三、湯治の神

 俺は考えるより早く、天狗庵の豪奢な透かし彫りが施された引戸に手をかけた。


 戸を開いた瞬間、俺が来ることを予想していたように、黒い着物の若い人物が待ち構えていた。血の気のない白い顔と、緩く結んだ墨のような長髪。幽霊画の女を思い出す。


「お帰りなさいませ」

 声は想像より低かった。黒髪の間から覗いた首に喉仏が見えて、俺はまた怯む。男だ。


 長髪の男は能面じみた顔に微笑を浮かべた。

「生憎、当館は全室予約制でして、本日は満室となっております」

 抑揚のない声が不気味だった。


 俺は気持ちで負けないよう胸を張り、肩幅に足を開いて仏頂面を作った。

「生憎、客じゃない。この宿の宣伝文句に虚偽があると報告を受けた。万病が治ると謳っているそうだな」

「……何方様の言でしょうか」

 男は気後れした様子を微塵も見せずに笑みを浮かべ続けた。

「個人情報は教えられない」

「お客様ではないでしょうね。当館にいらした方なら皆おわかりです。虚偽ではないと」



 そのとき、男の首の辺りから、もうひとつ血の気のない顔が生えた。思わず後退ると、男の後ろから瓜二つの女が姿を覗かせた。ふたりいたのか。

 女は無表情に視線を動かすと、俺など存在しないかのように男に声をかけた。

鶴弥つるやさん、お客様をお待たせしないように」

「はい、母さん」

 平坦な声までそっくりだった。男はわざとらしいほど身を折って礼をすると、長い廊下の向こうに消えた。


 ふたりの足音が消えた頃、梅村が俺の肩を叩いた。

「不気味だな。ちょっと凌子さんみたいだった」

「見てたんなら助太刀くらいしろよ」

 俺が手を振り払うと梅村は肩を竦める。

「姉弟かと思ったら親子なんだな。って、お世辞も通用しなさそうだけど」



 俺は梅村に促されて天狗庵を後にする。

 江里の姿がなかった。辺りを見回すと、坂を脇に逸れたところに茂みがあり、小さな川が流れていた。

 赤い橋の袂で煙草をふかしている江里が見えた。


「堂々とサボんなよ」

 俺が睨むと、江里は億劫そうに首を振る。

「俺を調査に連れてくる方が間違ってる。知識も技術もないんだぞ」

「俺だってねえよ。せめて努力する気くらい見せろ」

 江里は目を瞬かせ、陰鬱に俯いた。

「形から入るもんだな」

「何?」

「言い草が切間に似てきた」

 俺は虚をつかれて黙り込んだ。



 沈黙の中、俺たちは錆びついた赤いブリキのスタンド式灰皿を囲んで煙草を吸う。

 煤で汚れた塗装が虚しくて目を逸らすと、石でまばらに舗装された小川から細い湯気が上がっているのに気付いた。源泉が流れているんだろう。

 烟る水面に小さな灯籠の灯りや季節はずれの紫の花が反射して、何も知らずに来たら旅情を感じられる光景だと思った。


「結局ふたりでサボりかよ。湯治の場に来て煙草ふかして不健康だな」

 呆れ笑いを含んだ声に顔を上げると、梅村が温泉饅頭の売り文句が刻印された紙袋を提げてきた。

「お前もサボりじゃねえか」

「温泉に入る前に糖分を補給するのは医学上理にかなってる」


 梅村は当然のように俺と江里にも饅頭を差し出した。

「宿も取ってきた。天狗庵の真裏だから監視もできる」

「梅村、お前すげえな」

「半年も誰かさんの世話係をしてたらこうなるよ」

 俺は黒い饅頭を握りしめる。ぬくもりが手のひらを伝った。



 橋の向こうから軽い足音が聞こえた。ピンクのポンチョを纏った少女が橋を渡ってくる。天狗庵の前で会った娘だ。

「おじさんたち!」

 少女が駆けてきたので俺は慌てて煙草を灰皿に投げ込む。江里は少し迷ってから咥え煙草で距離を置いた。


 梅村がつんのめりそうな勢いで走る少女を受け止める。

「おじさんじゃなくお兄さんでしょ。パパとママは?」

「宿のひととお話ししてる!」


 少女はモジモジと足を動かして俺を見上げた。

「さっき、ありがとうございました」

「おう。ひとりで歩いて大丈夫かよ。具合が悪くなるかもしれねえんだろ」

「温泉に入れば治るからね! やっと踊りもできるようになるよ」

「日本舞踊か?」

「そう。お母さんの踊りを受け継ぐひとがいなくて困ってたけど、これでもう大丈夫!」

 幼心に親への気遣いがあるのだと思うと、また礼と重なって胸が痛んだ。

「楽しみだな」

 俺が答えると、少女は照れたように笑い、ポンチョを花のように広げて回転してみせた。


「またね!」

 少女は手を振って去って行った。今までの調査から推測するなら、湯の効能は病が治ったと思い込むだけだ。他の領怪神犯よりは危険度が少ないが、見過ごしていいものじゃない。


