく夢だった。

 燃え盛る赤い星には黒点があり、顔のように見えた。星は体表から伸びる炎の腕で何かを抱えている。

 赤い炎に抱かれているのは、子どもだった。


 俺は布団から跳ね起きる。汗を吸った浴衣がじっとりとまとわりついた。両隣の梅村と江里は静かな寝息を立てていて、部屋は明け方の藍色に染まっていた。障子に映る枯れ木の影が蜘蛛の巣のように見えた。



 宿を出てからも何処となく気持ちが晴れなかった。

 梅村が呆れ顔で肩を竦める。

「何で温泉入って顔色悪くなってんだよ」

「うるせえな。別に湯治に来た訳じゃねえんだぞ」


 湯気と朝露で濡れた石畳に、天狗庵の豪奢な造りが反射していた。

 江里が足を止め、小さく息を漏らす。昨日の家族が城のような門から出てきたところだった。


 夫婦は俺たちに気づいて軽く会釈する。梅村がひとのいい笑みを作った。

「おはようございます。昨日はどうでしたか?」

 少女の母親は途端に口元を押さえて嗚咽した。何か言ってはいけないことを言ったのか。俺は梅村の脇腹を肘で突いた。

「何泣かせてんだよ」

「この会話の何処で泣かせるんだよ」


 母親は何度も首を振り、涙声で言った。

「すみません、お恥ずかしいところを……この子、治ったんです」

 俺たちは顔を見合わせる。父親が影に隠れていた少女の背を押して促した。

「半信半疑でしたが藁にも縋る思いで来て本当によかった。ほら、ご挨拶しなさい」


 ピンクのポンチョが花のように広がり、少女が元気よく飛び出す。

「温泉のお陰で元気になったんだよ!」

 少女は昨日のようにくるりと回転してみせた。足元に危うさはなく、頬にも赤みが差している。

 信じられないが、一夜にして病が完治したとしか思えなかった。ここの領怪神犯は治ったと思い込ませるだけじゃないのか。


 梅村は夫婦と談笑を続けた。江里は表情の読み取れない顔で遠巻きに眺めている。

 俺は訳もなく背筋が冷えるのを感じた。もしかしたら、湯治の神の権能は二種類で、大抵は病が治ったと思い込ませるだけだが、条件が揃えば本当に治してくれるのかもしれない。だったら、喜ぶべきなのに、明け方の夢が思い出されて仕方なかった。


 俺ははしゃいで跳ね回る少女を見つめた。すっかり顔色も良くなっている。それどころか、赤すぎるくらいだ。少女の顔は湯でのぼせたように真っ赤だ。両親は不思議に思わないのか。


 夫婦は梅村と挨拶を交わすと、少女の手を引いて歩き出した。

 すれ違う瞬間、少女が俺を見た。俺は慌てて作り笑いを浮かべる。少女は電池が切れた人形のように表情を打ち消し、唇を動かした。鼓動が大きく脈打ち、一瞬息が止まった。

 全身の毛穴から冷や汗が吹き出す。


 三人の姿が見えなくなってから、梅村が鷹揚に言った。

「信じられないけど、病気の症状がなくなってる。本当に領怪神犯の仕業だったりしてな……」

 梅村は俺を見てぎょっとした。

「どうしたんだよ。さっきより顔色が悪くなってる」

 江里が横から出てきて口を挟んだ。

「病気を他人に移す領怪神犯かもな。烏有が移された」

「変なこと言わないでくださいよ。まさか、違うよな?」

 俺はかぶりを振って何とか唇を開いた。

「あの子にすれ違い様に言われたんだ……」

「何て?」

「『踊れない子なんて要らなかったんだろう』って」

 少女の声は野太く、口調は霊験あらたかな修験僧のようだった。



 源泉の湧く処に行こう、と言ったのは江里だった。

「聞き込みと憶測だけで推理しても堂々巡りだ。神のいる場所に踏み込むしかない」

 俺も梅村も賛同した。真実を確かめるのは恐ろしかったが、これ以上考え込んで嫌な想像をするのは耐えられなかった。


 険しい山道には旅館も土産物屋もなく、申し訳程度にアスファルトで舗装された急な傾斜が続くばかりだった。

 鬱蒼とした森を見ていると遠近感を失いそうになる。道の端の側溝を流れる熱湯が小石を跳ね上げて音を立てた。時折、石垣から突き出す錆びたパイプから熱い水蒸気が噴き出した。


