一、湯治の神(調査員:"切間蓮二郎"、梅村衛、江里潤一)

 早朝の温泉街は薄く烟る湯気に包まれていた。


 筆文字のフォントが消えかけた旅館の看板も、饅頭を蒸す蒸篭も、濡れたバスタオルがそよぐ物干し台も、全部が蜃気楼の中の幻のようだ。


 俺は「よかった」と思った。活気に満ちた楽しげな光景だったら、自分を絞め殺したくなっていただろう。

 切間きるま冷泉れいぜいも家族で旅行に行くような幸せがあってよかったはずだ。あいつらは当然の機会を奪われた。のうのうと生きている俺だけが楽しんでいいはずがない。



 無意識に俯いていると、隣の梅村うめむらが俺の背を小突いた。

烏有うゆう、ちゃんと前見て歩けよ。小銭は落ちてないぜ」

「探してねえよ。あと、その名前で呼ぶなって言ってんだろ」

「はいはい、切間さん。どうせここには元のお前を知ってる奴しかいないけどな」

 少し後ろを歩く江里えさとが無言で目を逸らす。


 少し前まではこいつらと仲間になるどころか、一緒に調査に赴くなんて考えもしなかった。

 特別調査課が発足して半年。調査員も集まり、徐々に体制が形作られてきたが、まだ足りない部分も多い。

 創設者にあたる俺たち三人が実地調査に赴く羽目になっているのもそういう理由だ。



「しかし、こんな観光地まで領怪神犯がいるのかよ」

 俺たちがいるのは、鄙びた温泉街だ。

 狭い坂道には古風な書体で日帰り温泉やせいろ蕎麦を喧伝する看板が迫り出し、頭上には明かりの消えた提灯が揺れている。

 戦前からありそうな旅館の数々が犇き、日当たりが悪いせいか、所々から絶えず噴出する蒸気のせいか、街全体がじっとりと濡れていた。


「いるから俺たちが呼ばれてんだろ」

「いなくてもいいけどね。有給も取れずに忙殺されそうだったからいい休暇だ」

 梅村がわざと明るい声を出す。初めて会ったときはほとんど敵対していたから軽い口調に苛つきもしたが、今はありがたかった。

こいつの軽薄さは自分や他人がいろんなものに押し潰されないための、こいつなりの気遣いと気合いなのだろう。


 梅村が歩調を緩めつつ振り返る。

「江里さんもそう思いますよね?」

「別に……家族経営の漁師に有給なんてなかったからな」

「漁業と事務仕事はまた違うでしょう」

「まあな。スーツには慣れない」

 江里は痩せた首元を締めるネクタイをうっとおしげに触る。癖のある黒髪から汗の雫が滴った。


 ほんの半年前まで最悪な神がいる村で鬱々としながら漁師をやっていた男だ。俺が対策本部に招かれたときと同じように、何で自分がここにいるんだろうと思っているのが予想できた。その疑問すらも諦めで打ち消していることも。


 梅村が俺に囁く。

「僕ちょっと江里さん苦手なんだよ。距離があるっていうか、嫌われてんのかな。」

「あいつは好きとも嫌いとも思ってねえだろ」

「どうかな。この前も休日何してるのか聞いたら何もしてないの一言だぜ」

「そりゃあ本当に何もしてねえんだよ。江里は釣り堀まで散歩して、釣りするでも客と喋るでもなく、よく来る地域猫に餌やって触って帰るんだよ」

「二十分で終わることを一日かけて?」

「おう。前に本人から聞いた」

「最近草食系なんて言うけど、江里さんってそれ通り越して植物だよな」



 梅村の無駄話にありがたさより鬱陶しさが勝ってきたところで坂の勾配が途切れた。

 俺は手を叩いてふたりに向き直る。

「観光地だとしても俺たちがやることは仕事だ。本件に取り掛かるぞ」

 土産物屋のショーウィンドウに自分の横顔が映る。姿勢も、表情も、また無意識に切間を真似ていた。


「今回の目的はこの温泉地のどこかにあるという、万病が治る湯だ」

 梅村が肩を竦める。

「何処にでもあるような売り文句だな」

「売り文句で済まないから俺たちが呼ばれた。報告によれば、癌や白血病のような重篤な病から、生まれ持った身体の疾患、欠損した四肢まで治ったという。上は領怪神犯が絡んでいると踏んだ」