 離れていた江里がいつの間にか戻ってきて呟いた。

「……何で天狗なんだろうな」

 梅村が口を挟む。

「天狗は医薬をもたらした修験者と同一視されるからじゃないですか。薬箱のモチーフにも使われますよ」

「天狗といえば人攫いだ」

「ろくに喋らねえと思ったら嫌なことだけ言うなよ……」

 俺の言葉に、江里はまだ納得していないような顔をした。



 梅村の言う通り、宿は天狗庵の真裏にあった。

 豪勢な旅館の影に隠れるようにひっそり佇む瓦屋根の構えは、ひどく寂れて見えた。


 老女将も天狗庵の不気味な親子とは正反対にざっくばらんな態度で、親戚の子が来たかのように俺たちを部屋に通した。


 襖を開けると、傷んだ畳に古びた机が置かれ、電気ポットと申し訳程度の茶菓子が俺たちを出迎えた。

「男三人で同じ部屋か」とぼやく江里に、「経費削減だ」と返す。


 低いハンガーラックを押し退けてカーテンを開けると、窓から天狗庵の生垣が見えた。客の声が微かに響く。これなら確かに監視に向いていそうだ。

 小庭にはタオルを干した竿や壊れた洗濯バサミ、アロエの鉢植えがあり、どこまでも鄙びていた。



 女将は足で襖を開けながら言った。

「ご飯の用意しますから、その間にお風呂でも入っちゃいなさいよ」

 梅村が小声で囁く。

「お母さんみたいだな」

 同調して緩みそうになる気を引き締める。これも調査の一環だと自分に言い聞かせた。



 浴場の暖簾を潜ると、引戸に朝見たのと同じ「ぬ」の木板がかかっていた。

「梅村、入っていいと思うか?」

「女将がいいって言ったんだし大丈夫だろ」


 迷ってから引戸を開けると、熱気が押し寄せた。風呂は沸いているようだ。緑の体重計と静止した扇風機がある脱衣所で、籐の籠にスーツを押し込む。


 風呂へと続くガラス戸を引くと、今度は容赦のない冷気が吹きつけた。露天風呂だ。

 竹の柵の向こうから外気が石で縁取られた風呂に流れ、湯の上を湯気が滑っている。


 寒さに負けて飛び込むと、温泉の熱さが肌に噛みついた。

 梅村が「ガキかよ」と笑いながら湯に浸かる。痩せた江里は、後から入っても湯面がほとんど揺れなかった。



 熱さに身体が慣れると同時に疲労が一気に溶け出す。旅行客の声が遠く響いていた。

 冴え冴えとした夜空が霞み、ぼやけた視界に星が滲む。

 これじゃ駄目だと思った。切間たちの代わりにここにいるのに、俺が安穏と恩恵を受けていいはずがない。



 風呂に備え付けられた銀の手すりから水滴が落ちたとき、江里が呟いた。

「烏有、初めて見たときより痩せたな」

「お前に言われたくねえよ」

「昼間の蕎麦もろくに食ってなかった。切間が消えたのに自分が毎日生きてていいのかとでも思ってるんだろ」


 俺は梅村が止める間もなく、咄嗟に江里の肋骨が浮いた胸を突いた。

「お前に何がわかるんだよ」

 江里は怒りもせず、いつもの諦観に満ちた目で俺を見た。

「俺も弟が選ばれた後はそうだったからな」

 俺は息を呑む。江里の弟は呼び潮の神の人柱になった。俺たちが儀式を滅茶苦茶にするまで、江里はどんな想いで毎日暮らしていたのか。



「他人に何を言われても変わらないことも知ってるけどな。……切間は、お前が飯も通らないくらい追い詰められて生きるのを喜ぶ男だと思うか」

 江里は湯で顔を濯ぎ、力なく口元を擦った。

「俺が言えるのはそれくらいだ。もう上がる」

 癖のある髪から雫を滴らせ、江里は湯船から上がった。色黒の背が湯煙に掻き消されて見えなくなる。



 梅村は露天風呂を囲う石に頬杖をついた。

「何だよ、あのひとちゃんと年長者だな」


 俺は結露した銀の手すりに額をつける。氷のような冷たさがのぼせた頭を冷やした。

 俺は何をすればいいだろう。



 天狗庵の方から、水の中で効くようなぼやけた声が聞こえた。

 お父さん、お母さんと呼ぶ甲高い声。あの少女だ。

 今頃、風呂ではしゃいでいるのだろう。


 微笑ましいはずなのに、何故か胸がざわついた。

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