 先頭を歩いていた江里が道の向こうを指す。

「あれじゃないか」

 足を進めると、砂利と白い岩を敷き詰めた空間があり、地面の穴から渾々と湯が湧き出していた。


 俺は泥と混じって横這いに流れる源泉を見下ろした。泡が爆ぜ、湯面に夢で見た星と同じ顔が浮かんだ。俺は思わず飛び退る。次の瞬間にはもう顔は消えていた。

 江里が陰鬱な視線を俺に投げる。

「さっきからどうした」

「……昨日、赤い星が落ちてくる夢を見たんだよ。おかしいよな。天狗と関係ねえのに」

「ありますよ」



 突如割り込んできた老人の声に、心臓が止まるかと思った。江里も梅村も唖然としている。

 領怪神犯かと身構えたが、背後に立っていたのは、作務衣を纏った恰幅の良い老人だった。

「失礼、興味深いお話をしていらしたので」

 老人は矍鑠と笑う。


「私はふるさとの伝説を伝える会の会長をやっておりましてね」

 梅村が素早く向き直り、話を合わせた。

「じゃあ、お詳しいんですね。お話伺ってもいいですか?」

「素人の遊びのようなもので恐縮ですが」

 老人はそう言いつつ胸を張った。


「天狗というのは古来中国で凶兆の流星を指すものだったんですよ。天狗食日食月信仰という伝説もありまして」

「初めて聞きました」

「何故日食や月食が起こるかというと、月の神と太陽の神が不老不死の薬を盗んで逃げ、追いかけた犬に噛みつかれて削られては、薬のお陰でまた治るから、という話ですな」


 天狗と不老不死、何かが繋がりそうだ。俺は老人に歩み寄った。

「だから、病気や怪我が治る秘湯も天狗の湯と呼ばれているんですか」

「ええ。とはいえ、万病に効くという触れ込みは迷信ですがね」

「迷信?」


 老人は山の斜面を示す。石垣にはいくつものパイプが生えていた。細いものは蛇のように何本も絡まっていたが、太いものは一本だけ伸びて根元が地中に埋まっている。


「昔は本当に病にも怪我にも効く秘湯があったそうです。それは、ごく稀に何処からか湧き出すもので、村人は神の恵みとありがたがっていました。しかし、戦後欲を掻いた者が秘湯を必ず得るために全ての源泉をひとつに束ねたのです」

「それで……?」

「神の怒りを勝ったそうです」

 ぞっとする響きだった。


「初め、村人はこれ幸いと生まれつき働くのに不自由な者たちを湯に浸からせて治しました。結果、村は栄えましたが、あるとき、湯を浴びて治った者たちが一斉に姿を消したのです」

 老人は言葉を区切る。

「村人は働き手たちを探して山に踏み入りました。彼らはちょうどここ、湯が湧き出す場所に集っていたそうです。村人たちは何をしているのだと責め立てました。すると、見る間に彼らの肌が赤く変わりました」

 俺は息を呑む。少女の顔も赤かった。


「彼らは一斉に言いました。『見分けもつかぬとは、我らのことなど要らなかったのだろう』と。そして、旋風が起こり、烏のような羽を残して皆、姿を消しました。彼らは消える寸前に、不自由だった頃の姿に戻り、哀しげな顔をして羽根に攫われたそうです」

 老人は黙り込む俺たちを見て取りなすように笑った。

「欲を欠くと元あったものも失うという説教ですな」


 俺たちは作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。

 嫌な想像の点と点が線を結んだ。

 ここの領怪神犯は病を治すんじゃなく、病人や怪我人によく似た健康な姿の偽物を作って返すんじゃないか。だとしたら、本物の少女は何処に消えた。

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