二、湯治の神

「義手って、じゃあ、あの婆さん自分の手が治ったと思い込んでるってことかよ」


 俺は女将の楚々とした微笑みを思い返してぞっとした。自分や周りがおかしいとは欠片も思っていない顔だった。それも、俺たちが調査に行った村ではよくあることだと痛感した。


「梅村、病気や怪我が治ったと思い込む患者っているのかよ」

「ただのビタミン剤を特効薬だって信じて飲むと体調が改善する、プラセボ効果っていうのはあるけど……さすがに失くなった腕が生えたと思い込むレベルの話は聞いたことがないな」


 江里がネクタイを鬱陶しげに弄りながら言った。

「俺の親戚が昔、漁船のスクリューに巻き込まれて片脚を切断した。本人は雨の日、ない脚が時々痛む気がすると言ってたんだ。それと同じか?」

「幻肢痛ですね。でも、それなら四肢が失われた自覚はある自体はあるんですよ」

「じゃあ、あの女将の頭がおかしいだけか」

「江里さん、身も蓋もないですね」

 梅村は苦笑する。


 今ここに切間がいたらもっと問題に深く切り込めていただろうか。凌子だったら、民俗学の知見から推理を進めていただろうか。

 何も持っていない俺が残ってしまった。


 俺はかぶりを振った。残されたのなら、消えた奴らの分まで働くしかない。

「梅村、江里、調査を進めるぞ。同じような住民がいないか調べる」

 声を低くして姿勢を正して言った。本物の切間をふたりがどんな顔で自分を見たか確かめないよう、俺は足早に歩き始めた。



 作務衣姿の若い男が、温泉街の歴史を記した石碑を拭いているのが見えた。俺たちが声をかけると、男は律儀に手を止めて振り返る。

「天狗の湯ですね! 効果は本物ですよ。子どもの頃から酷かったアトピーが一日で治ったんですから」

 作務衣の襟と袖から覗く男の肌は、赤い花弁を垂らしたような疥癬で覆われていた。


 路地の隅の蕎麦屋の前で、女が錆びたスクーターを停めた。女はヘルメットを片手で外しながら俺たちの問いに答えた。

「秘湯ね、流石に信じるしかないかったよ。私、一時期ストレスで何も食べられなかったの。この話の方が信じられないでしょ?今じゃこんなに肉がついちゃって」

 女が差し出した手は骨に薄皮を張りつけただけに思えるほど細かった。



 聞き込みを続けるほど気が重くなった。

 湯煙が絶えず烟らせる村が、幻覚の霧に包まれているように思える。この村の人間は治っていないはずの病や怪我を治ったと思い込んで暮らしているんだ。


 俺たち三人は先程の蕎麦屋に入り、傷だらけの木の卓に着いた。

 梅村が砂色の器に入った焙じ茶を煽って暗い声を出す。

「医学生の端くれとしてもう嫌になってきちゃったよ。いや、これだけ強い思い込みを与えられるなら終末医療に役立つかもな」

「神を利用する気かよ」

「冗談だよ。そう思わなきゃやってらんないって」


 尻が痛むほど硬い木の椅子に腰掛け、薄い座布団を掻き合わせていると、天ぷら蕎麦が運ばれてきた。


 江里は春菊の天麩羅を溺死させるように箸で汁に押し付けながら呟く。

「切間、ここの神は病や怪我を治ったと誤認させる、が結論でいいのか」

「それだけなら調査の依頼が来るはずがない。誰かがここの領怪神犯を危険視したから俺たちに助けを求めたんだ」

「危険なら充分あると思うがな。両脚がない人間が泳げると思い込んで川に飛び込んだらどうなる」


 俺は反論できずに蕎麦を啜った。何かがおかしいことはわかっている。だが、その全貌が掴めない。村に入ってから異様なものを見かけたこともない。

 領怪神犯がいるなら何か見えてもいいはずだ。



 蕎麦を啜る音だけが静かな店内に満ち始めたとき、先程の痩せこけた女が厨房から現れた。

「やだ、お客さんになるって知ってたらもっと丁寧に対応したのに」

 女が微笑むと薄い皮膚が突っ張って頬骨の形が露わになる。


 俺は目を背けつつ尋ねた。

「天狗の湯には何度入ったことが?」

「一度きりだよ。あの守銭奴が独占してるからね」

「天狗庵のことか?」

「もう聞いてるんだ。そうだよ。あそこの夫婦は宿代をとんでもない高値にして遠くから来た金持ちしか相手にしないの。私たち昔からの住人はそれきり入れなくなった」