「でも、その湯が何処にあるかわからないんだろ」

「これから聞き込みを行う。江里、お前もだ」

 梅村の影に隠れていた江里が小さく舌打ちをした。



 温泉宿から宿泊客たちが出てくる時間だ。

 藍の暖簾や、雪の結晶の飾りを貼った磨りガラスを潜り、艶のいい顔に笑みを浮かべた人々が現れる。冬だというのに、薄い浴衣に羽織をかけただけの夫婦もいた。


 梅村が辺りを見回しながら言った。

「とはいえ、これじゃ観光客と地元民の見分けがつかないな」

「厚着で荷物が多いのは観光客。ほとんど手ぶらで余所行きの格好をしてないのが地元民だ。簡単だろ」

「流石詐欺師。よく見てるな」



 梅村の皮肉を無視して、俺は黄色のプラスティック桶を片手に出てきた老人に歩み寄った。

 東京にいる間に凝り固まった表情筋を解し、できるだけ軽薄な笑みを作る。

「すみません、ちょっといいですか?」

 俺が呼び止めると、老人は禿頭から湯気を上げながら愛想良く答えた。


「朝っぱらからスーツで温泉かい?」

「それがお仕事なんですよ。旅行ガイドマップを作ってる出版社のものでして。東京から来ました」

「東京から? よくこんなところ見つけたなあ」


 いつの間にか横に並んだ梅村も調子を合わせる。

「いやあ、僕たちも早く取材を終えてひとっ風呂浴びたいんですけどね。何処かお勧めありますか?」


 老人は濡れた手拭いで頭を擦った。

「有名処の宿なら紅運閣や銀蓮荘だけど……隠れた名湯っていうなら、天狗の湯だな」

「天狗の湯?」

「ここらの連中はみんな言うぜ。浸かるとどんな病気も怪我も治る極楽みたいな湯なんだと」

 俺と梅村は顔を見合わせる。


「……何処にあるんですか?」

「実のところ俺も定年退職して引っ越してきたばっかりだから詳しくねえんだ。でも、翠春って旅館の婆さんが詳しいから聞いてみな」


 老人が立ち去り、俺たちは話に聞いた旅館を探して歩き出した。

 電柱に絡んだ提灯が揺れるたび、ぎぃぎぃと不穏な音を立て首吊り死体を想像させる。


 濡れた石畳を進むと、入り口に竹の柵と天狗の面を飾った鄙びた宿屋が現れた。文字の剥げかけた看板には翠春とある。

 引き戸から藍染の着物を纏った老婆が現れ、入り口に「ぬ」と書かれた木板を下げた。


「ぬ……?」

 俺が眉間に皺を寄せると、江里が独り言のように呟いた。

「銭湯でよくある看板だ。『ぬ』は湯を抜いたから準備中、『わ』は湧いたから開業中」

「ぬの板で抜いた、駄洒落かよ」



 老婆が俺たちに気づいて会釈する。俺は慌てて呼び止め、聞き込みを始めた。

「万病の治る秘湯ですか……」

 老婆は慇懃な笑みで応えたが、部外者に対する壁を感じる態度だった。何かを隠していることはわかった。


 俺は江里を引き寄せ、漁師だったとは思えない枯れ木のような腕を見せつける。

「何とかこいつを治してやりたいんです。ほら、こんなに痩せてる」

 江里がこの世の終わりのような壮絶な目で俺を睨んだ。老婆はまじまじと江里を見つめ、ふっと息を吐いた。


「天狗の湯はですね、時間も場所が決まってなきんですよ」

「どういうことですか」

「ここ一帯の宿に温泉を通してるパイプがあるんです。配管の何処か一本に普段は山奥の秘湯に繋がるものがあって、時折湯が沸くと何処かの宿に流れ出すんですよ」

「じゃあ、入ろうと思っても入れないってことですか?」

「それがねえ、天狗庵という名前の旅館がそれらしい配管を独占したんです。最近じゃ何も知らない余所のお客さんまでそこに行くようになって……みんなのものをお金儲けに使うなんて品がない話ですよ」


 老婆は上品な笑みに微かな侮蔑と怒りを滲ませた。梅村が明るい声で割り込む。

「女将さんは天狗の湯に入ったことはあるんですか?」

「ええ、昔にね」

「道理で今も若くてお綺麗なんですね」

「あら、嫌だ。煽てても何も出ませんよ」

 老婆は仄暗い表情を打ち消して頬を緩める。俺は梅村の腹を肘で小突いた。


 江里は壮絶な目つきをしたまま言った。

「天狗の湯に入れば俺の病気も治りますか」

 睨めつけるような視線から逃げる俺を余所に、女将は鷹揚に頷く。

「迷信だと思うでしょうけど、私も大怪我が治ったんですよ。車の事故で左手の感覚を失ったんです。それが、天狗の湯に入ったら奇跡的に神経が元通りに。お陰で三十年も宿を切り盛りできるようになりました」

 俺たちは同時に息を呑んだ。



 女将が店じまいに戻り、俺と梅村は言葉を交わす。

「手の神経が、ねえ……」

「真偽はわからねえが、天狗庵に向かいつつ調査を進めるか。おい、江里。悪かったからいい加減に機嫌直せよ」


 江里は竹の柵を睨み続けていた。てっきり怒っているものだと思ったが、江里は訝しげに首を振っただけだった。

「お前ら気づかなかったのか」

「何が?」

「あの婆さんの左腕、義手だったぞ」



 石畳に満ちる湯煙で温まった頬から、血の気が失せるのを感じた。

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