五、湯治の神
俺たちは老人が去った後も源泉の湧く岩場に立ち尽くしていた。
温かな湯煙が外気で冷やされ、凍てつく露となって身体にまとわりつく。俺たちは俯いて誰かが口火を切るのを待っていた。もう皆わかってるんだろう。
俺が言うべきだ。あれはふたりには見えていないはずだから。
岩の間から突き出た、蛇のように交錯する何本ものパイプ。中は見えないはずなのに、俺にはさっきから内側を迸る熱く白い湯が見えていた。
「……天狗の湯にはクジ引きみてえにアタリとハズレがあるんだろうな」
ふたりが同時に俺を見た。
「ハズレの温泉は義手の女将みたいに病気が治ったと思い込む効能がある。アタリの温泉は浸かった人間を連れ去って、健康な身体の元の人間のコピーを作って返す。それがここの領怪神犯の力だ」
梅村はわざとらしく言われて今気づいたとばかりに目を背けた。
「アタリの方がハズレみたいな神だな。ここの神の意図は何だろう。自分の眷属を増やして村を作り変えるなら、一定期間の後、コピーごと引き上げるのは諦めが良すぎるな。楽して労力を増やそうとした村人を戒めるためですかね?」
問いかけられた江里が曖昧に答える。
「くわすの神の報告書にあったように、二柱の領怪神犯がいるのかもな。アタリの温泉を作る神に対抗して、もう一柱の神がハズレの温泉を作り、効果を薄めようとしたのかもしれない」
しゅうしゅうと立ち上った湯気が冷気にぶつかる音がふたりの声をぼやけて響かせた。
俺はかぶりを振った。
「神の意図なんか俺たちにはわかんねえよ。ただ、人間の考えることならわかる」
梅村が訝しげに俺を見る。
「どういう意味だよ」
「温泉街に『ぬいた』って板がかかってただろ。最初は梅村が教えてくれた通りの意味だと思ってたけど違った。俺たちの泊まった宿には風呂が湧いてんのに看板がかかったままだった」
江里が不意に暗い目をした。あの漁村で会ったときと同じ、人間の悪意に抗う気を捨てた無気力な瞳だった。
「宿屋の何割はアタリの湯の効能を知った上で忌避してるってことか」
「たぶんな。あいつらはアタリの湯が自分の温泉に流れて来ないように『ぬいた』の板を魔除けの護符代わりにしてんだ。効果があるかは知らねえけど」
「何も知らない新参者や旅行者にはハズレの湯を与えて、万病に効く秘湯の宣伝効果を守ってる訳か」
「その通りだよ。梅村、俺より遥かに頭いいんだからとっくにわかってただろ?」
梅村は苦渋の表情で呻いた。
「……天狗の湯がアタリの湯を勝手に独占した訳じゃないよな。村人に領怪神犯の被害が及ばないように、余所から来た金持ちだけが秘湯に浸かる方向に仕向けたってことだろ」
俺は頷き、拳を握りしめた。伸びた爪が俺を苛むように手の平に突き刺さった。
夕暮れが空を染め、陽より一段赤い提灯が灯り出した頃、俺たちは再び天狗庵に辿り着いた。豪奢な宿の入り口に、巨大な天狗の面が鎮座している。
俺が踏み出す前に、透かし彫りが施された引き戸がひとりでに開き、黒い着物の男が現れた。宿主の鶴弥は昨日と変わらず、生気のない顔で手拭いを提げていた。
考えるよりも早く、俺は鶴弥の襟首を掴み、引き戸に押し付けていた。
二人分の体重を乗せた透かし彫りのガラスが盛大な音を立てて揺れる。梅村と江里は止めに来なかった。
俺は硬い着物の襟を捻り上げる。白粉を塗ったような首筋は人形じみていて、素肌の方が余計に人間味がない。
「てめえ、全部わかってやってんだろ」
鶴弥は顔色ひとつ変えずに瞬きした。
「何の話でしょうか」
「とぼけんじゃねえよ。万病を治す秘湯が本当はどんな効果か知ってて、何も知らねえ人間に浸からせてきたんだな。村の奴らもグルか?」
鶴弥の黒い目は俺を映さず、背後の烟る温泉街を見つめていた。透明人間になったような気分だ。
鶴弥は微かに口角を上げた。
「だとしたら、どうしますか。詐欺罪で警察へ? せいぜい田舎の温泉街によくある誇大広告としてあしらわれるのが関の山でしょう」