 女は吐き捨てると、蕎麦湯の入った花柄のポットを置いて去った。


 俺は灰皿を引き寄せる。

「天狗庵に行くしかないか……」

「僕たちの経費で足りるかな」

「聞き込みくらいはできるだろ。どうせ泊りがけになるだろうしな。できるだけ近くに宿を取って様子を伺う」

「産業スパイみたいだな」


 梅村は蕎麦屋を砂色の器に注ぎ、江里に回した。江里は軽く会釈してから俺を見る。

「蕎麦がまだ残ってるぞ」

「後で食うから放っておけよ」

 俺は火をつけた煙草を噛んだ。江里は暗い眼で俺を見続けていた。



 日帰り温泉が開き始め、漆喰の宿の壁や石畳が湿気でニスを塗ったように光って見えた。

 天狗庵は坂道を登り切ったところにあるらしい。


 ホーローの看板で漂白剤入り洗剤を宣伝するコインランドリーや、灯籠と夾竹桃を飾った宿屋を通り抜けたとき、一際大きな旅館が目に入った。


 三階建ての木造の建物は大昔の城のようで、入り口に赤提灯と巨大な天狗の面を掲げている。湯煙の白の中で浮かび上がる赤は、夜見たらぞっとしそうな鮮明さだった。

 梅村が苦笑する。

「わかりやすくてありがたいよな」


 坂道を通りかかる村人は敵意と侮蔑を込めた目で絢爛な天狗庵を睨んだ。



 しばらく立ち尽くしていると、背後から足音が聞こえた。

 一目で他所から来たとわかる、身なりのいい若い夫婦と少女が坂道を登ってきたところだった。

 夫婦は上質な仕立てのコートに身を包み、娘の手を握っている。


 少女はふたつに結った髪に兎の髪飾りをつけてピンクのポンチョを羽織っていた。

 れいと同じ年頃だ。

 両端で自分の手を握る両親が消えることなど微塵も考えていない笑顔に胸が痛んだ。



「天狗だ!」

 少女が両親の手を離して駆け出す。夫婦が止める間もなく、こちらに近づいてきたと思ったとき、少女が急に倒れ込んだ。


 俺は咄嗟に手を差し出す。抱き止めた少女の身体は、紙でできた人形のように軽かった。


 父親の方が慌てて少女に駆け寄り、俺に会釈する。

「危ないだろう。また怪我したらどうするんだ……恐れ入ります」

 俺もつられて軽く頭を下げる。母親は青い顔をして少女を抱き寄せた。

「大丈夫? どこも血が出てない?」

「平気!」

 元気よく答える少女の顔も心なしか血色が悪く見えた。


 梅村が目を見張る。

「娘さん……」

 少女の母親は決まり悪そうに頷いた。

「すみません、この子身体が弱いんです。血が止まりにくい病気で……」

「肘のあたりに青痣がありますね。血友病ですか」

「お詳しいんですね」


 俺は梅村の背を叩いて言う。

「我々は医者の卵なんです。学会の帰りでして」

 母親は感嘆の声を上げた。江里がうんざりした顔で「詐欺師め」と囁く。聞かないふりをした。


 夫婦は眉を下げた。

「お医者さんからしたら呆れるかもしれませんね。万病に効く名湯のためにこんなところまで来るなんて……」

「海外の病院でも治らなかったんです。やれることは全部試しました」


 少女が幼心に親の憂いを感じ取ったのか、不安げにふたりを見つめる。切間が帰らなかった日の、礼のしゃくり上げる声が鼓膜に滲み出した。


 俺は平静な口調を取り繕う。

「呆れることなんてありませんよ。治療には家族を想う気持ちが何より大切ですから」


 少女が小さな手で俺の袖を引いた。

「治ったらね、踊りやるの!」

「踊り?」

「ママは日本舞踊の先生でね、日本に十何人しかいないすごいひとなの。私が踊りの形を受け継ぐんだよ」

 両親が目を細める。俺は少女の細い髪を撫でた。

「じゃあ、早く治してたくさん練習しなきゃな」

 少女は跳ねるように頷いた。スカートから覗いた膝頭が赤黒く鬱血していた。



 親子が旅館の門を潜る。

 そのとき、湯煙の中に火が灯ったような薄い輝きが走った。赤く茫洋とした輪郭、天狗の面だ。

 どこからか沸騰した湯が勢いよく湧き出す、沸騰した音が聞こえる。


「湯治の神……」

 俺は梅村と江里に向き直った。

「あの子と両親が病を認識できなくなったら命に関わる。天狗庵を調査するぞ」

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