「余裕ぶってんなよ。俺たちはお前らみてえな奴らを……」
俺は唇を噛む。怒りに任せて迂闊に素性を漏らす訳にはいかない。
男は平然と俺を見つめる。
「貴方方が何者で、どうやって天狗の湯のことを知ったのかは問いません。全てわかっていると思った上で言わせてください」
「言い訳かよ……」
「議論ですよ。天狗庵は常人では手が出ない値段を掲げています。客たちは皆、我先にと金を積み、他者を押し退けて予約を取ろうとする。自らのことしか考えない人間には当然の報いではないでしょうか」
ピンクのポンチョの少女の笑顔と、娘のか細い手を握る両親の姿が浮かんだ。押さえていた怒りが首輪を外された獣のように喉の奥を駆け上がる。
「何が報いだ! 勝手に選別してんじゃねえよ! 親が子どもに生きててほしいって思うことの何が悪いんだよ!」
俺は拳を振り上げた。
「切間!」
梅村の声に思わず手が止まる。その名前で呼ばれたら、止まらない訳にはいかない。
俺は拳を下ろし、いっそう力を込めて鶴弥を引き戸に押し付けた。
「家族を作り替えられた奴の気持ち、考えたことあんのかよ……」
「勿論、ありますよ」
予想しなかった答えだった。俺が鶴弥を見返すと同時に、裏口から瓜二つの顔が覗いた。
「鶴弥さん、また問題事?」
鶴弥の母は感情のない目で俺と息子を見比べた。まさかとも思った。鶴弥は平坦な声で答える。
「何でもありません。すぐ戻りますよ」
母親は虫を見るように俺を一瞥し、また奥へと引っ込んだ。
俺は鶴弥の襟を手放す。男は俺の疑念を察したように頷いた。
「嘘だろ……」
「未だに後悔しない日はありません。私も客たちと同じです。病で身体が動かなくなる母の最後の望みを叶えたかった。宿が昔のように栄えるところを見せたかっただけです」
鶴弥は母を秘湯に浸からせたのだ。少女の両親と同じく、藁にも縋る思いで。
鶴弥は着物の襟を正し、何事もなかったように宿の中へと消えた。
厳しい顔の天狗の面が俺たちを睥睨していた。
俺たち三人は賑わい出した大通りを抜け、帰路へと進んだ。
暗くなった温泉街は路地の石畳が湯煙で黒々と濡れ、提灯の反射が広がって血の海のようだった。
梅村が呟く。
「対処はどうするんだよ、切間さん」
「あの野郎の言った通りにするしかねえ。政府に依頼して、万病に効く秘湯は誇大広告だってことにして、宣伝を制限する。それくらいしか浮かばねえよ」
俺が目を伏せると、梅村に力強く肩を叩かれた。
「落ち込むなよ、新入りさん。僕たちはこの程度の案件はいくつも見てきた。対処法が浮かぶだけマシな方だ」
「今までよく折れなかったな」
「真っ当な神経があったらこの仕事はできないぜ。今回は温泉で羽も伸ばせたし、いい任務だったよ」
横顔に微かに滲んだ憂いが見て取れて、空元気を咎める気にもならなかった。
江里はネクタイを緩めながら言った。
「烏有、自分で言ったことを忘れるなよ」
「言われなくてもわかってる。帰ったらすぐに対処を……」
「違う。勝手に選別するなと、あの男に言っただろ」
俺は目を見開いた。江里の浅黒い肌が夜闇に溶けて見えなくなりそうだった。
「自分じゃなく切間が残ればよかったと思うのも勝手な選別だ。あいつはお前に託した。忘れるなよ、自分を信じられなくても切間は信じられるだろ」
江里は言い切って一足早く石段を下る。
俺は足を止めて、赤提灯が咲き誇る大通りを見渡した。
梅村の言う通り、こんな案件はこれからも山ほどあるんだろう。何人もの救えなかった人間を見ていくんだろう。
何年経ってもきっとまた、ピンクのポンチョの少女のことを思い出す。家族が死んで以来行ったことがなかった、この温泉旅行の思い出と共に。
「やるしかねえんだよな……」
まだしばらくはまともに生きられそうにない。
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